高知ファンクラブ

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長宗我部ファンクラブ通信・・・2013年 睦月号(1月8日発行)

2013-01-09 | 高知の偉人(歴史上)

長宗我部ファンクラブ通信・・・2013年 睦月号(1月8日発行)

新年、あけましておめでとうございます。

今年は元旦に天気がよく、初日の出が良く見れたそうですね。皆さんはどうお過ごしだったでしょうか?坂崎は新年が明けると同時に初詣に繰り出すつもりでしたが、空腹に負けて新年あけてから年越しそばを食べ…などとやっていたら、2時を過ぎてしまい急いで氏神様(日高村の小村神社)に行ったものの、すでに参拝客がおらず参道が真っ暗だったのですごすごと帰ってきました……(涙)。寝過ごして日の出も見れず……。でも、初詣はたくさん廻りました!!皆さんはどちらに参られたでしょうか?

 と、長くなりました。では……今年一年も皆様のご多幸をお祈りします。また、本年もよろしくお願いいたします。

 

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┃(1)12月7日長宗我部を語る会スタッフ間での反省会がありました

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12月7日、長宗我部を語る会のスタッフ間での反省会が開かれました。

 この日は長宗我部慰霊祭についての進行上の反省点や、改善点を話合いました。語る会とは別にスタッフ同士の打ち合わせの場を月一回設けて、そちらでイベント等の打ち合わせや段取りを行っています。今回は前回の反省点を主に出してゆきました。

 やはり、もっと慰霊祭を主催されているところや、わざわざ県外から訪れてくださる方との連絡を密にして、スタッフ間でわからないことが無いようにする事、直会の後のフリートークについてはもっと早い段階から打ち合わせをして、どうすれば楽しめるかというのを検討していくようにする、といった内容になりました。今回から議事録を作りましたので、どういった話し合いだったか気になる方がいましたら、ゆうあい工房さんにファイルを置かせてもらうようにしますので、目を通してみてください。

 うん、今年も駐車場で込み合ったところもあり、駐車場表示は前日くらいから用意しておく!というような話にもなりました。あと、意外と地元の方が慰霊祭を知らないということもあり、地元への普及も大切ではないかと思いました……。

 

 実は……12月14日に語る会を行ったのですが、12月の第二金曜日ということで忘年会等の行事で中々これない方が多かったと思いますが……出席者がなんと4名!!後で一人増えましたが、人が増えたのは20時を過ぎてからの事でした。ここ数か月、出席者の数も減ってきていますので、悩みどころであります。もし、時間が合えばまた語る会にも顔を出してみてください!!

 

 次回の語る会は、1月25日(金)になります。

 

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┃(2)1月13日(日) いよいよ第一回合戦ウォークです!!!

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 思えば、第一回初陣ウォークの後、高知駅前広場で安芸の方と話し合ったのが最初だったと思います。話はトントン拍子に進み、平成25年1月13日(日)第一回合戦ウォークが開かれます。これは史実に基づき、長宗我部元親率いる長宗我部軍と、安芸国虎率いる安芸軍が戦った八流の戦いにちなんだものです!!……もちろん、合戦ということで両軍が戦いますが、平成の世の長宗我部vs安芸は平和的な『グルメ』『スイーツ』『ゲーム』の三試合で行います。以下は詳細です。

まだまだ定員枠には空きがありますので、みなさん、家族や友人に声を掛け、奮ってご応募ください。

 

 1安芸軍コース(6キロ程度):安芸駅東広場~浄貞寺~新城城跡~穴内城跡~穴内公民館       【9:10安芸駅集合・受付   9:30出発】

 2長宗我部軍コース(10キロ程度):夜須駅下広場~サイクリングロード~八流古戦場跡~穴内公民館 【9:00夜須駅集合・受付   9:20出発】

 

 両軍ともに定員30名。参加費:2000円(高校生以下は1200円、段ボール甲冑等自前で鎧を着てこられた方は1000円)

 申し込み先】「サンエススポーツ健康館 電話:088-822-1522 FAX:088-822-2340  担当:久保・竹村まで」

 申し込みの際は、「長宗我部軍」か「安芸軍」のどちらで参陣するかを伝え、御名前・御住所・お電話番号・性別・年齢(10代、20代といった年代で構いません。)を担当者の方にはっきり伝えてください。

 

 グルメ対決…「西島園芸団地トマトカレーvs安芸のちりめん丼」

 スイーツ対決…「もとちかくんカステラvs美味しいフィナンシェ」

 ゲーム対決…当日のお楽しみ♪

 

 

 今回、安芸方は国道ではなく、市道を通ります。安芸市以外の方は国道しか通ったことがないと思うので、国道横の山の上にある穴内地区の市道は知らない方も多いのではないでしょうか?南側が180°開けていますので、景色がとても良いですよvあと、国虎が自害した浄貞寺跡の案内や、城跡の案内もしていただけます♪

 

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┃(3)須崎市上分甲にある津野神社

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 今年、初詣に行った津野神社。国道沿いの山の中にある小さな神社です。国道沿いにあると言っても、道路側には鳥居も看板も、そこに神社があるという何らかの印があるわけではありません。去年、あしげく通った檮原に向かう途中、カーナビが教えてくれた神社でした。

 場所は運慶作の大日如来像で有名になった上分の集落の少し手前…国道197号から須崎市へと抜ける県道の手前になります。国道の北側にコンクリートで覆われた山の斜面。その斜面に創られた幅90センチほどの階段が入り口。ちょうどこの入口の道路を挟んで南側に一軒だけ家があり、その家の手前の歩道が少し広くなっているので、そこに車を停めて登りました。

 傾斜が45度くらいあるので、正直しんどいです。しかも階段は三メートルほどで無くなり、あとはコンクリートで舗装された道だけ。それもコンクリートで覆われた斜面の頂点に来ると無くなりあとは山道になります。しかし、山に入るとシイタケ栽培をされている方がいるようで、道は比較的広く、傾斜がきついことを除けば、そんなに悪い道でもありません…まあ…雨の日の翌日はよく滑ると思います。枯草ある上に赤土ですから…(汗)。

 登り始めて10分ほど、シイタケの原木を置いてあるところから過ぎたら、少し空気が変わって来ます。さらに奥に行くと、石の鳥居があり、その向こうに小さな神社があります。どちらかというと昔ながらの神社、というより側壁がトタン板になっていて、正面はサッシの引き戸という現在風の神社でした。きっとここ十数年の内に建て直しをしたのでしょう。しかし、神社の手前に須崎市が作った説明板が建てられていました。

 それによると、この津野神社には津野家十八公が祀られており、最後の当主・親忠の死後に建てられたというもの。説明文の主人公はやはり親忠で、津野家末代の名君と言われていたが、実父・元親の怒りを買い、香美市の岩村寺に幽閉。翌年奸臣久武親直により詰め腹を切らされ自殺(この書き方が現在らしいですね)。親忠の死を知らされた家臣領民は親が死んだように嘆き悲しみ、津野家領内の各所に津野神社や孝山寺を建て親忠の拝礼・供養をしたという。とありました。

 この神社の裏手には親忠の墓があり、最初は五輪塔、江戸時代に入ると当時の形式での高さのあるお墓を建て、江戸時代以降…近年にも一つ建てています。五輪塔はもう崩れて地面に並べられていましたが、苔むした墓石には津野親忠の名前が刻まれてあり、その手前にある近年っぽいお墓にも親忠の名前がありました。

 親忠の遺体は香美市の津野神社の下に眠っていると言います。こちらのお墓には何もない、形式だけのお墓ですが、それでも家臣や領民達は親忠を想い手を合わせたんでしょうね……。

 

 しみじみして山を降りましたが……車に帰るころには大きく息切れし、太腿がパンパンに張ってかなり痛かったです(汗)。年末、運動をろくにせず、食べてばかりの鈍った体にはかなりきつかったです、はい。

 

※坂崎の史跡紀行(後編)は来月号に掲載致します。

 

■ ご意見、ご感想などはお気軽にどうぞ!

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お問合せ  :dokodemodoa0328@yahoo.co.jp

 

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根木勢介 さんの記事・・・高知城その5: 兼山の肖像画

2013-01-09 | 高知のイベント情報
根木勢介 さんの記事・・・高知城その5: 兼山の肖像画
 
 

ある方からの年賀状によると、「長岡謙吉」の顕彰碑ができるそうです。

  『今年は念願の「龍馬死後の海援隊隊長・長岡謙吉※の顕彰碑」も南はりまや町に

   実現します。それにつけても、今日の土佐人は何か元気がなくなったと思えてなりません。

   損得を越えて、世のため人のために生きた”土佐人をテーマとした絵画展”が

   できないかと今、考えております。』

●今日は、高知県立美術館で開かれている「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家

 の秘宝」展に女房と行って来ました。

 リヒテンシュタイイン家は、日本でいえば、「地方の一大名」のような極小国。

 この国は、現在でも人口が、三万人余だそうです。

 日本の歴史でいえば、「兼山時代」の作品も会場にずらっと並んでおり、よくも

 今日まで、散逸せず残ったものだと驚きました。

 会場にリヒテンシュタイン家の「家系図」がありましたが、日本の家系図とは、

 違って「何代目」の表示はありません。

 日本の「作られた」家系図と違って、”真正”なものでしょうから、よく”改易

 や領地を取(り上げ)られず”家系が続いているものだとこれにも驚かされます。 

 

◆Nさん、Yさんから、次のメールをいただきました。

・えんの生母は、池きさではないでしょうか。

・お城周辺、面白うて悲しいねぇ。祖母の合さんも・・・。ご登場願えませんか?

案内所から一豊像までの合間に、一寸お話するのによかったけど。

 

・う~ん。確かに。幕府にいて、急進なお仕置きをなさるとなると、

しもじもはおおごと。まだまだ、土佐でやりたいこともあったのでは・・

わが殿様、外様であったことが苦労の種か?

独断の強さが不幸の始まりか、身体を賭けたお仕置きだったと思う。

山田の屋敷跡、舟入川のそばに立った時、兼山先生~と叫びたい

愛しさと哀れさを感じました。

 

・あだたぬは仇とかきますか?なんか方言の意味がちがうような?

 

⇒根木の返信:

 【あだつ(動)】高知県方言辞典より

  はいる。はいりきる。

  「ちょっと足摺へ行ったばーなことに、近所や親戚へ、いちいちみやげものを

  買ーちゃるゆうーたら、アダツかや。

  (多くの人に一々金をかけてみやげ物を買うことはできぬの意。)

  注)「あだたん」という否定形がよく使用される。

    「龍馬は、土佐にアダタン人物やった」

    「人数がおおーて(多くて)、この講堂にゃアダタン」など。

 

  ★結論:Yさんの指摘通り、あだたぬは、カタカナか、ひらがな、のようです。

 

■高知城:①兼山の肖像画

・野中兼山と其の時代・平尾道雄著・高知県文教協会刊1pより

 

一、兼山の画像

 

 「古語実録」と題する古書に、野中兼山を評して「器量骨柄世に秀でたる人」と

書き、江戸の評判では「日本一の家老なり。

年若にして髻(もとどり)の毛厚きゆえ家老づきせぬ」ともあって、これを聞いた

兼山はさっそく家来を呼んで髻の毛を抜かせたとも書いてあるし、身長は六尺一寸

あったとも見えている。

土州の大守山内忠義は、六尺三寸、忠義の小姓松田五郎太夫はこれより大きくて

六尺五寸、江戸在府のとき、この大男三人組が同じ身支度で時折り町へ出かける。

お忍びの慰みでそっと出かけるのだが、いつとなく世間に知れてうわさの種になった

というのである。

この三人が、あるとき囲碁をやった。興つきて、力自慢の忠義が碁石を盤の上に置き、

親指でぎゅっと押し付けると碁石は盤木へめりこんでしまった。

かわって兼山がやると碁石はくだけて飛び散った。

次に五郎八がやると殿様の忠義がやったと同じく盤面へもりこんだというはなしが

ある。

世間話を書いたものでまともに受け取ることはできないが、いずれにせよ人並み

はずれた大男で、力持ちだったことが想像される。忠義と五郎太夫のばあいは、

碁石がめりこみ、兼山のは砕けてはねたとさりげなく書かれてあるが、はしなくも

そこに兼山の気性のはげしさが語られているのではないか。

野中兼山について書かれたものは随分たくさんあるが、その容貌や風采について、

私はこのほかに見当たらない。

 

こんにちよく見かける兼山肖像画について、私は故公文菊僊画伯から次のような

裏話を聞いた。昭和十五、六年のことで、当時画伯は東京郊外の五反田に住んでいた。

画伯は坂本龍馬画像の絵筆をとっていたが、そのほか武市瑞山、間崎滄浪、吉村虎太郎

らの肖像研究にもいろいろ苦心しておられたのである。

そんな苦心談のなかで、画伯は兼山画像のことについて問わず語りにその思い出話を

聞かせてくれた。

『実は古いことだが、文部省から依頼を受けて、私がそれを書くことになったのです。

 ところがーーー』

兼山の肖像というものは、いろいろと手をつくしたが、どこにも残っていない。

そこで制作することになって、いろいろと伝記を調べてはどんな性格を持っていたか。

こんな性格ならばどんな目鼻だちをしているか。どんな口元をしているか。

いろいろ想像してみる。

そのころ高知の新京橋付近に野中太内という人の娘が住んでいた。もう相当の年配

だったが、これが兼山一族の流れだというので、その人の顔立ちに自分の想像を

あわせてみる。

やっと、制作して文部省の係へ提出しておいたが、どうも心がおちつかない。

どこかに兼山先生のほんものの肖像が保存されていて、発表されたらという不安である。

 

それから忘れるともなく数年経って、あるとき画友の一人がやってきた。

そして、『上野の博物館に兼山の肖像画が出ているそうだが、知っているか。』

という報告である。

『驚きましたね。私は、顔色を変えて博物館へ駈けつけましたよ。ところが、---』

そこで発見したのは、かって文部省へ提出した自分の作品だった、というのである。

画伯は胸をなぜおろした当時を回想しながら静かに笑った。

評伝記書に使われている兼山画像は菊僊画伯のものでなく、上村(うえむら)昌訓画伯

の作である。

明治三十年頃のことで、当時の内務省から兼山画像の提出を高知県に求めてきた。

県の勧業課で詮議したが発見できないので昌訓画伯(当時第一中学校教諭)に依頼、

野中太内の娘が小藤某に嫁ぎ、高知城北麓に住み、茶や裁縫を教えているのを知って

いろいろ研究し制作して内務省へ納めた。

関東の震災で現物は焼けたらしいというのである。

(寺石正路・土佐史談三十号所載)不惑を過ぎると、人間は自分から自分の顔をつくる

ものだという説がある。

形成された人間は、その個性を顔にあらわすようになるという意味であろう。

私は、そのとき「古語実録」で知った兼山の風采を画伯に話した。

画伯はそれを知らなかったと答えて残念がったが、兼山のもつ気迫や体力をその画像に

認めることができるならば菊僊画伯の制作も成功したものといえるだろう。

ともあれ、兼山は戦国の余風消えやらぬあらあらしい時代にたくましく、すぐれた

象徴的な人間だったのである。

 

⇒根木の注)

 現在の評伝記書に一般に見られる「兼山画像」は、上記で平尾さんが話されている

 公文菊僊画伯のものです。

 

 

※根木より:

・Nさんから婉の母は、「池 きさ 」では、ないかの問い合わせをいただきました。

 大原富枝さんの「婉という女」では、「池 まさ」となっていますが、

 調べてみると、他の本(伝記本)では、Nさんの言われる通り、「池 きさ」でした。

 「小説」家として、”故意に”「まさ」としたのか、大原さんの本意はわかりません。

 

・次回にでも、兼山祖母の「合(ごう)姫」=山内一豊の妹に触れます。

 

 

◆長岡謙吉のこと:長崎でシーボルトに学んだそうです。

<長崎遊学事典・平松勘治著 ・渓水社より>

 

長岡謙吉 の項:

 1834~1872年(天保5年~明治5年)江戸時代末期の海援隊士、明治時代

初期の官僚。名は、恂・敦美など、字は子行、通称は純正・謙吉など、号は檜山・

懐山など。代々医業に携わる長岡孝順の子として土佐国高知城下に生まれた。

初め碩学の土佐藩士河田小龍に師事した。

1852(嘉永5年)年、大坂・江戸に遊学して医学と詩文を修めた。

1859(安政6)年26歳のとき、長崎に遊学した。同年、再び来朝した

シーボルトから蘭方を学び、代わりにその長子アレキサンデルに日本語を教えたと

言われる。

1861(文久1)年キリシタンの嫌疑を受けて、帰国を命じられ、追放の刑で同国

長岡郡大津村鹿児(高知市)に蟄居した。

赦免後、再び長崎に赴いて坂本龍馬の配下に入り、1867(慶応3年)年海援隊が

結成されると文司(書紀)として隊の往復文書のほとんどを手掛けた。

同年、龍馬が土佐藩参政後藤象二郎に提出した独自の国家構想『船中八策』も、龍馬の

意を受けて謙吉が起草したものである。

また、肥前国彼杵郡浦上山里村(長崎市)におけるキリシタンの復活を見聞して

『閑愁録』を著し、海援隊から出版した。

龍馬の横死によって海援隊は解散に追い込まれたが、一部の同志とともに讃岐国

塩飽諸島(香川県丸亀市)で隊の再建を図った。

1868(明治1年)年の戊辰戦争の際、土佐藩に、佐幕派の讃岐国(香川県)

高松藩と伊予国(愛媛県)松山藩の征討令が発せられると、ただちに高松城下

(高松市)に赴き、旧知の藩儒藤沢南岳を通じて藩主松平頼聡に恭順を説いて

成功した。

塩飽諸島を本拠に海援隊が再編されて隊長に選ばれると新政府に海軍創設意見書を

建白するなど龍馬の後継者として活動を始めたが間もなくして土佐藩から隊の解散を

通告された。その後、新政府に登用されて三河藩(後に愛知県に編入)知事に

就任した。

さらに大蔵省・工部省に出仕したが、若くして東京で病没した。

<参考文献>『日本人名大事典』「朝日日本歴史人物事典』『三百藩家臣人名事典』

『明治維新人名辞典』『高知県人名事典』

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

   
 
 

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第3回 磁器上絵付け 体験教室 (マイ マグカップ)

2013-01-09 | 高知のイベント情報

第3回 磁器上絵付け 体験教室 (マイ マグカップ) 平和公民館 2012.10.18

 

1. ハンドクリームをつけている方は、石けんで手を洗いましょう。

2.作品のイメージを決めましょう。

 

 

1. ティッシュにアルコールを付けて、白磁をキレイに拭きます。

2. 素材(マグカップ)に鉛筆でデザインの目安をつけます。

3. 転写紙をハサミやカッターで好みの形に切ったり、

   パンチで切り抜きましょう。

4. 転写紙を30秒ほど 水に浸して、フィルムと台紙が 外れるようにします。

  白磁の上で、台紙下に指を添え、上のフィルムを 軽く押さえ、

下の台紙を 抜き取ります。  一枚ずつ水に入れましょう!

   5. テッシュで軽く押さえて水分を取ります。

   ゴムべらで軽くなで、中の空気を抜きます。

6. 手描き下絵の裏を鉛筆でなぞり、ペンでカップに写します。

7. 平筆・円筆で絵を描きます。

   絵の具の色を変える時は、筆を水で洗います。

8. 最後に筆で、サインをしましょう。

川田さんの 磁器上絵付け 体験教室 目次

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第2回 磁器上絵付け 体験教室 (参加者の皆さんの作品)

2013-01-09 | 高知のイベント情報

第2回 磁器上絵付け 体験教室 (参加者の皆さんの作品  2011年12月4日)

 

 

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