高知ファンクラブ

“高知をもっと元気にする”ボランティア集団、「高知ファンクラブ」の仲間が発信するブログです。

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・ちびっこ島木彫館のオープンまで(1/2)

2017-08-07 | なんでも情報ボックス

ちびっこ島木彫館のオープンまで(1/2)

                                                No.183、高知ファンクラブ、8(2017)

 大根の鎖切りの様に、木材の丸太から連続した鎖を切り出す匠の技の作品を始めて見たのは、高知県総合森林センター付設の「森の情報交流館」であり、玄関外の右側を飾っている。杉丸太から削り出しただけなので、すでに暗く色褪せており、目立たなくなっている。小型のチェンソーを巧みに操っている山本裕市さんとの出会いは、森の情報交流館での山の日のイベントのときである。妻の一枝が始めて山本さんにお会いしたのは、布師田の高知県地場産センターで開催された「第4回高知もくもくランド2009」(3/14~15)の時である。

「始めて山本ご夫妻にお会いしてから」     (記;鈴木一枝)

 展示してある「閉じた傘」が欲しくて、そのコーナーの担当者を探していたら、奥様が現れて、山本さんを呼んで来てくれた。さっそくチェンソーでの丸太の鎖の製作作業を披露して下さった。ホーッと感心・感激したのである。そして、お名前と浦戸の住所をお聞きした。

 後日、浦戸のお宅に押しかけて、居間に飾ってある作品、納屋の棚に置いてある作品、工房にある制作中の作品などを見せて頂き、木彫り像を預かって帰るようになった。素朴な、ユーモアのある作風に惹かれ、私が御免で喫茶店を開業していた頃は、値札を付けて展示させて頂いたのである。珍しさもあり、注文が殺到した。時には、失敗作だから安くすると言われて買い取ったもの、気に入らないからとタダで貰ったもの、注文で作成したがイメージが出ていないと返品されたものもある。我が家のウッドデッキに置いている大きなテーブルがその一例である。楕円形状の厚い天板ガラスの原価だけで譲って貰ったものである。

 居間・寝室のインテリアは。亀、オコゼ、フクロウの室内ランプは夜の寝室や客間を明るくしてくれる。菓子折り袋の文房具・鉛筆立てはパソコン机の上にあり、切り株の中で切り離した球状ボールが動くようにした丸太の椅子がある。

 庭を飾るエクステリアは。既に、「歴史民俗博物館のような我が家」でも述べたように(註)、唐箕やこまざらえ・除草機を置いてある。加えて、門番のように立つコロポックル2体と1匹の猿、段々の北斜面には角が見事な牡鹿が4頭、車庫を守るように座っているカッパが4体、大きく口を開けた鯨1匹、枝にぶら下がる小鳥のエサ台が1つ、そして鉢を置く為の大きな木製の靴が2足と、それのモデルとした陶磁器製の靴1足が花壇を飾っている。余談になるが、この木製靴は好評で50足を超える注文があったと聞いている。

中にはどうにも飾りたくない木彫もある。例えば、大きなカツオが出て来る水道蛇口、猫が食べ残した魚の骨、よれよれになったハンガーの背広、股覗きのお坊さんなどである。

 ご夫妻の人柄は、その作品の木彫りさながらに素朴で、気さくで、漁師が本業と言いながら御畳瀬のチリメンジャコをパック一杯に持たせて下さることも多かった。賀状のやり取りもしていたが、しばらくお会いしていなくても、何時も会っている感じで、何の遠慮も要らない間柄になっていたと言っても過言ではない。

 回覧板を持って来た近所の奥様が、玄関先に座っているコロポックルの笑顔を見て、「可愛らしいね。家にも欲しいわ。どこで手に入れたの」とのこと、そして電話で注文を取り次ぐと、元の図面も写真も見付からないので作品を見せて欲しいとのことで、我が家のコロポックルを車に乗せて、山本氏宅に向かっていた。その途上で、そのコロポックルを見た知人も「私にも。是非とも欲しいわ」と次々と注文が集まってきたのである。母も乗せて山本さんを訪れると、「横矢さんと云う人が、こじゃんと、いっぱい木彫を集めちゅうき、いっぺん見に行って来いや。なんやったら、わしが連れて行っちゃらえ」とのことである。須崎の浦の内へ連れて行ってもらう相談がまとまった。行く先は、この時はまだ呼び名は検討中とのことだったが、整備中の「ちびっこ島木彫館」だったのである。 

 註)情報プラットフォーム、No.262,7(2007)

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )

 


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅻ)、三角屋根

2017-07-14 | なんでも情報ボックス

土佐の高知にありがとう(Ⅻ)、三角屋根      

                                              No.182,高知ファンクラブ,7(2017)

 ここでは、先妻ちえ子が残した遺稿(応募作品)を利用して、高知で一軒家を購入した時のエピソードを紹介させて頂く。

大きな衝動買い      (記:2001/10/1)

 ちえ子が通信教育の随筆講座を申し込んだのは1998年の初夏、高知市内に住んでいるときです。この随筆を提出したのは、土佐山田に家を買った直後の8月のことです。これは第1回の「お気に入り」をテーマにした添削課題に提出したものです。「講評」が付いていました。

 「売り主も感じの良い人だった」とちえ子の文章にもあるように、その後もお付き合いを頂いています。先方の言い値で契約しようとしたとき、「値切らなくても宜しいのですか。少しお引きしましょう」と言われてしまいました。その位に、この家は理想的な、そして夢に描いていたそのものだったのです。沢山の分譲団地を見に行きました。でも、それらはミニ・ニュウータウンでした。首都圏には幾らでもある普通の住宅団地でした。それらは探している高知ではありませんでした。

 娘の葉子は小さい時から、三角お屋根の家に住みたいと言っていました。マンションでは犬が飼えません。その娘が家を出た今、その三角屋根の家に住むことが出来るとは皮肉なものです。それにしても、この時点で「緑の見える場所で病気になりたい」などと、何故、書いたのでしょうか。

家を買う、土佐山田に      (鈴木ちえ子の応募文章とそれの講評:1998/8/10)

   結婚以来30年、住宅公団、民間マンションなどの集合住宅で生活してきた。夫65歳、私61歳、そろそろ人生締めくくりの時期に入ってふと考え込んだ。ここで病気になって良いか、ここで死んでも良いか、つい先頃まで鍵一つで出られ、管理人任せの便利さ、仕事にも旅行にも気軽に出られ、歳を取ってからもこの簡素な生活スタイルが最適と考えていた。仕事中心の生活では、必ずしも住居が憩いの場所ではなくても、たまに旅に出たり、何か気分転換すれば充分だと思っていた。

 夫が60歳で転職した折、私も仕事を辞めて北海道に3年、また昨年高知へと移り住んだ。いずれも高層マンションの最上階を選んだ。引越し疲れもあると思うが、いつまでもたっても元気が出てこない。落ち着いて家の中で過ごせない。ふと疑問が出てきた。住み慣れた近隣との付き合いも希薄となり、仕事や友人から離れ、家の生活が中心になって、長年あこがれていた自分だけの時間が持てるようになったのに、狭い高層ビルは憩いの場とはならなかった。深呼吸のできる空間が欲しい。緑の見える場所で病気になりたい。

 まず新聞広告を見ることから始めた。どんな家を探すか方針が見えてくるのに2週間程かかった。ある日案内された中古の家は夫の職場にも近く、特急の止まる駅に車で5分、空港に20分、南側に田んぼと茶畑が広がっている。売り主も感じの良い人だった。これだ! 衝撃的に買う決心をした。

 今まだ引越し疲れで片付けも終わっていないが、目の前に広がる稲刈りの終わった田んぼときれいに刈り込まれた茶畑、鳥や虫たちの鳴き声に囲まれて、美味しい空気を一杯に吸い込み、やったという満足感を覚えている。集合住宅の合理性を主張してきた私達が、還暦を過ぎてやっと地に足の着いた喜びを味わっている。四国、高知にして初めて可能になったというのが本当のところであろう。

「講評:一軒家を買う、ということの意味と「やった」という率直な喜びが、とても淡々とした筆遣いの中で味わい深く描かれています。構成、文章ともにくせがなく、非常に好感の持てる随筆と評価します。(優)」

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )

 


第6回物部川こども祭 5月28日(日)10時から15時 開催します

2017-05-24 | なんでも情報ボックス

物部川こども祭 2017年5月28日 10時から15時 開催します。

第6回物部川こども祭 5月28日(日)のご案内

香美市香北町のアンパンマンミュージアム前広場で、10時から15時まで開催します。ご家族そろってお越しください。

 

 こども祭

 


沢村さんの沖縄通信・・・「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

2016-12-07 | なんでも情報ボックス

「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

  「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」と題した講演会が11月20日、糸満市の農村環境改善センターで開かれた。主催は、NPO法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会。

 万次郎は1851年、アメリカから帰るにあたって、琉球国大渡浜(旧摩文仁間切小渡浜)に上陸した。その上陸地に記念碑を建設しようと活動する同期成会は、会長の上原昭氏が今年6月の糸満市長選挙で当選し、記念碑建設の機運が盛り上がっている。

 講演会では、市長である上原会長が主催者あいさつした。

 第1部の基調講演では、高知県出身の万次郎研究者、北代淳二氏が「万次郎と咸臨丸―秘められた歴史貢献」と題して講演した。

 北代氏は、咸臨丸は1860年(万延元年)、最初の遣米使節団が乗った米軍艦ポーハタン号の随行船として太平洋を渡った。万次郎は、勝海舟や福沢諭吉らとともに通弁主務として乗船したこと。しかし、ホワイトハウスでの日米修好通商条約の批准書の交換式には万次郎は出ていない。それは、万次郎が帰国し幕府に呼び出されたが、水戸の徳川斉昭が万次郎はアメリカに恩義があり通訳につけるとアメリカのためにならないことは言わないのでは、と主張し、ペリーとの交渉の際、出席させなかった。万次郎の情報や知識は尊重しながら、要注意人物と見られたことが最後までつきまとったとのべた。

 咸臨丸は「日本開闢以来初の大事業」とされ、勝や福沢は、外国人の手を借りずアメリカに行ったのは「日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ」(勝著『氷川清話』)とのべているが、それは事実ではないと指摘した。

 咸臨丸には、99人の日本人と米海軍の命令でジョン・ブルック大尉と10人のアメリカ人乗員が航路案内役として乗船した。1960年に「ブルック大尉の日記」が公になり、咸臨丸の真実が明らかになった。そこでは「万次郎はこれまで会った中で最も素晴らしい男の一人だ。彼が日本の開国にほかの誰よりも大きく関心を持っていた」とのべている。

 北代氏は、咸臨丸の船上は、「日米異文化交流の実験場で、命を懸けた共同作業だった。日米双方のコミュニケーションが万次郎の重要な役割だった。日米の理解が深まった」とのべた。

 その後、勝は江戸城無血開城、福沢は啓蒙学者として名をなしたが、「万次郎は通訳という黒子の仕事をして、帰国後も歴史の表舞台に出ることなく、自分の果たした役割を語ることなく歴史の舞台から去って行った」とのべた。

 第2部では、北代氏のコーディネーターのもと、パネリストとしてジョン万次郎研究家の當眞嗣吉氏、糸満市教育委員会総務部長の神谷良昌氏、万次郎研究家の長田亮一氏、糸満市長の上原昭氏が報告した。

 

ジョン万次郎 に関する記事 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

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