高知ファンクラブ

“高知をもっと元気にする”ボランティア集団、「高知ファンクラブ」の仲間が発信するブログです。

根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:合姫(一豊の妹・兼山祖母)、一族

2013-01-11 | 高知の偉人(歴史上)
根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:合姫(一豊の妹・兼山祖母)、一族
 
 

 正月一日に室戸に行きました。キラメッセで食事をしましたが、海を見ていつも

女房とはなしをするのですが、「鯨」が見られたら面白いね、と。

鯨が目の前で泳いでくれたら最高ですが、現物の鯨が無理ならちょうど真ん前・

50メートル先に「岩礁」があるのでそこに「浮力発電・鯨」を浮かべても

いいと想います。お正月の初夢でした。

 

さて、高知城でも次のガイドもできると、「ひとくちメモ」的に紹介しました。

●お城の植栽:城には、どのような植物を植えていたのか?

<戦国の堅城‐築城から読み解く戦略と戦術・学研発行・歴史群像シリーズより>

 

・植栽(131pより)

 城造りでは、植栽もおろそかにできない。城の植物は、美観だけでなく、防御面

でも大切な役割を担っているからだ。

城に植える木は、籠城戦に役立つものを選びたい。まず挙げたいのは松竹梅だ。

おめでたい木として知られるこの三種は、実は、戦闘時の利用価値も高い。

中でも、松は悪条件にも強く、城の木の定番となっている。竹も利用価値が

高く、矢の材料となる矢竹は、密生させれば、強力なバリケードにもなる。

梅は不可欠なものではないが、実が兵糧になる。

樹木以外の植物では、薬草類も充実させたい。城の一画にお花畑を設けて管理すると

よいだろう。

木を植える際は、塁の内側に並べると外から見えにくくなり、効果的だ。塁や堀の

外側は、敵の隠れ場所をなくすよう、見通しよく空けておくとよい。

 

 ◇松の利用法 

  松は、柵・乱杭・逆茂木の材料のほか、油分が多く燃えやすいので、薪や夜間の

  警備に必要な松明(たいまつ)にも重宝した。松脂(まつやに)も利用範囲が

  広く、弓弦や狼煙(のろし)の材料、血止めにもなったとされる。

 

 ◇竹の利用法

  竹は様々な道具の材料になるが、城ではやはり臨時的な防御用具である虎落

 (もがり)や、竹束の材料となることが重要。いざとなれば竹鎗(たけやり)にも

  なる。小型の竹である矢竹は、文字通り矢の材料となる。

  中世の曲輪の名に見られる「笹曲輪」は、この矢竹を栽培した曲輪だろう。

 

 ◇城の植栽

  城に植える木は、戦闘時には柵や逆茂木(ぎゃくもぎ)等の臨時的な防御施設に

  なる。松が主流だが、他に柵等に使いやすい杉、実が食用になるカヤやイチョウ

  等も考えられる。

  木は、堀などの内側に沿って植えるのが定型。土塁には芝を張ると、表面の

  くずれを防ぐ効果がある。塁や堀の外側は木を植えないが、敵を近づけたくない

  搦手側の斜面等には、矢竹を密生させるのもよい。

  城によっては梅林を設けることもある。桜もよく植えるが、現在桜の名所と

  なっている城跡には、明治以降の植樹も多い。

 

婉の母「きさ」の名前:Nさんから次のメールをいただきました。

 Nさん、連絡をありがとうございました。

 確かにご指摘の通り小説の「あとがき」と小説「文中」と名前が相違していました。

 私が紹介したあとがきの「校正ミス」ですね。気がつかなくて、すみません。

 このようなメール、大歓迎です。皆さんは、根木よりずっと勉強・研究されて

 います。

 その知識の「共有」の場であり、共有できたらと願っております。

 

 

 えんの生母は、やはり、池きさ だとおもいます。
その1  「高知観光ガイドブック3 」 p69、に きさ とでている。
      「野中兼山」 横川末吉著 吉川弘文館 p281 えんの母 きさ とでている。
その2  「えんという女・正妻」 大原富枝著  講談社  p53、54  清七,希四郎、

      わたくし。貞四郎、そして その母池きさ。 と表記されている。 
その3  筆山にある 「野中兼山と一族の墓 」には、左前に えんの母の墓があるが

      母池氏之墓と記名されているだけで きさの名はない。    
その4  本山町の大原富枝文学館へ調査研究に行ってきた。

      そこでも明確に えんの母として きさ が記されている。

                             (以上は、Nさんからのメールです。)

 

<合姫(一豊の妹・兼山の祖母)のことについて>

どのような一族だったかも、少し長くなりますが、紹介しました。

■野中兼山・婉女そして土佐山田:野中神社改築委員会・土佐山田町教育委員会発行

・二、兼山の人と治績(依光貴之執筆) 35pより

 

1.生い立ちと時代

 野中氏の家系

濃尾平野の西部を南北に流れる大河揖斐川(いびがわ)を遡ると、大垣市の北方

約十五キロで山麓の町揖斐川町にさしかかります。その町の三輪地区が野中氏

発祥の地といわれます。

系図上の初代は野中道永といい、かなりの土地をもつ地主(名主)であったようです。

(付録の系図を参照してください)

道永の子伯仙は、天正十三(1585)年に七十三歳で没しており、戦国動乱の

なかを生きた人です。

そのため、青年時代に剣術家衣斐丹石(えびたんせき)について学び丹石流の奥義に

達していたようです。丹石流は短い刀を使い相手のすねを蹈(ふ)み折るぐらいに

肉迫する気合を尊ぶなかなか激しいもので、野中家の気風を養ったのはこの剣法

だったともいわれてます。

 

その奥義書は、長男良平が若死をしたため伯仙の臨終に際し、次男益継に譲られ

ました。

伯仙は剣術だけでなく医術・和歌・書道にも通じた文武両道の人でした。

伯仙の妻は丹石の姪(一説に娘)で二人の間には四人の子供が生まれ、長男が兼山の

祖父良平(よしひら)、次男がのち兼山が養子入りする分家野中家の租・益継

(ますつぐ)、三男が遂繼(かつつぐ)です。

良平は、戦国の風雲に乗じて身を立てようと、はじめ織田信長(あるいは信忠か)に

仕え、秀吉を経て、山内一豊に属し、その妹合姫(ごうひめ)を妻としました。

一豊が近江(滋賀県)の唐国(からくに)で四百石を領した頃のことです。

 

合姫は良平より四歳年下で、兼山の父良明(よしあき)と通姫(つうひめ・乾和三妻)

を生みましたが、夫良平が天正七(1579)年三十一歳で早死したため、自分より

八歳年下の義弟益継と再婚し、そこでも三男三女をもうけました。

その長男直継(なおつぐ)は宿毛の領主安東氏の娘と結婚、一男二女が生まれましたが

、男子(合姫の孫)が早世して後継ぎがなかったため、末娘の市に兼山をめあわせて

養子としたのです。つまり、合姫からいえば自分の血を分けた孫同志の結婚であり

”同姓娶らず”の儒教の教えにめざめた兼山にとっては、忌むべき結婚となるのです。

 

合姫は至って健康で、土佐へ入国してのち、兄一豊のあとをうけて甥の忠義が藩主と

なり夫の益継、子の直継、孫の兼山と三代続けて重臣として藩政を掌握した時代に

、酒を友として豪奢(ごうしゃ)に暮らし、正保三(1646)年九十三歳の生涯を

終えました。兼山の全盛時代で、儒教による葬式のうえ、日を改めて法華宗による

盛大な葬儀があり、筆山の北麓に葬られました。

諡(おくりな)を慈仙院妙仁日大大姉といいます。

 

さて、兼山の父良平は七歳で父に死に別れましたが、後嗣のなかった伯父一豊に

愛せられ、土佐入国時には五千石を受けています。有能な伯父益継が二千三百石

ですから、野中家の本家筋とはいえ、いかに優遇されたかわかります。

それが慶長十三(1608)年ごろ、妻もつれずにわかに国を出奔し、海路

播州姫路へと赴きます。その間の事情はよくわかりませんが、かねて一豊から

山内の姓を許され、幡多郡中村で二万九千石を与えられる約束を得ていたところ

、慶長十年の一豊の死によって反故(ほご)にされたためであろうといわれます。

一豊の弟康豊の辣腕ぶりもさることながら、良明の癇癖(かんぺき)の強い性格も

原因であったようです。

 

良明の妻が池田侯の重臣の妹であったので姫路へ行き、池田家では一万石をもって

召し抱える話もあったけれども、良明はこれを辞退し、年に二百石の扶持米をもらって

姫路や京都で何とか浪人暮らしを続けたようです。

良明の妻はあとを追って姫路へ来て間もなく死亡しました。その後妻として迎えられた

のが、豪商秋田家に養われていた孤児の萬でした。その時萬は二十四歳で、六年後の

元和元(1615)年に兼山を海、九年後に良明に死別します。兼山の誕生日に

ついては、六月十三日説と一月二十一説と両説あり、お婉堂の位牌には”六月十三日

己亥午刻生”とあります。

上方での良明一家の暮らしは決して楽ではありませんでした。良明は家計を顧みて

限度内で暮らせる人ではなく、やがて、二百石の扶持米も池田家の備前転封とともに

打ち切られたはずです。

 

萬は良明の死と共に上方での生活をあきらめ、当時四歳の佐八郎(兼山の幼名)の

将来も考え、海山を隔てた土佐へ下り、分家の益継・直継父子を頼むことにしたのです。

(この間の経緯については小倉少助が境から呼び下したとの説もありますが、『野中

遺事略』によりました。)

萬は慶安四(1651)年六十六歳で急死したので、兼山は儒葬をもって野中家の采地

(さいち)の帰全山に厚く葬り、山崎闇斎執筆の「夫人秋田氏墓表」を碑に刻みました。

それには、夫人は針仕事や織物などで家事万端に通じ、夫によく仕えて内助の功あり。

わが身を飾らず、姑の看病を怠らず、下女をも懇(ねんごろ)に教え導いた。

兼山の短所を見ぬいて、友とよく交わり、寛容であるようさとし、また父良明の美点も

伝えた。はじめ姑に従って仏教を尊んでいたが、兼山が儒教に帰したのちはこれに従った。

などと誌され、「けだし夫人のごときは婦女の楷模(かいも・手本)なり」と結ばれて

います。

根木勢介  携帯:090-2825-2069

   
 
 

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根木勢介 さんの記事・・・高知城その6:二大政治家・末路の悲惨 兼山、東洋

2013-01-10 | 高知の偉人(歴史上)
根木勢介 さんの記事・・・高知城その6:二大政治家・末路の悲惨 兼山、東洋
 
 

 「多聞」から始まった高知城シリーズ(?)、わたくしの中で高知城ガイドの

「マンネリ」化を感じたのが、シリーズを始めるキッカケとなりました。

期待されるほどのことは、できませんが、「根木の雑記帳」くらいの気持ちでお読み

いただければ幸いです。

●25年1月7日の次のメールについて、Sさんから下記の返信をいただきました。

1867(慶応3年)年海援隊が

結成されると文司(書紀)として隊の往復文書のほとんどを手掛けた。

同年、龍馬が土佐藩参政後藤象二郎に提出した独自の国家構想『船中八策』も、

龍馬の意を受けて謙吉が起草したものである。

(25年1月7日メール)

 

<Sさんからのメール>

長岡謙吉が書記の役にあったことは認められますが、船中八策を謙吉が起草したと

長崎遊学辞典に書かれてあったのですか?

起草するとは単に文書を作成するのではなく、文案を起こすことです。

あくまでも文案は龍馬の考えで謙吉は単に代書したに過ぎないのでは 

ないですか。

隊の往復文書のほとんどを手がけたとありますが、彼は海援隊の中でどのような

位置にあったのですか、当時龍馬に具申するほどの立場だったのですか。

そのあたり誤解をうけやすいので根木さんの考えを聞かせてください。

 

⇒根木より:

・紹介しました「長崎遊学事典」では、転記の文章通り、です。

 この本は、図書館で閲覧できます。各県(藩)別の長崎遊学者の人物・紹介本

です。

・この事典の長岡謙吉「評価」の高さに少し「違和感」をもちながらも紹介

 しました。

 特に長岡謙吉の業績・分担(書紀)について、「断定」した書き方をしている

 のが気になります。

船中八策について、長岡謙吉”自筆”の「八策・起草下書き」など発見されれば

「断定」もできるでしょうが、・・・。

 

 これについては、日を改めて取りあげたいと思います。

 

★さて、O(おー)さんから、吉田元吉(東洋)の「元吉」は、どのように読むのか?

問合せをいただきました。

おかげさまで、吉田元吉(東洋)について、勉強ができました。

<もときち?、もとよし?、げんきち?>

 

■土佐人物抄記・平尾道雄著・昭和28年発行 12pより

七、吉田東洋

 

 野中兼山を藩政初期の大政治家とすれば、吉田東洋は藩政末期の代表的政治家で

あって、しかもその末路の悲惨さにおいて両々相対するものとせねばならない。

その識見の遠大さにおいて、その施策の果断さにおいて抜群の器量を持ちながら、

独裁ぶりを吏僚に嫉視せられ衆人の怨恨を受けて自ら運命を縮めたことまで

奇しくも相似たものが感じられる。

 

東洋の通称は官兵衛、後ち元吉、名は正秋である。知行二百石の馬廻りの武家に生れ、

師を求めて和漢の学に通じ、殊に史書を読み経済の道を講究した。

少壮早くもその才腕を認められて船奉行、郡奉行を歴任したが、嘉永六年米艦浦賀に

来航して修好を求め、国事漸(ようや)く非常なるに及び、藩主山内容堂は東洋を

抜いて参政(仕置役)に任じ江戸に迎えた。かれが、水戸の藤田東湖と親交する

ことになったのもこの頃で、その活躍を期待されたが、一日旗本松下加兵衛を饗応の

席上加兵衛が酒酔にまぎれて無礼を加えたのを、東洋は我慢できず即座に

なぐりつけた。

「吉田元吉頭をこくが、数寄屋小橋で伊達もこく」と当時の世間は流行歌にした。

「こく」とはなぐるの方言、伊達こきに対句したもので、東洋の性格の烈しさと

装身に凝る生活態度がこの歌詞に窺われるものである。

松下は、山内家とは親戚の家筋だったので、東洋は土佐に追還せられ、長浜に蟄居

した。この地に設けた鶴田塾の後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎のごとき英材が

養成されたのである。

 

幕末混乱の時勢は、東洋の幽居を許さなかった。安政戊年の獄に連座して山内容堂

が退隠し、ついで幽門を命ぜられると、東洋は再び参政に復活し、藩政の要路に

たつことになったのである。

彼の読書力はすでに西洋事情を知識し、世界の大勢を理解していた。したがって、

彼は開港主義をとり、いちはやく岩崎弥太郎を長崎へ派遣した。外国事情を操って

他日の貿易を予想したもので、汽船の四十五艘をも備え海外雄飛の策を容堂に進言

したのである。

 

不幸にしてこの構想は生前に実現できなかったが、後藤象二郎は彼の遺策をうけて

開成館を創立し、岩崎を長崎貿易に活躍させた。

東洋は、また新時代に即応する学制改革を計画して致道館を新築し、階級打破の

一端として文武官の世襲制度を廃止した。「海南政典」の編修も「藩吏」の編修も

彼の企画に成るものであった。

階級制度の打破は、当然門閥家の反感を招くものだったし、致道館の新築や幕府の

命による大阪湾防備のための住吉陣営工事は民衆に労費を負わせ、豪華を好む生活

ぶりが、一層上下の憎悪をつのらせた。

 

文久二年四月八日の夜、東洋は四十八歳を一期に暗殺されたが、手を下したのは

勤王派の刺客で、尊王攘夷を念願する武市瑞山等の必死の策動を軽視したところ

にも彼の大きな不覚があったのである。

 

 

武市半平太 月と影と:松岡司著 1997年発行 54pより

・・・。

東洋はこの夜、藩主の参勤交代発途をもって御前講の終会日としていた。そのため

家老衆がつとめる奉行職から、近習、外輪(とがわ)をとわず役所の面々が

きらぼしのごとく二ノ丸に列席し、その講義「日本外史」の終了とともに祝いの酒が

ふるまわれた。

約一時間。午後十時すぎ、ようやく東洋は息のかかった重役をつれて下城。追手門を

出て、追手筋を東にすすみ、家老深尾丹波邸の角で最後の伴、大目付大崎健蔵と

わかれた。

南にくだること約百メートル。帯屋町通りに面した四つ角に家中・中屋茂馬の屋敷が

ある。その長屋門の蔭から顔をかくした刺客がおどり出た。

「元吉、参る!」(「壬戊変事」『寺村左膳日記』『皆山集』)

雨の闇夜に暗殺剣が舞う。

背後から真っ先に切りかかった六尺の偉丈夫、那須信吾だ。

活劇の状況は彼の書面を借りよう。

 

 先(まず)、件(くだん)の右側より後ろへ踏ん込み、首を見込左の肩より唯(ただ)

 一打と思い刀を下候所、傘に障(さわり)、但しは手凝(こ)り候歟(か)、浅手に

 而件 直(ただち)に見返り抜合、六、七篇切り合候所を外方より段々手を下し、否

 (いなや)切伏せ直に私立寄、俯(うつぶ)せに斃(たおれ)候を刀に而首を打候所

 、首筋より腮(あご)え掛り余程切れかたく、屡(しばしば)拝み打ちに仕候、

 (青山文庫蔵)

 

東洋は、南下して自邸のある東に歩をむけていた。その南の蔭から傘(かさ)ごと

背面をおそったのだ。

東洋も容易に命をすてるわけにはゆかない。

浅手で振り向きざま「不届者、にくきやつ!」とさけんで刀を抜く。

その気迫にさすが豪胆な信吾も押され、数合切り結びながら中屋屋敷の対角にある

間市之進邸のしもまで下がった。東洋の家来に対していた大石団蔵・安岡嘉助が

引き返し、嘉助がまたも東洋の背後から切りかかる。

刃(やいば)は肩口から首にかけて横に払われた。

「グワッ」

東洋は絶命した。

・・・。

 

 

※中々、「元吉」のふりがなは、出てきません。やっとありました。

 (赤字部分は、根木による。一部漢字を現在漢字に直しています。)

■土佐偉人傳:寺石正路著・昭和15年発行 59pより

吉田東洋

 

 吉田東洋(よしだとうよう)通稱は元吉(もときち)、名は正秋(まさあき)、

字は子悦(しえつ)東洋は其號なり

其先秦氏の名将吉田市左衛門正重に出づ

正重征韓の役唐人町豆腐屋(とうふや)秋月氏租(あきづきしそ)、朴好仁(ぼく

こうじん)を擒にしかへる子孫山内氏に仕へ馬廻に列し禄二百石を賜はり帯屋町に

住す

人となり明快俊偉(しゅんゐ)学問宏博(かうはく)に自ら一家の識見を備ふ

初幼時藩士安並雅景に就き和漢の書を学び弱冠以後東遊の途次伊勢斉藤拙堂

(さいとうせつどう)の門に入り文章を学び大に得る所あり

天保十二年二十六歳の時父跡目を相続す

尋で船奉行に任ぜられ明年郡奉行に転じ又再び船奉行に任ぜられる 時に承平日

久しく百度弛廢す

東洋鋭意諸制を改革して諸制一新大に見るべきあり 巳にして母疾を以て一旦官を

辞し家居す

 

嘉永六年米使渡来し海内忽(たちま)ち騒然たり 幕府米国国書の漢詩文を諸藩に

送致す

当時土藩の国老重役皆肉食の徒にして一人も能く右の漢文を読む者なし時に新藩主

容堂豊信(とよしげ)は深く之を慨し執政には宜しく読書の人を用ゆべし

当今其任に當(あた)る者は東洋を除きて其人なしと直に擢でゝ参政の重任に任ず

同年江戸に上り藤田東湖、鹽谷宕陰(しおやとういん)、横山湖山の諸名流と

相往来し互いに師友の交を訂す

 

此時偶容堂江戸藩邸にて其親戚にして旗本たる松下嘉兵衛を饗応することあり

東洋其接伴たり

嘉兵衛酔ふて東洋の頭を殴打(おうだ)す 東洋怒て之を拳撃して櫞下(えんした)

に擠下(さいか)す事聞こゆ 容堂深く嘉兵衛の妄禮を怒るも幕府の後難を畏れ

枉(ま)けて東洋を罰し官祿を奪ふて土佐に遂下せしむ 東洋蟄居を命ぜらるるも

意気軒昂平日に異ならず一書を東湖に寄せ其懐を述ぶに曰く

・・・。(途中略)

安政二年江戸大震あり東湖壓死(あっし)す 訃至る東洋謫(たく)中痛惜の情に

堪えず書を鹽谷宕陰に寄せて曰く

 

「誠に一昨年来は毎々天變御難儀奉ㇾ察候且藤田東湖翁の訃驚入候人之云亡邦国

 診瘁(ひとのここにほろぼうしんすい)ㇾ惜之至りに御座候云々」

 

東洋巳に罪を獲る城南三里吾川郡長濱村に謫(たく)せられ鶴田の里に居り日に

読書を事とし意気少も衰へず 後進の俊才後藤象次郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎等

住居に来て其教を受く 安政五年容堂は時勢切迫の為め再び東洋を起して故の参政に

復す 東洋謫居四年是に於て再び赦されて旧職に復し公の知遇に感激し粉骨国事に

尽くさん事を期せり 即ち藩政改革に関する一大覚書を呈出し人材の養成と採用を

新政の主眼とすべきを痛論し安政末年土藩が摂海の防御を申し付けられるや住吉に

陣営を建て直に兵備の充実を世に示したり 同年容堂は戊午(ぼご)獄事(ごくじ)

に関し品川に幽居を命ぜられるや東洋は驚きて東上公に謁(えつ)す 

公一詩あり

 

「人生何事如₂生死₁、別後相逢情更深、話ㇾ舊(旧)不ㇾ知宵過ㇾ半、一燈風雪

 五年心」

 

君臣遇合の情懐想ひ見るべし 万延元年桜田騒動以来世情騒然となりしが東洋は

少しも騒がず 人材教育は興国の大本なりとの持論を抱き容堂に請うて藩校文武館

設立の許可を得て其経営に余念なかりき然(しか)も国論反対の多きを見て快からず

其年の暮江戸に上り公に謁し国暇を乞ひ自ら大阪に下り私塾を開かんとの内願を

なせしも公は手づから酒を賜り慰撫(いぶ)して許さず 東洋詩を作り懐を述べて

曰く

 

「歳終喧閙(とう・さわがしいの意)攪(かく)₂吾眠₁、久苦官途鬢(ひん)欲

 ㇾ斑、挂(けい)綬(じゅ)有₁心猶(なお)未ㇾ果、風塵中又遇₂新年₁。」

 

之を読で東洋の心事潔白又功名を貪(むさぼ)る念の淡泊なりしを察すべし 然るに

東洋は兼ねて容堂の主唱せし公武合体論を飽くまで信奉し当時土佐勤王党を代表せる

武市瑞山等の懐抱せる絶対討幕論には少しも之を賛する意志なかりき抑 武市瑞山

は土佐勤王党の主領にして識見遠大に時勢を洞察する明ありて兼ねて京洛にて西国

強藩の有志と連絡を通じ藩主を抱して蹶起(けっき)其時機を待つばかりなりき

文久元年の暮れ瑞山江戸より帰り時勢に就きての献策を東洋に致す 東洋自ら容堂の

信任を受け己が持論を断行するの確信を有し断乎として之を退けて用いず 

 

瑞山の党(なかま)遂に東洋暗殺に決す 文久二年四月八日東洋藩主豊範(とよのり)

の前に日本外史の侍講をなし帰途中勤王党の壮士安岡正定、那須重民、大石団蔵三人

の為め殺害さる年四十八 妻其淑(しゅくとく)あり兼ねて伉麗(こうれい)

尤(ゆう・すぐれた意)篤し變(変)を聞き驚哭し越へて七日卒す 城南潮江山高見

に葬る 嫡子(ちゃくし)源太郎家を繼ぐ 後正春という 維新後外交官となり令名

あり 東洋、人となり才学あり識見又秀づ故を以て自ら一家の主張をなし人と相いれず

遂に中道に斃れる 惜しむべきかな兼ねてより藩治整頓の志あり 嘗(かつ)て制度

改正役を設け儒家松岡毅軒(きけん)、細川潤次郎等を其官を任じ秦氏以来山内家

時代に及ぶ制度法律の調査をなし一部の大法典を編す 名付けて海南政典と称す

徳川氏三百年列藩の制度皆不文律に留まる 然し荘重典雅の漢文を以て始めて成文律

となし 後世に遺す者此の書を以て唯一となす 史論以て不朽の偉績となす 

 

※根木のコメント:

 ・「読み方」がわからないとガイドの時に困りますね。

 ・「元吉」の名前は、よく使われているものの「ふりがな」なしが、ほとんど

  でした。

  原因としては、東洋自体の研究(評価)がされてないからだと推測します。

  「東洋についての本」の少なさにも驚かされます。

 ・最後の紹介文は、長文です。転換ミスがあるかも。

  読みにくいですが、よく読めば伝わってくるものがあります。 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069   

 
 

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長宗我部ファンクラブ通信・・・2013年 睦月号(1月8日発行)

2013-01-09 | 高知の偉人(歴史上)

長宗我部ファンクラブ通信・・・2013年 睦月号(1月8日発行)

新年、あけましておめでとうございます。

今年は元旦に天気がよく、初日の出が良く見れたそうですね。皆さんはどうお過ごしだったでしょうか?坂崎は新年が明けると同時に初詣に繰り出すつもりでしたが、空腹に負けて新年あけてから年越しそばを食べ…などとやっていたら、2時を過ぎてしまい急いで氏神様(日高村の小村神社)に行ったものの、すでに参拝客がおらず参道が真っ暗だったのですごすごと帰ってきました……(涙)。寝過ごして日の出も見れず……。でも、初詣はたくさん廻りました!!皆さんはどちらに参られたでしょうか?

 と、長くなりました。では……今年一年も皆様のご多幸をお祈りします。また、本年もよろしくお願いいたします。

 

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┃(1)12月7日長宗我部を語る会スタッフ間での反省会がありました

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12月7日、長宗我部を語る会のスタッフ間での反省会が開かれました。

 この日は長宗我部慰霊祭についての進行上の反省点や、改善点を話合いました。語る会とは別にスタッフ同士の打ち合わせの場を月一回設けて、そちらでイベント等の打ち合わせや段取りを行っています。今回は前回の反省点を主に出してゆきました。

 やはり、もっと慰霊祭を主催されているところや、わざわざ県外から訪れてくださる方との連絡を密にして、スタッフ間でわからないことが無いようにする事、直会の後のフリートークについてはもっと早い段階から打ち合わせをして、どうすれば楽しめるかというのを検討していくようにする、といった内容になりました。今回から議事録を作りましたので、どういった話し合いだったか気になる方がいましたら、ゆうあい工房さんにファイルを置かせてもらうようにしますので、目を通してみてください。

 うん、今年も駐車場で込み合ったところもあり、駐車場表示は前日くらいから用意しておく!というような話にもなりました。あと、意外と地元の方が慰霊祭を知らないということもあり、地元への普及も大切ではないかと思いました……。

 

 実は……12月14日に語る会を行ったのですが、12月の第二金曜日ということで忘年会等の行事で中々これない方が多かったと思いますが……出席者がなんと4名!!後で一人増えましたが、人が増えたのは20時を過ぎてからの事でした。ここ数か月、出席者の数も減ってきていますので、悩みどころであります。もし、時間が合えばまた語る会にも顔を出してみてください!!

 

 次回の語る会は、1月25日(金)になります。

 

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┃(2)1月13日(日) いよいよ第一回合戦ウォークです!!!

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 思えば、第一回初陣ウォークの後、高知駅前広場で安芸の方と話し合ったのが最初だったと思います。話はトントン拍子に進み、平成25年1月13日(日)第一回合戦ウォークが開かれます。これは史実に基づき、長宗我部元親率いる長宗我部軍と、安芸国虎率いる安芸軍が戦った八流の戦いにちなんだものです!!……もちろん、合戦ということで両軍が戦いますが、平成の世の長宗我部vs安芸は平和的な『グルメ』『スイーツ』『ゲーム』の三試合で行います。以下は詳細です。

まだまだ定員枠には空きがありますので、みなさん、家族や友人に声を掛け、奮ってご応募ください。

 

 1安芸軍コース(6キロ程度):安芸駅東広場~浄貞寺~新城城跡~穴内城跡~穴内公民館       【9:10安芸駅集合・受付   9:30出発】

 2長宗我部軍コース(10キロ程度):夜須駅下広場~サイクリングロード~八流古戦場跡~穴内公民館 【9:00夜須駅集合・受付   9:20出発】

 

 両軍ともに定員30名。参加費:2000円(高校生以下は1200円、段ボール甲冑等自前で鎧を着てこられた方は1000円)

 申し込み先】「サンエススポーツ健康館 電話:088-822-1522 FAX:088-822-2340  担当:久保・竹村まで」

 申し込みの際は、「長宗我部軍」か「安芸軍」のどちらで参陣するかを伝え、御名前・御住所・お電話番号・性別・年齢(10代、20代といった年代で構いません。)を担当者の方にはっきり伝えてください。

 

 グルメ対決…「西島園芸団地トマトカレーvs安芸のちりめん丼」

 スイーツ対決…「もとちかくんカステラvs美味しいフィナンシェ」

 ゲーム対決…当日のお楽しみ♪

 

 

 今回、安芸方は国道ではなく、市道を通ります。安芸市以外の方は国道しか通ったことがないと思うので、国道横の山の上にある穴内地区の市道は知らない方も多いのではないでしょうか?南側が180°開けていますので、景色がとても良いですよvあと、国虎が自害した浄貞寺跡の案内や、城跡の案内もしていただけます♪

 

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┃(3)須崎市上分甲にある津野神社

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 今年、初詣に行った津野神社。国道沿いの山の中にある小さな神社です。国道沿いにあると言っても、道路側には鳥居も看板も、そこに神社があるという何らかの印があるわけではありません。去年、あしげく通った檮原に向かう途中、カーナビが教えてくれた神社でした。

 場所は運慶作の大日如来像で有名になった上分の集落の少し手前…国道197号から須崎市へと抜ける県道の手前になります。国道の北側にコンクリートで覆われた山の斜面。その斜面に創られた幅90センチほどの階段が入り口。ちょうどこの入口の道路を挟んで南側に一軒だけ家があり、その家の手前の歩道が少し広くなっているので、そこに車を停めて登りました。

 傾斜が45度くらいあるので、正直しんどいです。しかも階段は三メートルほどで無くなり、あとはコンクリートで舗装された道だけ。それもコンクリートで覆われた斜面の頂点に来ると無くなりあとは山道になります。しかし、山に入るとシイタケ栽培をされている方がいるようで、道は比較的広く、傾斜がきついことを除けば、そんなに悪い道でもありません…まあ…雨の日の翌日はよく滑ると思います。枯草ある上に赤土ですから…(汗)。

 登り始めて10分ほど、シイタケの原木を置いてあるところから過ぎたら、少し空気が変わって来ます。さらに奥に行くと、石の鳥居があり、その向こうに小さな神社があります。どちらかというと昔ながらの神社、というより側壁がトタン板になっていて、正面はサッシの引き戸という現在風の神社でした。きっとここ十数年の内に建て直しをしたのでしょう。しかし、神社の手前に須崎市が作った説明板が建てられていました。

 それによると、この津野神社には津野家十八公が祀られており、最後の当主・親忠の死後に建てられたというもの。説明文の主人公はやはり親忠で、津野家末代の名君と言われていたが、実父・元親の怒りを買い、香美市の岩村寺に幽閉。翌年奸臣久武親直により詰め腹を切らされ自殺(この書き方が現在らしいですね)。親忠の死を知らされた家臣領民は親が死んだように嘆き悲しみ、津野家領内の各所に津野神社や孝山寺を建て親忠の拝礼・供養をしたという。とありました。

 この神社の裏手には親忠の墓があり、最初は五輪塔、江戸時代に入ると当時の形式での高さのあるお墓を建て、江戸時代以降…近年にも一つ建てています。五輪塔はもう崩れて地面に並べられていましたが、苔むした墓石には津野親忠の名前が刻まれてあり、その手前にある近年っぽいお墓にも親忠の名前がありました。

 親忠の遺体は香美市の津野神社の下に眠っていると言います。こちらのお墓には何もない、形式だけのお墓ですが、それでも家臣や領民達は親忠を想い手を合わせたんでしょうね……。

 

 しみじみして山を降りましたが……車に帰るころには大きく息切れし、太腿がパンパンに張ってかなり痛かったです(汗)。年末、運動をろくにせず、食べてばかりの鈍った体にはかなりきつかったです、はい。

 

※坂崎の史跡紀行(後編)は来月号に掲載致します。

 

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長宗我部ファンクラブ通信・・・2012年 師走号(12月10日発行)

2012-12-15 | 高知の偉人(歴史上)

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12月に入りました。いよいよ師匠(せんせい)が走り始めますね。本当に一年というのはあっという間です。…しかし、これから年末の大掃除が待っているのですよね…大変だ…。聞きかじった事なので間違っているかもしれませんが、昔の人は誕生日に関係なく新年が来たら一つ年を取る、って考えていたようですね。しかも数え年なので、年末に生まれた子供はまだ目も開いてないのに2歳扱いになったということでしょうかね…。


(1)11月8日、長宗我部を語る会が開かれました!


 この日は語る会の後に1月13日に開催される、第一回合戦ウォークの打ち合わせもあり、安芸国虎についての勉強会となりました。出席者は安芸方の曽我さんも
 来られており、色々とこちら側で調べた資料だけでなく、現地の方からのお話も聞けて中々有意義なものとなりました。国虎の子供達の話、特に元親の妹で
 いの町成山に隠棲した養甫尼と暮らした安芸家友は国虎の二男と言われますが、安芸の方ではその次男の存在は確認できてないとか…七色和紙の製造にも携わった家友が国虎の遺児というのはいの町だけに伝わっているということで、地域での伝承にも差があるのだなと痛感しました。……出席するのが少し遅くて、詳しいラスト20分ほどしか聞けませんでしたので、ちょっと残念でした。安芸国虎に関してはまだまだ私も勉強不足なので、また色々調べてみたいです。
 合戦ウォークでは安芸方は浄貞寺(安芸氏の菩提寺で国虎最期の地)や新城跡を案内してくれます。国虎の意外な一面も知ることができるかもしれません。

 
(2)11月23日 長宗我部慰霊祭が開催されました。!


 この日も前日からあまり天気がよろしくありませんでしたが、神事が始まる頃には何とか雨が上がったようです。肌寒さも去年よりずっとマシで、雨降りだからカイロ必須かと思いましたが、それほどではありませんでしたね。去年に比べて出席者が少なく、特に去年多かった若い女性が少なかったですね(苦笑)。慰霊祭は浮ついたお祭りとは違いますが、ちょっと寂しい感じもしました。でも、権禰宜さんの舞が今年はありました!!とてもお美しかったです!!来年もやってほしいですね!!芸能関係は好きそうですし、元親公も喜ばれたかと思います♪
 その次の直会では、ファンクラブとして反省する点が多々ありすぎました。今年は直会の後にあるフリートークもアンケートを用意してみんなで楽しめるようにと企画していましたが、大勢の方が直会のみで帰ってしまい、ちょっと寂しいことにもなりました。このあたりは来年につなげるための反省点を多く含んでおり、考えさせられる場面にもなりました。
 本来の直会の意味が無かった事、年代による考えの格差、相互の連絡と打ち合わせの不備、事前準備の甘さ等々、今度の打ち合わせ会で話し合い、改善策を打ち出していこうと思います。


(3)11月24日 k-fesに参加しました。


 高校生が主体で行われるという中央公園でのK-fesに皆様から後援をいただきまして、出店させてもらいました!!ここではちょっとしたクイズを作って、
 高校生に長宗我部について興味を持ってもらえるようにと『長宗我部検定-入門編-』を行いました。参加費無料、参加してくれた方には参加賞として七つ方喰のステッカー、全問正解者には表彰状とハンドタオルの景品付き。目的はとにかく興味を持ってもらうことだったので、高知市が作成した無料配布の長宗我部氏に関するペーパーから出題、このペーパーを見ながらの解答もO.Kというものでした。
 意外と小学生でも挑戦してくれる子がいて、グループでワイワイ言いながら解答していた小学生4人組や、おばあ様と一緒に回答していた小学生の女の子。このおばあ様が「地元の人の事やのにあたしゃひとっつも知らん。」と言っていたのが印象的でした。年配の方にも興味なければ知られていないのだなと痛感。これをきっかけに色々と知ってもらえたなら嬉しいですね。
 あと、島根県から観光に来ていたおじ様方もしてくれました。歴史に興味あるけど、高知といえば坂本龍馬しか知らないと言われました(苦笑)。厳密には違いますが、龍馬たち郷士の主君だったのがこの方だと説明しました。これをきっかけに…(以下略)。
 いずれは『長宗我部検定-初級編-』をはじめ、中級、上級と検定を発展させていきたいですね、龍馬検定のように!!!あ、この『長宗我部検定』の問題を作るにあたっては歴民からの監修を受けるようにと館長から直々のお達しがありました。もちろん、検定と銘打ってやるからにはそのつもりです!!
 とりあえずは二択問題のこの入門編と土佐戦国時代への入り口として広めていきたいですね。



(4)~~坂崎の史跡紀行(前編)~~

 12月初旬、京都の蓮光寺にある長宗我部盛親のお墓に初めて、行ってきました。盛親は大阪の夏の陣の折、敗戦を悟り大坂城から脱出して再起を謀りました。しかし、その途中に蜂須賀家の者に見つかり連行されて京都の六条河原にて妻子とともに打ち首になりました。かねてより親交のあった蓮光寺の住職が盛親の亡骸を引き取り、埋葬したと言われています。

 個人的に盛親に対して私はあまり良い感情はありません。盛親の判断ミスにより多くのモノが失われました。実兄津野親忠とその側近たちの命、土佐一国、
 家名と伝わっていた多くの品々、家臣領民の自由と命。一歩踏みとどまり冷静に判断していたなら、関ヶ原の西軍に着くこともなかったし、西軍に着いたとしても
 実戦の機微を悟って行動していたなら、西軍の勝利に貢献していたかもしれません。でも、何一つ判断できず、揚句運を天に任せました。結果、元親が秀吉に媚びへつらってまで必死に守り抜こうとした土佐は取り上げられ、家は潰されました。土佐は山内の支配を受け、その後苛烈な身分制度を設けられて長宗我部家旧臣達は苦渋をなめることになった…。元々長宗我部家の家臣(厳密にいうと津野家)だったという母方の影響もかなりあると思いますが、やはりその後の土佐を思うと許せないという感情が強いのです。
(次号後編につづく)


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