Catch Ball

修業の時計を止めない教師でありたいです。

教師の“言語技術”が子どもの運動技能を変える 3

2008-10-12 00:16:49 | 体育
 体育の場合は,実際に試してみることも大切である。

 例えば,「開脚前転のとき手はどこに着けばよいか」という課題を投げ掛けるとする。
 これは教師による課題の言語化である。
 言語化することにより,子どもたちは初めて課題に気づくのである。
 それまではどこがよいかということを意識せず手を着いていたが,発問されたことによって初めてどこに着けばよいのかを考えるのである。
 発問の注目機能である。

 子どもたちは各々,どこに着手すればよいかを考えながら試してみる。

 次にペアやグループで話し合う。
 「なるべく遠くに着いた方がよいのではないか」「いや,それでは僕は立てなかった。ももの近くにしたほうが立てる」などと話し合うことによって言語化する。

 実際に試して自分なりの考えを持っているのであるから,話し合いの場面でぼんやり聞くということにはならない。
 本気で聞く,心を集中して聞くということになる。
 この場合,聞くということが受け身ではないのである。
 「なぜか」「ほんとか」「正しいか」と能動的,積極的に聞くことになる。

 そして,本当にももの近くのほうが立てるのか,その結果をまた試してみるのである。

 言語化(発問)→体験→言語化(話し合い活動)→体験という流れである。

教師の“言語技術”が子どもの運動技能を変える 2

2008-10-11 00:14:24 | 体育
 教師は,授業の中で話し合い活動の場面を意図的に仕組んでいく必要がある。
 話し合いを通じて,運動を多面的に捉える目が養われるからである。これが論理的思考力につながっていく。

 また,話し合いは,授業の中で潤滑油のような働きを担っている。そこにコミュニケーションが成立するからである。

 話し合いの少ない授業は,教師と子どもとの対話が中心で進められる。もちろんそういう授業があってもよい。
 しかし,教師の指示にただ従っているだけでは,思考が深まらず,浅いものになりがちであろう。
 
 対等な立場で仲間と話し合うからこそ,思考が深まるといえないだろうか。
 真摯に仲間の意見に耳を傾け,それについて自分の意見を言うなどする中で,多面的に運動について考えていくのである。

 子ども同士が,向き合って話す機会を意図的につくることは,言語力を育成する上でも大切なことである。
 最近の子どもたちは,核家族化や少子化もあり,意外ときちんと向き合って放す機会は少ない。だからこそ,学級の仲間との話し合いは重要な意味を持つ。

 話し合いといってもいろいろな形態がある。

 いきなりクラス全体での話し合いにするというのは,おすすめできない。
 発言力の強い子の意見に押されてしまう場合があるからである。
 発言力の弱い子の意見は取り上げられなかったり,たとえ意見があっても発表せずに黙って過ごしていたりということになりかねない。

 そういう事態を防ぐには,まずペアでの対話である。
 1対1であるから,話さざるを得ない。
 ペアになって話そうとすることで,アイコンタクトを習慣化でき,相手の言葉を積極的に聞こうと努める姿勢も身についていく。

 ペアでの話し合いができたら,4~6人の小グループでの話し合いに移行していく。
 人数が増えることで意見のバリエーションが増え,集団討議へとつながっていく。
 異質な他者と協同する学びは,PISA型学力でも重視されるところである。
 グループでの話し合いでは,メンバーができる限り等しく意見を出し合い,互いの考えの差異に気づかせていくのが大切であろう。

教師の“言語技術”が子どもの運動技能を変える 1

2008-10-10 23:15:35 | 体育
 『楽しい体育の授業』1月号の特集は,「教師の“言語技術”が子どもの運動技能を変える」である。
 
 今回の特集は,「話す」「聞く」「書く」「読む」という4つの言語技術の内容で構成される。
 これらの言語技術を使って,論理的思考力やコミュニケーション能力を向上させていくのである。

 私が執筆依頼を受けた内容は,「『聞く』言語技術の活用」の「低学年 器械・器具を使っての運動遊び」の領域である。
 
 「話す」技術,「書く」技術というのなら分かる。
 私の授業でも,例えば,ボール運動で1人1人に作戦を書かせ,それをもとにチームで話し合うという場面はよくある。
 
 しかし,「聞く」技術というのは一体何なのだろうか。

 もちろん子どもたちが話を聞いていなければ,授業は成立しない。
 あたりまえのことだが,「聞く」という行為は,「話す」という行為があるからこそ成り立つ。
 では,授業において話すのは誰か。

 一つは,教師である。
 教師の発問や指示に応答するという形で,大方の授業は進んでいく。

 違った見方をすれば,教師が聞かせる技術を持っていなければ,授業が成立しないということになる。
 本特集は,よく見ると「教師の“言語技術”」となっている。
 つまり,教師がいかにして働き掛けるかが問われているのである。
 
 教師が「聞く」ということは,つまり「発問する」ということである。
 発問によって,特にテクニカルポイントを見出させ,論理的思考力を高めていく。

 もう一つは,仲間である。
 ペアやグループでの話し合い場面がよくある。
 話し合いは,一方的に話しているだけでは成立しない。聞き手がいて,意見のやり取りをしなければ話し合いにはならない。

 お互いの意見を交換していく中で,コミュニケーション能力が高まり,論理的な思考力が身についていくのである。
 
 このような話し合い活動場面を生み出すのも,教師の行為である。これも教師の言語技術のひとつといえる。

開脚前転の発問研究 2

2008-10-09 00:00:45 | 体育
 一方,浜井俊洋氏は次のように述べている。

*************************** 
 マットで開脚前転を行うときは,できるだけ「手は遠くに着く」方がよい。
 そして,頭は手の近くに着く。
 こうすると長く手を着くことができ,しっかりとマットを押すことができる。
       『楽しい体育の授業』№229
***************************

 根本氏と浜井氏の主張は,全く反対ではないか。

 実際,私が今やってみたところ,遠くに着手しては立ち上がることができなかった。
 やはり立ち上がるときの着手は,ももの近くであろう。
 
 では,浜井氏はなぜ上のように書いているのだろうか。
 これは,最初の着手のことを言っているのだろう。「脚を開くタイミング」という項目の中に上のような記述があったため,読み間違えたのである。
 
 手を遠くに着き,頭を手の近くに着けば,膝が伸びて腰角度が大きくなり,回転加速が得やすい。やはりこれは,最初の着手のことだろう。
 
 他に根本氏は次のように発問している。
 
***************************
 起き上がる時,手を着くのはいつがよいですか。
  ア かかとの着いた後
  イ かかとの着く前
  ウ かかとの着くのと同時
***************************

 解はウである。
 着手が遅れると,回転力によって得た力を上体に伝導できず,立ち上がれないのである。

 明日ぜひ追試してみたい。

開脚前転の発問研究 1

2008-10-08 23:42:40 | 体育
 開脚前転の授業に取り組んでいる。
 先日の授業では,次のように発問を投げ掛けた。

*********************************
 脚はいつ開くのがよいですか。
  ①回り始めたらすぐ開く
  ②脚が頭の真上に来たときに開く
  ③脚が床に着く直前に開く
*********************************

 実際に試させ,論理的思考を促した。
 
 よいのは③であるが,挙手したのは2人だけであった。子どもたちの意見で多かったのは②である。
 ③であることを理解させ,練習に取り組ませたが,できた子が多くはない。
 
 子どもたちは,前転はできている。
 前転と開脚前転の違いは終末局面である。
 ならば,終末局面に限定した練習が効果的だろう。
 ゆりかごや背支持から開脚して立ち上がる練習を取り入れていくとよいと思う。
 
 終末局面には,着手の場面もある。
 
 根本正雄氏は次のように発問している。

********************************* 
 開脚前転で立ち上がるとき,手はどこについたらよいですか。
  A ももの近く
  B ももから遠く
  『体育授業づくり全発問・全指示8』
*********************************

 よくできる山本君に演示させたところ,「Aだと簡単に立ち上がれたが,Bだと立ち上がれなかった」と記されている。そして,「Aがよいことを確認してから,手の位置について練習させた」という。

道徳「志村けんに学ぶ」 2

2008-10-03 00:58:49 | 道徳
 この授業は,子どもたちを引き付ける。
 なぜ引き付けられるのだろうか。自分なりに分析してみる。

1.ネタの斬新さ

 まさか道徳の時間に志村けんを扱うとは,子どもたちは考えていない。


2.意外性

 普段「バカ殿」などで見ている志村けんの姿は,とても道徳的とは言い難いものである。
 ところが,志村けんがすさまじい努力と苦労を重ねてきたことを知り,意外性に驚くのである。


3.葛藤場面

 志村けんの立場を自分に置き換えさせ,何度か発問している。
 「何年経っても付き人のままで,自分のやりたいことができません。自分だったら続けますか。辞めてしまいますか」
 「ドリフターズのメンバーになったのはいいのですが,全くお客さんに受けません。番組も2ヶ月間中断になってしまいました。自分だったら続けますか。辞めてしまいますか」
 
 葛藤場面である。自分の立場に置き換えさせる手法を私は道徳でよく使う。
 
 「子どもたちが,課題を自分自身の問題として考えたときに,授業は成立する」と林竹二氏は述べている。まさに葛藤である。


4.教師の語り

 私自身が教員という夢を実現させるために,大変な苦労をしている。志村けんの努力と重なり合うところが多い。
 志村けんはテレビでしか知らない存在である。しかし,教師は子どもにとって身近な存在である。この場合,教師自身が教材になる。

道徳「志村けんに学ぶ」 1

2008-10-02 23:55:58 | 道徳
 9月30日,授業参観があった。
 道徳「夢に届くまでのステップがある~志村けんに学ぶ~」の授業を行った。
 http://homepage2.nifty.com/kenkayo/shimuraken.htm

 このネタは,2004年2月に「野口芳宏先生に学ぶ会in仙台」で模擬授業を行った際に開発したものである。
 今回は,4年生対象の授業である。この教材はもともと高学年対象のものとして開発した。4年生で実践することには不安があった。
 「夢に向かってあきらめることなく努力を続ける」というのがこの授業のねらいとするところだが,4年生で将来の夢を思い描いている子がどれぐらいいるかが把握できていなかったからである。

 授業の結果からいうと,たしかな手応えを得ることができた。4年生相手でも授業は成立した。
 驚いたのは,私の語りに目を真っ赤にして涙を浮かべていた子がいたことである。

 子どもたちの授業後の感想をいくつか挙げる。
 
○何年がんばって駄目でも,いつかは必ず報われる。夢をあきらめたら,がんばった苦労が無駄になる。

○学んだことは,1回,2回と駄目でもあきらめないでやると,やりたいことができるんだなということです。

○私は自分の夢があります。大人になったら叶わないかもしれないけど,私は最後まであきらめないでやりつづけたいと思います。私は,志村けんの勉強をして,そのことがよく分かりました。

○今日は,自分がやりたいことをあきらめないという勉強をしました。志村けんさんのことです。自分のやりたいことを,簡単にあきらめたりしない人なんだなあと,私は思いました。いつもはあんなことをしている人だけど,真剣なんだなあということが分かりました。夢をあきらめないということが,どんなに大切か,今日分かりました。私はあきらめたりすることがすごく多いので,これからは絶対に何事もあきらめないでしたいと思います。