渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

夜の三原

2021年04月28日 | open

 
夜の三原城=JR三原駅と城下町。
先週から、女子師範=現広島大附属校と
市立三原小学校の池とプールからカエル
が鳴き始めた。
三原小と附属ではカエルの種類が違うの
か、鳴き声が
異なる。ゲコゲコとケロケロ。
高等女子師範=広大附属も市立三原小も、
うちとは縁深い学校だ。戦前から。
まあ、なんというか、いわゆる「地元」
なのだろう。

今宵、雨がかなり降っている。
京都の酒でも飲むとするか。
窓の外を眺めての雨見酒。
それもまたよかろう。

地方ナンバー

2021年04月28日 | open




「備北(特に庄原と合併したところ)は広島
になりよった」

この狭量(笑
「なりよった」というのは全国区的に説明
すると、東京言葉で言うならば「なりや
がった」という意味の恨みを込めた方言
だ。
地方の意識性をよく正直に表現している。
自分のとこ(福山管轄)からのナンバーを外
れた事、あるいは自分ら(広島ナンバー)に
よそもん地区人が入って来た事を毛嫌い
する意識の表現だ。

これが地方を代表する一般人民の意識性
である。
首都圏人にはよく分からない。

私個人は、所有者と使用者の本拠地の居住
地ナンバーでいいと思っているから、東京
から転居の際には新たな車両は居住地ナン
バーにした。
正直なところ、関東でも特異なハマナン
以外はどこのでもどうでもいいや、てのが
ある。はっきし言って。
ハマ育ちにはハマナンだけが特別の感覚
があるからだ。あとは例え品川だろうが
ドングリ並びだと思っているとこがある。
これ、なかなか全国的には理解されない。

横浜の地元ではナンバーというのとは別
に、あの特殊な感覚は、子ども時分にハマ
に育った人間にしかハマ愛意識は分かる
い。
勿論、上記の地方の田舎の排外意識とは
てんでまるで異なる。
もっとハマの空気はごくナチュラルだ。
受容れるのだ。
少なくとも、ハマの人間はそれを持って
いる。それがハマの地元の矜持だ。
文明開花の最先端の意識が今でもある。
あとからハマ人ぶっても、根が違うので
馬脚はそのうち現れる。妙な取って付け
のハマ自慢をするからすぐバレる。
根が違う、という事が。

嘘は嘘だ。
嘘つきに限って、自分を美化し続けてる。
賢者は、かような者との接触に於いて、
センサーが働く。
それは愚なる者が奇しくも自分でその事
を撒き散らすからだ。
ハマ暮らしが人生で最も長い永ちゃんが
偉いのは、てめえの事をハマ人ぶらない
とこだ。
それが実はハマ風味なのだ。
矢沢永吉さんはよく分かってる。

ナンバー。
私はどこのナンバーでもよい。
ただ、ハマナンだけは別物だ。
この感覚は、地方のご当地ナンバーとは
まるで異なる。
これ、神奈川県の横浜に育っていないと
なかなか理解はできないだろう。この
特殊な感覚は。
ハマで育ったハマっ子だけがその真意を
知る。

私はハマナンは今は居住地が違うので付け
ない。
でも、それでいい。
ハマナンはハマっ子の物だからだ。
これは感性として。
感性としてのそのアイデンティティと法的
な規則は乖離している。ハマナンを今の
居住地で付ける方法は合法的にいくらで
もある。だが、それはしない。
ハマナンはハマ人の物だからだ。

そして、大切な事は、意識の上でも法的
決め事の上でもそれを同一化させてはなら
ない、という事だ。
そんな事をすると、明治5年から昭和23年
までの旧戸籍の族称欄記載のような制度と
して意味の無い事と同じになるからだ。

ただ、にわかハマ人ぶって、地方の純な
人たちを属性や帰属で嘘並べで騙す嘘つき
野郎は、そのうちかつて国を捨てたように
人を裏切るし、騙しをしょうこりもなく
繰り返す。
哀れに過ぎる。
偽ハマ人、偽東京人ぶっての虚飾の自己
自慢はあまりにもダサすぎる。最低。
それが二輪転がしならなおさらだ。
おめえ、なに調子こいてんの?と。
国を捨てた人間が何をやってるのか、と。
カッコ悪い。
まあ、全部が嘘まみれなんだろうなあ。
自分の過去に矜持無き生き方をしてきた。
みじめだ。

いくら、ぶっても駄目すね、それは。
論外。

しややっこ

2021年04月28日 | open


やっこはしゃっこいのに限るが、その豆腐
は、やっぱ木綿に限るとおいらは思う。
あくまでおいらは、ね。
これ、江戸もんの定番にして、不思議な
現象だ。
冷奴好きではない江戸もんなんざ、こち
とら見た事ねえ。
これがいいねえ、てのがあるのだろう。
それは、集団的な「諸個人諸君!」という
江戸前特有の文化を代弁している。

冷奴には葱とかつぶしは昔の江戸では贅沢
にあたるが、生姜と一緒に乗せたいとこ
だ。
そして、ムラサキは絶対必要だ。
醤油無しの冷奴なんてのは考えられない。
お新香にも醤油は必須だよ。
これは、個人的に思うのではなく、集団
的な諸個人諸君の東京地方の傾向として。

以前、中国地区の食いもん屋でおいらが
オシンコに醤油をちょいと注したら「それ
は野暮ってもんでしょうよ」とか言いや
がった西方中国地区育ちの野郎がた。
てめえ、東京に住んだ事あんのか?と
ぶっ飛ばしてやろうかと思ったがとどま
った。
あえて江戸弁風で物事知らずにトンチキな
意見しやがったのが気に入らなかった。
せめえ了見で人にてめえの価値観押し付け
やがってから。またかよ、と。
おまいさん、江戸の野暮の概念知ってる
のか?と。
ボケとツッコミさえ存在しない、笑いの
ツボが上方や江戸とかけ離れたとこのおま
いさんが、と。
そんなのどうでもいいが、食い方をしのご
の指図されるいわれは、江戸に限らず、日
本全国、金輪際ねえ。

そんで、醤油無しの江戸文化は存在しな
い。
京料理なんてのは最高だ。それは分かる。
だが、東エビスは醤油と塩だね。
特に江戸前握りなどは、刺身乗せシャリの
事ではない。
すべて、ニキリやシメでネタを加工してい
る。それ、業界では「仕事」と呼ぶ。
江戸前握りというのは、存外出す店は東京
でも今は少ない。
仕事をした握りにムラサキをつけるかどう
かはそれは好みだ。
江戸前の文化の一つに「強要しない」ての
がある。
あんたの好きなやりようでやりねえ、ての
大いに認める文化が江戸にはある。
それを否定する奴らは「イナカモン」「野
暮天」とか言われて馬鹿にされる。
狭量な者をとことん嫌うのよね。
それが江戸、東京人の気風(きっぷ)。

だから、例えば、フライにはソースか醤油
かとかの議論はくだらねえ事なのよ。
好きにやればいい。
でも、「天ぷらにはソースでしょうよ」
とか「フライにはソースじゃろ」とかを
人に言ってはいけねえのよ。
天ぷらには天つゆてのもあるし、天ぷら
やフライには塩のみてのも大ありだ。
それの一つを自分が好んで選択するのは
いいけど、人様にてめえと違う事してたら
それを諭すように意見するってのは、それ
推参なり、控えおろう!てなやつなのよ
ね。

コロナ第四次爆発の兆候 〜東京〜

2021年04月28日 | open



減るどころか増えとるやん。
対応にも世界の中で大きく立ち遅れ、
コロナ対策後進国と世界中で指摘され
始めた日本。
しかし、国家にその自覚一切無し。

ま、第一回緊急事態宣言の夜の国のトップ
の動きとその後の言動見てれば、さもあり
なん。
奥方花見でフィーバーの前任者はとっとと
バックれたし、その後釜も危機状況関係
なく宴会万歳!だ。
たわけどもが船頭やってりゃ、そりゃ船
は沈むわな。
日本の国民は泥の船に乗っている。

今、日本の医療現場は地獄だよ。
最前線で身を挺して働いている人たちの
事、ほんとに分かってねえなあ。

サクランボ 2

2021年04月28日 | open


あても摘んだだす。


別場所の高い木のほうはまだ熟れてない。


二階くらいの高さの梢には熟れた実が
見える。


ことしはモッコウバラも他も花が早い。
三原の市の花のサツキはもう散り始め頃。
サツキではなくウヅキになってる(笑
旧暦だと早月は6月なのでさらにずれる。


ナデシコは可憐だ。


この花の名はしらん(笑


サクランボ

2021年04月28日 | open


親戚の子が幼児たちを連れてサクランボ
を摘みに来た。
みんな喜んで帰って行った。
狭い庭でも実の成る木があると楽しみも
ある。



備後国御調郡三原町

2021年04月28日 | open

昭和初期の広島縣御調郡三原町。

備後国の城下町三原は戦国時代末期に
三原城築城により誕生した。
江戸期には三原町として栄えた。
明治以降は鉄道が明治27年に開通する
までは、不便な場所だった。

城下町として市街区があったのは、江戸期
から昭和30年代まで城のごく周辺のみで、
城下町を外れると一帯は田んぼと塩田の
広がる農業地帯だった。

昭和30年代の三原。


同位置、平成初期。


城の周辺は江戸初期から昭和30年代まで
なんら変わらず市街地だった。

明治時代。


三原八幡宮から山陽道を東に見る。
現在の西町、本町を望む。


同位置、令和3年(2021年)。
建物が新しくなっただけで、江戸時代から
城下はこの町並みの風景だ。


昭和33年(1958年)に初めて塩田の中に
国道が通った。江戸期には海だった場所。
というか、三原は全てかつては海の中。


糸崎の海岸線国道。


現在の三原市宮浦地区の昭和30年代。

これらの田園地帯にはすべて現在は住宅
が建っている。江戸期には山すそまで一面
海である。
三原が今のようになったのは、ほんのここ
30年程の事なのだ。
1980年頃は、まだこの昭和30年代のよう
田園風景が市内西部には広がっていた。
町であったのは城周りのほんのごく一部
のエリアのみだった。つまり、城下町のみ
が町で、あとは一面農村地帯だったので
ある。現在市内の本郷地区は、郡部であり
三原市ではなかった。本郷地区は平成大合
併により三原市に編入された。それゆえ
か、現在でも、本郷というと三原ではない
感覚が古い三原市民には残っている。
三原市内港湾部は明治以降に工業誘致に
より三菱と帝人の工業地帯だった。
農村部が縮小するに伴い、工場労働力と
して人口集約が進んだ典型的な明治近代
都市パターンの町であり、それにより、
誘致産業が撤退すると寂れて行く全国の
地方産業都市の轍を踏んだ町が三原だっ
た。
それはかつての炭鉱町や製鉄産業の町と
同じ道を辿っている。
産業誘致型町づくりの全国失敗例から三原
も全く漏れてはいない。

三原は江戸期には村ではなく町だった。
しかし、それは城下に限っての事であり、
狭い町を出るとあとはすべて農業地帯の
風景が昭和終わり頃まで広がっていたの
である。
江戸期の三原城下町の人口は1万人。
現在、広域に及ぶ平成新生三原市の人口は
8万人台(ここ数年で2万人減少)。
三原市は人口は増えない。減る一方だ。
ゆえに、市政の財源は現在かなり厳しい。

ガゾウ 〜モクズガニ〜

2021年04月28日 | open


広島県三原地方の方言ではモクズガニ=
上海蟹の事を「ガゾウ」とか「ガンギ」
と呼ぶ。
今の三原の若い人たちは知らないかも
知れない。
私も戦前生まれの叔父に教えてもらった。
掌よりも大きな沢蟹である。
地方により「ヤマタロウ」とも呼ぶらし
い。

これがゆがすと殊の外おいしい。
淡水域の小さな河川や田んぼの用水路など
に棲息しているのだが、近年、田園の消滅
や宅地造成などで激減している。

先日、市内散策をしていたら、ある川の
支流でガゾウを見つけた。
うわ、こりゃ珍しいと暫く眺めていた。
まだ成長途中なのか、ピンポン玉より少し
大きい程度の大きさだった。育つとソフト
ボール程になり、肢を広げると人間の大人
の手の倍くらいになる。

環境変化で強く感じるのは、河川について
だ。
三原市内の土橋=梶新橋の下の西野川と
いう川では、1960年代後半には潮が引い
た汽水域の川底の浜では小さな沢蟹が無数
に穴から顔を出してチョキチョキとやって
いた。とんでもない数の蟹が一斉に。
神奈川県の藤沢市江ノ島の駅のそばの川
でもよく見られた光景だった。
何年か前、昭和初期に架けられた三原の
土橋は撤去されてS字コーナーレイアウト
の複線の新橋が架けられた。
今、川を覗き込むと、蟹は殆どいなくなっ
ている。