渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

日本史は「線」でつなぐと面白い!

2015年01月28日 | 文学・歴史・文化・科学

『日本史は「線」でつなぐと面白い!』(童門冬二)

帯に「2時間でスッキリ!」とあるが、2時間で読めってことか?!(笑

読み進めると、あら面白い。
新幹線内での時間潰しにもってこいのような記述だが、結構読ませる。
童門さんは歴史を題材に組織と人間の問題を浮かび上がらせる話題作を
数々手がけている。
文学的表現をあえて用いず、淡々と事実と感想を述べる文体は、くどく
なくてとても読みやすい。
ただ、体言止めが多発するので、文列の品位は下世話な赤新聞(共産主義者
の新聞じゃないよ。笑)みたいになってしまっているきらいはある。

それでも、この書は「線」でつながなくとも面白い。
770円(税別)なり。これはいいよ~。
古代から明治まで、これで丸分かりだ(笑
あくまで概略としてね。
だけど、切開のメスの切れ味は鋭い。




大河ドラマの方言

2015年01月25日 | 映画・ドラマ・コミック



最近の大河ドラマは、『八重の桜』でもそうだったが、舞台となる地方
独特の方言や言い回しを連発して地方の色を出そうとする演出が
あるようだ。
『八重の桜』では「ならぬものはならぬ」だった。
今放送している『花燃ゆ』では「世話ない(=大丈夫)」という言葉が
よく出てくる。

しかし!
これね、全国の人に分かりやすいように原語をアレンジしている。
本当のネイティブ長州弁では「せやぁない」というような発音なのである。
長州弁と周防・安芸弁は似ている部分もあり、この「せやぁない」は現代
の行政区分でいえば、広島県の西部(特に芸北山間部)のエリアあたり
まで今も普通に使われる。厳密には広島に入ると「せやぁあない」と尻から
二音目が強調される。
広島県東部の備後に近づけば近づくほどこの「せやぁない」は
あまり使わ
れない。


ただし、「~してつかぁさい(~してくださいませ。=丁寧語)」という言い回し
は岡山県中部域まで現代でも使われている。
用法は主として「懇請」の心象の場合に使われる。「~してください」では
なく「どうぞ~してくださいませ」というような心情を表している。

こうしたネイティブ発音や言い回しは、現地を知らないと全国的には知られ
ないことだろうから
ここに公開しておきます。

(せやぁない地方)


図書館で調べもの

2015年01月24日 | 文学・歴史・文化・科学

(老眼鏡じゃねーよ)

午後、図書館に行って調べ物をしていた。
以前メモで速記した慶應年間の地図の描き写しを正確に訂正した。


江戸期の三原城周辺の村落について、調べたいことが分かった。
江戸期には三原城北側の山あいは浅野家がかなりテコ入れした
銅山だった。
沼田川を挟んだ南側の安芸国の山あいも鉱山であり、鉱物資源
が豊富な土地だったことが分かった。
6時間、席に座りっぱなしで史料を読みまくったが、時間足らず。
コピーが可能なので、追って考察をまとめたい。

空海が各地を歩いたのは鉱山探しであり、彼は僧侶であると共に
山師であったのではないかと私は踏んでいる。
彼の行動は鉄山や銅山等の「金山」探しだったのではなかろうか。
犬を先導させたのも古代伝承の鉄資源探査に符合する。

金属鉱脈のある地域には独特の植生が見られるということを本日
知った。鉱脈が露出している場所は、山言葉で「カネクサ」と呼ばれる
シダ類が繁茂するのだ。
やはり、ネット情報のみに頼る調査などは駄目だ。
ネットではアタリをつけることしかできない。
実際に自分が図書館や研究機関に足を運んで、文献史料をあたら
ないと、学術的探査は到底できない。

三原のカネクサ。周辺は松林である。
精錬用木炭の為の人工的な第二次林だろう。



本日判明したことで、三原の土地もいかにも吉備地区らしく、江戸期
から
相当に底意地が悪い土地柄であることも判明した。
ここに書くのも憚れるようなことだ。
そうした気風は明治以降までも続き、詳細は伏すが、ある施設の
設置に反対した住民たちへの弾圧措置として、三原の行政は
その村の子弟に通っていた義務教育過程小学校への通学を禁止
したりしている。

やむなく遠くの学区へその地域の住民の子供たちは通学せざるを
得なかった。
また、ある行事で村落を通る時に、その村民が不快感を顕にし、
官憲から厳しく個別に叱責されたりしている。
まあ、住民側も執行権力側も、なんというか民事介入どころか、かなり
エグい。三原は意地悪をするのが公的にも当たり前の土地柄だった
ようだ。それは「維新」の後にもである。

そうした気風が何に基づくかも、藩政時代から明治大正昭和初期の
経済動向と経済基盤、人口の流入背景を俯瞰すると、あることが見えて
きた。三原は他地方の炭鉱町独特の気風と近似の状況が濃かった
のである。
古くからの工業地区三原、商業地区尾道という産業特色の基点が、
尾道と三原の住人の気風の違いに接続しているある種の人的気風
形成のバックボーンにあるということがうっすらと浮かび上がってきた。
これは奇しくも、中世以前の古代までの「産鉄」と密着するならば、労働力
投入の「工業地帯」の同位性として、歴史的連綿性としての同じような
バックボーンを持つことになる。まさに上部構造は下部構造に規定される
という社会科学的な図式が浮かび上がる。
なるほどと、少し見えてきた。

「古三原鍛冶はどこで鍛刀したのか」がメインテーマだったが、思わぬ
副産物を得た。
ただし、柞原(ミハラ。古代読みはミハラ。その後ミワラ。明治以降に
再びミハラ)と古代に呼ばれた三原が、やはり沿海部ではなく、内陸地
であることを示す史料も発見した。
古代にミハラと呼ばれた場所は勿論中世末期の城郭が築城された
場所ではないことは確実だが、内陸部であることのさらなる確証が
得られれば、「古ミハラ」なる刀工がどこで鍛刀したのかも比定できる
可能性が開ける。(それは現中之町ではない)
これも、後日まとめたいと思う。

法律学は権利と義務の連鎖の解釈と理解が基軸だが、歴史検証は文献
史学と考古学だ。そして、そこに地質学や民俗学等他分野の解析を加味
することで、多角的な実証主義的検証が可能になる。
脳内の想像だけでいくら「現地」を歩いても、論は構成できない。


剣仁

2015年01月23日 | 文学・歴史・文化・科学
佇む剣仁(^^)






仕事がハネてから、新作刀の打ち合わせを兼ねて町井先生と食事した。
黒毛和牛のしゃぶしゃぶ、ウマし!
先生にまるまるご馳走になってしまいました。
ありがとうございます。お世話になりました(^^)

刀剣談義は楽しい。
時間があっという間に過ぎる。
出来たてホヤホヤの現代刀から博物館級の数千万円の平安末期の古備前
まで、日本刀も多く見せていただいた。眼福至極なり。
重要刀剣も多かったが、特に槍については槍博物館を開設できる程の
質と量をお持ちで、圧倒される。
十文字槍の穂の保存には特別の桐箱を職人さんに特製で作ってもらい、
空中に浮かす形ですべて保存されている。
町井先生の日本刀に対するありあまる愛情と扱いの慎重さを今更ながら
だがひしひしと感じる。
日本刀への愛とは、こうしたものなのだあ、と再認識した。
一口一口、すべて大切に育てた子どものように扱っていらっしゃる。
良質とはこういうことだと分かる。
事実を現認しもせずに、ネット上でクズ呼ばわりする自称モノカキも
いるが、真実、事実は主観ではなく現実として存在する。
自分が蜜柑が白だと思うから蜜柑は白なのだ、という理屈も感性も人間
社会では通用しない。事実は事実として厳然とある。
刀剣店「美術刀剣刀心」は、名は体を表している。

直に接していると気づくことがある。
町井先生は、人の悪口を言わない。
悪意を以て引例を出すことをしない。
なんだか、人となりは、刀工小林直紀さんと同じ世界にいる人のように
思える。
ほわんとしている。
接していると、剣人というよりも剣仁であることがよく分かる。
医師にせよ、刀を扱う者(太刀佩く者としても)にせよ、「仁」は職業属性
以前に、それに携わる者の資質としてとても大切なことではなかろうか。
改めて勉強になった。

もう一つ、瞠目した。
町井先生のご自身の研ぎ、詳細に拝見した。
めちゃくちゃ上手い。
錆身から仕上げまで仕上げてコンクールに出して入選した刀を見た。
「観た」ではなく、「視た」。
見観両の目で視た。
日本刀の研ぎというものは、研磨師の技と心がすべて反映される。
日本刀の鑑賞は、刀そのものと研ぎによる表現技法の二つが楽しめる。
見ていたら引き込まれる研ぎを日本刀研磨師町井勲は実現していた。
刀に息吹を吹き込んでいる。
面白いことをおっしゃっていた。
「刀を研ぐのだというつもりで研いだことはない」という。
刀身と砥石と対話しながら、「刀の向こう」を研いでいるようだ。
清涼な一筋の光がそこにある。

刀と人。刀は刀だけで物理的に存在はせず人と共にあるのだ、という
ことを深い部分で学んだ一日だった。
何かとても大切なことに改めて気づかせてくれた町井先生に深く感謝
したい。

一年前の記事

2015年01月20日 | 文学・歴史・文化・科学
 
赤色文化 ~古代の日本人とハヤトの蛇行剣~
赤色文化といっても共産主義のことではない。古代における緋(あけ)の赤色の文化のことだ。ヤマトに抵抗したハヤトの文化が興味深い。生物人類学的な意味での「大和民族」というものは存在しな...
 

 


城内

2015年01月20日 | 文学・歴史・文化・科学


(今治城)

東堂高虎が築城した愛媛県の今治城は非常に美しい城だ。
海水を堀に引き込んだ城で、広島県の備後三原城も明治の鉄道敷設
で破壊されなければ、まさにこのような景観だったのではなかろうか。
三原城は戦国末期の築城なので天守は存在しなかったが、イメージ
はこの今治城にかなり近いものと思われる。
三原城も今治城も水軍を活用するため、海城としての性格が強い。
また、城内の広い敷地に侍屋敷を配し、海上防備の備えとした点も
共通している。
三原城はこの今治城の画像に見られるような櫓が32も備えられ、城門
は14あった。規模は櫓20、城門9の今治城より大きい。

城門とはどこの城でも似たような物だが、城が健在だった頃の三原城の
各門もこのような様子だったと思う。








三原城の西築出には酉ノ御門と西礼御門があり、酉ノ御門の横には隅櫓が
あったが、このような景観だったのではなかろうか。
三原城の櫓は侍屋敷敷地に面しており、櫓の警護詰め常駐人員と近隣住居
との関係が如何なるものであったかは、史料でも詳らかでない。

城は武士の軍事拠点であり、住宅街である城内に入るには、こうした門を通らないと

入れない。現在に例えると、自衛隊施設や防衛省敷地内に入るようなものだろう。
侍の屋敷は拝領だから、言うなれば官舎だった。時代が移り御政道が変われば
いつでも「出て行け」と立ち退きを迫られるってぇ寸法よぉ。
そもそもが武士なんてのは主の所領替えやお上の意向で各地を転々とする、
土地に縛られない種族だからね。
武士こそが土地には土着しない本当の流浪の「漂泊の民」なのではないかとさえ
思ってしまう。

まあ、武士たちはどの藩でも大概は城内に住宅地が設置されて居住していたの
であるが、なんというか、本音を言うと、あたしゃ市井の
城下町に暮らしたほうが
気が楽だね。

城の中で暮らすなんて、しゃっちょこばって肩こっていけねぇよ。


下町に息づく伝統の技 江戸和竿

2015年01月17日 | 文学・歴史・文化・科学



江戸時代、旗本八万騎とはいわれたが、大身旗本を除き、多くの
幕臣は内職のアルバイトをしないと生活ができなかった。
現在の貨幣価値に換算して、年収60万円~100万円程度では
まず暮らせない。米価換算だけで江戸期の物価を計ることは
できないが、幕末の貨幣価値が下がった時代に40石で約16両、
1両を10万円として160万円にあたる。これは切り米取りの場合
で、知行取りならば、そこに四公六民が入るから実質は16石=
6.4両、64万円の年収となる。これは1両10万円と仮に計算した
場合で、最幕末などは1両あたりが3万円くらいまで貨幣価値が
下がり、さらに物価は上がっているので、もう下級武士などは
まったくにっちもさっちもいかず暮らして行けなかった。
それでも、幕臣旗本などは150石もあればまだよい。地方の藩
では、150石も扶持があったならば上士も上士、小藩では150~
200石級の扶持取りの武士は藩の重役クラスであった。
武士としてのお役目どころか、日々の暮らしさえ成り立たなかった
江戸の武士は内職をして糊口をしのいだ。
虫飼い、籠作り、傘貼り等、江戸の職人産業を底辺から支えて
いたのは、実は階級的には最上級にあった武士階級であった。
江戸期封建体制の最大の矛盾というのはここにある。
人として暮らせない給与(扶持)しか支給しないまま大量の武装
集団を雇用しておかなければならなかったのが封建体制である。
しかも、武士の武器は自弁だ。官給品ではない。少し高位になると
軍役には主以下侍を何名動員しなければならないという決まりが
あった。だから食えない武士は食えないまま侍や従僕を雇用
せざるを得なかった。これはどんな下級武士でも、郎党下僕を用意
した。三両一分(3.25両=年収32万5千円)の給与しかもらえない
で町人たちから「サンピン」と馬鹿にされながらも、武士は体面を
保つ必要があり、腰の両刀など換金はできなかった。それでも、
町金融から借金できるうちはよい。返済の見込みがないまま金貸し
は武士に金を貸付け(借りないと身動きが取れない)、そしていよ
いよ首がまったく回らなくなっていたのが江戸時代の武士だった。
日本国内人口が3000万人の時代、若党まで含めて300万人の
武士がいたが、ごく一部のほんの数えるほどの武士を除いて
武士全体が極貧だった。江戸期中期以降は大名でさえ「大名貸し」
という超高利貸から多額の借金で実際には身動きとれない状態
だった。旗本の家でも娘が遊郭に身売りしたり、御禁制を破り、
屋敷内で賭場を開いたりしなければならないような状態だった。
武士の経済的実情をありのままに知れば知るほど、なぜ時代劇が
ウケるのかが見えてくる。時代劇は武士をカッコ良く描いた虚像の
ファンタジーだからだ。現実から大きくかい離しているが、だから
こそ、宝塚ベルバラのように人々は楽しめる。
だが、現実は、筆舌につくせないほど苦しく、辛酸をなめる生活を
していたのが武士だった。

江戸の武士が我々に残した物に「和竿」という世界でも稀有な
道具がある。
これも日本固有の日本刀と同じで、釣果を効果的に得るという
実用性を徹底的に追及して行き、ついには芸術的な作域まで
到達した。
日本は世界でも有数の釣り大国だが、その歴史は古く、江戸期
に一挙的な道具の発展進化をみた。
他の産業の発達・内容の深化と同じように、産業を下から支えた
のが元来支配階級だった武士(武士の中では最下級)であった
という構造が首都における日本の産業文化発展の特徴だった。

和竿の素晴らしさは、使ってみれば分かる。
釣り用具として現代化学物質で作られた竿と単純比較すると、
比較にならないような面も多いが、化学素材が無かった時代の
和竿と現代物を比較すること自体が本来成立しない。
ただ、マニアックな話としては、フッキングしてからのトルクと
制御しやすさは化学素材は竹を超えていない。これは毛鉤釣り
をすれば即断できる(違いが判る者ならば)。西洋毛鉤釣りでも
渓流においてはバンブーロッドを超える釣り味を出す新素材は
現在まで存在しない。
竹竿がバレにくいのは、神が我々に与えた試練に思える。
なぜならば、竹を知ると抜けだせない世界にハマるからである。
フックしてからのランディング制御以前に、釣りと向き合う自分を
制御できなければ、人は破滅する。釣り師の多くが身を滅ぼして
いるのは洋の東西を問わない。
釣りとJazzは麻薬なので、人間にとって、とても危険な領域なのだ。

それでも、本邦の釣り人は和竿に思いを寄せる。
食えない武士が作り上げた和竿の末裔たちに、釣り人はそれと
知らずに心を躍らせる。
物は良い。ただ、高額になりすぎて、釣りの道具として私のような
一般庶民はなかなか使えないという現代の矛盾も発生している。

下町に息づく伝統の技 江戸和竿1/3


下町に息づく伝統の技 江戸和竿2/3


下町に息づく伝統の技 江戸和竿3/3


下町に息づく伝統の技 江戸指物

2015年01月17日 | 文学・歴史・文化・科学



下町に息づく伝統の技 江戸指物1/3


下町に息づく伝統の技 江戸指物2/3


下町に息づく伝統の技 江戸指物3/3


邪馬壹国 三原説

2015年01月14日 | 文学・歴史・文化・科学



ぶわっはっは!
おもろい。 → こちら(一部閲覧できます)

ありえんわあ(^^;
でも、ありえないと決めつけるのはよくないよな。

ただですね、ヤマイチ国はともかく、三原の名称や古代製鉄関連について
考察しているところは面白い。

それに、古代山陽道で三原インターのところだけまったく学術上も名称が
不明であるという点、「真良(しんら)」という地名は私自身気になっていた。


あと、三原の「駒ヶ原」は「高麗が原」ではなかろうかと私は踏んでいる。
加羅加波神社は韓皮(からかわ)で皮フイゴかもしれない。しかも元々は
中之町ではなく真良にあった。
真良については昨年夏に日帰りキャンプに行ったが、製鉄原料の赤土
だらけだった。邪馬壹国が日本のどこかにあった弥生時代の古代国内
製鉄原料は、この赤土の
赤褐鉄鉱だったことだろう。そしてベンガラも
得て朱塗りの文化が栄えた。


古代の真良(しんら)の場所。この土を還元すれば鉄になる。


ソブ、いわゆる鉄水だ。水源は山間部であるのに湧水で、地面から染み出す
ように溢れている。相当量があるからキャンプ地が管理のためにU字溝を
掘ったのだろう。



古代真良の駅家跡地。古代山陽道を南から北にのぞむ。画像右側の小路が古代山陽道だ。


坂を上ると高原地帯が広がる。この地域全体が「真良」だったこと
だろう。現場に行くとすぐに感じるが、なぜか非常に違和感がある。
それは、地形と風景を見て、「拓かれた場所」であるような感覚が
生まれるからだ。現在は山間部の田畑になっているが、明らかに
「山が崩された」場所なのである。この場所の風景は独特なものだ。
現地に赴き実際に肉眼で一帯を見まわさないとこの景観がもたらす
「訴えかけ」は掴みとれない。文献や文字情報からだけでは理解しえ
ない世界がここにある。やはりフィールドワークというものは重要だ。
ここ真良(しんら)から北東の八幡地区にかけてが古代の柞原(みわら)
であっただろうと私は推定している。柞原の文字の以前は『和名類聚抄』
によると美波良である。備後三原以外では淡路、安房等三か所出て
くるがいずれも現在まで地名に残っている。
上掲山陽道地図で地名が「不明」となっている駅家があっただろうと
されている地区が八幡である。国内最古の製鉄炉が発見されている
場所だ。そこは「久井(くい)」という地名である。「ク」は「柞」であり、
ユスが繁る豊かな山林を表す。「イ」は水だろう。木炭に必要な山林
資源が十分にあり、そこに水と来たら、製鉄冶金以外には考えられない。


付近の散策ルート(外部リンク)

鉱山である「火の山」と呼ばれた蟻ヶ平(蟻ヶ峰)から見た三原市本郷方面。
この付近まで海が入江になっていたが、この本郷界隈から向こうの山間部
にかけてが古代柞原(美波羅)である可能性が高い。「三原」という字と
「三つの原が合わさった場所」というのは室町期以降の造語と付会であろう。
この写真に見える平野部は海であった。そして、この場所から山をまたぐ
地域が古代の柞原であったことだろう。


私の過去記事 (吉備国沼田郡真良)

私のライフワークに古三原はどこから来てどこで鍛刀したか、
というテーマ
がある。

これの問題意識としては、平安時代の古代末期に刀鍛冶はポンと発生した
のではなく、神代の鍛人
(かぬち)から続く技術の延長線上に古代末期の
日本刀の発生があったと
私はみている。
七支刀にみられる高度な朝鮮半島の技術者が倭国に何ら
かの理由で渡来し、
国産鉄劍を製作し、その流れの延長線上に倭国が鉄劍
や鉄刀を作って行き、
やがて純国産物として倭国から日本になる頃に日本の
技術者(もしくは渡来
帰化人)が日本独自の技術としてさらに完成させて
いったのではなかろうか。
製鉄と鍛造技術は外来であることは学術的にもほぼ確定的なので、そうした
外来技術が高度に昇華して日本刀の発生に繋がったとみるのが順当だろう。
さらに、ここから先は大胆すぎる推理だが、百済や加羅(かや、みまな)に住ん
だ製鉄技術者は果たして半島の固有の種族であったか、という疑念が私には
ある。その技術を有していたのは、実は半島に住した倭人ではなかったか。
場所の移動としては、渡来人=外国人が倭国に技術をもたらしたのではなく、
大陸半島で培った在地倭人の技術を倭人が逆輸入したのではなかろうかと
いう漠然とした疑念がある。


三原という土地は不思議な場所で、学術研究機関もほぼ未着手の状態の
地域だ。
古代史の中で登場したこの地区は、ヤマト中央王権との密接な繋がりが
古墳の状況や出土品から見てとれる。古代にはここは重要な渟田門(ぬた
みなと)であり、要衝だった。遣唐使船を一手に引き受けた広島県倉橋島と
同じく、現三原の和田から須波にかけての海野(かいの。現貝野)には
鍛冶職と造船技術者が古代には集住していた。室町期の貝三原の鍛刀地を
貝野=海野とする説を頭ごなしに否定する人は多いが、江戸期の広島藩の
記録には古い時代からの伝承として海野に刀鍛冶住すと記載されている。
また、古代鉱山の場所とそれを管轄する役所が本郷地区にあったことも
書かれている。古代航路の補水地だった長井の浦と呼ばれた井戸崎=糸崎
と貝野=海野は湾をはさんで丁度東と真西に位置する。古三原鍛冶は
糸崎にて鍛刀し、後代一門の貝三原は海野に住した可能性もある。
「貝三原」はもしかすると「かいの三原」と読むのかも知れない。
三原地区は古代前期にはヤマト・吉備王権と密接なつながりがあり繁栄し、
古代末期の平安最末期以降、ゴソッと歴史の表舞台から消える。
そして、再び「三原」という文字を以て表だって登場するのは中世末期の
三原城が築城されて以降だ。弥生時代から古代前期に栄え、中世初期
に歴史から名を消す。ここの流れには必ず何かが潜んでいる。

現在のところ、弥生時代と思われる日本最古の製鉄炉
が発見され
ているにも拘わらず、近隣から同時発掘された器物が6世紀の
物だからと
「弥生時代の炉ではない」と学術界は多角的検証をせずに簡単に片づけて
しまっている。

時代が下って、中世に至って、なぜ急に三原市内を流れる備後国と安芸国を
分ける沼田川(ぬたがわ/渟田川)の河口に土砂が堆積してデルタ地帯と
なっていったのか、誰も説明しようとはしない。
広島市のデルタ形成は鉄山との関連性が指摘されているが、三原の渟田川
流域は学術界でも探査が未着手のようである。

冒頭の書は三原生まれの赤門出身のインテリが書いた書だが、視点の中心は
「渡来人vs大和(倭)人」という図式を描き、「大和は渡来人が権力の一翼に
入り込んだことを隠蔽した二重権力」「渡来人である来歴は秘匿したかった
はずだ」と近代嫌韓思想に凝り固まった視点で、感情的なところから政治支
配構造を紐解こうとしている。
その理由として「朝鮮人であることを隠したかったはずだ」とする。朝鮮人は
嫌われ者だからということらしい。「渡来人は帰れ!という気持ちだったに
違いない」とまで感情をむき出しにしている。
それは著者の気持ちであって、先住倭人の感情を代弁するかのように
古代人を持ち出して利用しているだけだ。
こういう視点に立つ書は、いかに多くの文献や考古学的実証を持ち出そうとも
学術書足り得ない。公正妥当、学問の中立を著しく欠くからである。
三原人というのは十二分に吉備人としての性格・精神背景があり、底意地が
度外れてひねくれている。岡山倉敷をはじめ、吉備の人間は骨の髄まで性根
がえげつない面が多分にある。ようもここまで人の悪さがあるものよ、と別な
土地から来た人間は一様に言う。それはそれが事実だからだ。維新後に後の
総理大臣となった原敬が西国を遊学して安芸広島まで来ているが、吉備地区
に入るにあたり「このあたり(美作-古代吉備国の一)の人は人が悪いと聞き
及んでいるが本当か」と人に尋ねたと原日記に記している。ただ、原は訊く
相手を地元の人に訊いているので言下に否定されている。原敬、何を考え
とるのか。地元の人間は「嫌われている?性格が悪い?そがぁなことはなあで」
と言うに決まっている。
ちなみに岡山県は県主催で「なぜ岡山県人は嫌われるのか」というフォーラム
を開いたりしていた。しかし、県外からの移住者はパネラーに呼ばない。
岡山から出たことがない人間だけをパネラーにして「なぜだろう?そんなことは
ないのに」と頭をかしげている。そういう感覚がこの吉備地区独特の感性だ。
自己美化は最大限にするが、自分が他人にしたことによる人の傷みについて
も最大弦に眼を逸らす。そういう面がかなりある。

また、私にはよく理解できない三原人の感性としては、部落差別などについても
「部落民がおるけぇ差別があるんよ」というような発想を三原人はする。
なぜ集団居住を強いられた(あるいは産業利便性から同族集住した)のか
というところには頭が回らない。在日朝鮮人に対しても「あいつらがおるけぇ
治安が悪うなるんよ」と三原人は発想する。
ならば、東国からの外来者で異文化に育った私などはあえて三原弁で言いたい。
「そのように考えるあんたがおるけぇいけんのんよ。あんたがこの世からいなく
なればそういうことものうなるんじゃけぇ、あんたがいなくなりんさいやね」と。
三原人と同じ視座に立って同じ言い回しで。
だが、こうした発想はまったく物事の本質を見ていないし、社会問題の何の
解決にもならないのである。被差別部落民がいるから差別があるのではなく、
差別を統治構造の安寧のために為政者やそれに阿る勢力によって造られたが
ために賎視も差別も存在するのだし、その対象者が後付けで設えられたの
である。

とにかく、この著者は三原人特有の「
まず偏見と先入観ありき」だ。いかにも
三原人らしい。さもありなんという気が文脈からぷんぷん臭う。古代渡来人
が倭人に嫌われていたということを証明する根拠は一切示していない。
すべて、著者の「歴史観」に基づいて「渡来人vs先住倭人」という図式に
持って行こうとしている。しかも、「古墳造営に携わった民衆に目を向けよ」
ということを欺瞞的に言いつつ差別排外主義的な感情論が政治構造の機能
として存在したかのように論拠を示さずに展開する。非常に代々木チック
なニオイを私は感じる(笑)。
これはかなり客観性を欠くもので、歴史的検証論考の視座としては無理がある。
王権支配の構造の物理的根幹は、感情論になど立脚してはいないからだ。
構築物である器が出来上がる過程や継続・保全にあたっては、憤怒や怨恨
によって政治が為されるのではないという決定的な人間社会の歴史を見
過ごしている。それこそ、そのような「あいつらはどうじゃけぇどうじゃ」という
ような物の発想の仕方は、吉備・三原人くらいなものだ。世の中の歴史や
大勢(たいせい)はそうした瑣末な一個人の感情とは別な部分で動いて
いるのである。

政治的対立や紛争の根源は感情などではない。戦争にしても敵国憎しで
行なうのではない。そうした感情は渦中において心理操作として戦争を
遂行する側が国民に対して銃後統治のために植え付ける類のものであり、
衝突の原理として人間の感情などはまったく存在しない。
政治紛争や国家間対立の原因は「利害関係」という物理的な問題である。
感情など関係ない。組織とは、微細な単位から強大な国家に至るまで
そうしたものである。利害の存在こそが対立の根本原因である。
大和人を渡来人による支配側とし、古代大王が渡来系であるとする
部分には賛同できる。それに対して先住系倭人が王権を憎み、いつか
国家転覆をと根に持ったこともあるかもしれない。日本の中央王権=
渡来系であることにも異議はない。天皇家は列島が大陸と陸続きだった
太古から日本にいた原始の土着民の末裔ではない。「天孫降臨」にみら
れるように「どこかから」渡来した部族であったことだろう。それは当然
海外になる。
だが、先史的渡来の氏族を先住部族とするのはともかく、4~5世紀の
渡来系氏族が王朝に重用されたとはいえ、「朝鮮人」であることを以て
人々から忌避され、王族も自分たちが「朝鮮人」であるゆえにその出自
を秘匿していたかった、とする筆者の視点には到底同意できない。
取るに足らぬ韓国人の反日思想や日本人の嫌韓思想と何ら変わらない
ものであり、歴史的衝突の原因を感情論に求めるのは学術的な知的
活動ではないからだ。
歴史事象は、科学的かつ弁証法的にメスを入れる物理的な物証なくして
解析はできない。

しかし、古代史において明らかにヤマト王権と密接な関係にあった勢力
が存在したと思われる備後・安芸三原地区に多く残る古代地名と墳墓
と製鉄遺跡にスポットライトをあて、そこから古代史を紐解こうとした視点
は大いに評価に価する。
実際に、三原の土地は解明されていない事項が多すぎる。
古代産鉄と深い関係性が認められるのにだ。

お宝がザクザク眠っていると私は思うけどね。
沼田川(渟田川)流域は古墳群地帯だし。

この本、と学会ネタとしても面白そうなので買おうと思ってアマゾンを調べたら・・・。



送料のほうが圧倒的に高い!(笑
しかも、書店に問い合わせたら、
版元にもう在庫ないそうで・・・(^^;
梅原猛『水底の歌』のようにはいかな
かったということか・・・。


国宝 七支刀

2015年01月13日 | 文学・歴史・文化・科学





動画
 国宝七支刀 1/4

→ 国宝七支刀 2/4

→ 国宝七支刀 3/4

→ 国宝七支刀 4/4

 


技のココロ

2015年01月13日 | 文学・歴史・文化・科学



このサイトの連載記事、めちゃくちゃ面白い。→ こちら

私の本職は鍛冶職ではないにしろ、「フイゴ祭り」を毎年取り行なう
企業(本社東京)に現在は勤務している。
このサイトの記事は、本職のほうの役職の見聞を広める意味でも
たいへん興味深く読ませていただいた。
鍛冶という個人的な嗜好だけでなく、本業の職務の面からも勉強になる。


このサイト記事中に出てくる鍛冶は三代目左久作池上喜幸氏だ。
本物の江戸誂え鍛冶は現在では日本国内で五指に満たなくなってしまった。
本物中の本物。カッコイイー!





「日ごろは開発や経営の最前線で働いておられる読者の方々に、
「人と仕事」を通じ文化/芸術の奥深き世界に触れていただくことも
目指しています。」

良質な情報を読者が選択して読む。

インターネットの正しい使い方だ。
また、編集者もライターも、筆取る者として実に良い仕事をしている。
文章を生み出す者はこうありたい。

ただし、日本刀の項については、個人的には私は言いたいことも
あるが、ここでは割愛する。
嘘と真実は読者が鑑識眼を養うしかない。
嘘と真(まこと)の見極めの能力が読者に問われるのも、インターネット
の特徴だ。


逆刃刀

2015年01月11日 | 映画・ドラマ・コミック

漫画はマンガであるから面白い。
ただし、マンガの世界を現実の世界と勘違いするとトンデモ
君になったりする。

だが、現実世界にはトンデモ君が実際にいたりするのだから
恐ろしい(笑
武術界にはトンデモのデムパのDQNが多いが、これは日本一
のような気がする。
 こちら → 飛天御剣流とイカサマ試斬

何度読んでも噴き出してしまう(^^;

ところで、るろ剣の逆刃刀って、現実世界ではあるにはあるのだけどね。
短刀だが、いわゆる花刀というやつね。



荘司直胤さんは花刀を何口も造っている。
これなんて立派な作りだよぉ。

→ こちら(説明が分かりやすい)

私も近所の刀屋さんで実際に手に取って直胤の花刀を見せて
貰ったことがある。直胤らしく上出来の作だった。
そこの店主も「風流人が差したのだろう」などと言ってた。
直胤だけに、「長いと折れるからじゃね?」なんて少し意地悪く
も考えたが、刀身に和歌を彫るなどという洒落たこともやって
のけている。どうやら、大慶直胤自身が武張ったことがあまり
お好きではなかったのかも知れない。
風貌はかなり武張ったような感じだったけどね、直胤は。


「今時正宗のような卸鉄をやっていたら金がいくらあっても足りない」
と文章で残している位だから、良い鋼が手に入らなかったゆえに
あのような折損しやすい刀になってしまったのかも知れない。
ただし、見た目は直胤の作は上々作、新新刀でも第一級とされ
たりしていたし、現在でも人気は高い。刀は見た目では頑丈さや切れ
味は判らないという典型が直胤や金道ともいえる。
まあ、直胤は世相騒然となる時期
以前の人であるので、武用とかけ
離れた江戸期の絢爛時代
最末期の人の作だから、武用と無縁という
のも仕方ないかもしれない。

黒船が来てこりゃ国防考えないとやばい!ってんで、国内の各藩
は日本刀を徹底検査したり強度試験したりして武器として戦国時代の
ように再興させたのだから。


ところで、この逆刃刀というのは、短刀だからできるのであって、
長い大刀だと、正直なところ作るのは可能でも、現実にはぶっ叩きの
棒にもならないように思える。
それは、日本刀独特の外的衝撃による応力除去の吊り橋システム
というものからくる形状をまるで無視しているからだ。
鎌じゃないんだからね。あのような形で衝撃に耐えられようもない。

直胤の両刃の花刀はこのような切先形状になっている。


ようするに上古直刀のような切り刃造りなのである。
片側は平造りね。式包丁のような形状を想像してもらえば分かり
やすいかも知れない。

(古式形状の式包丁)


ただ、鋩子がある通常の刀の形の棟に焼き刃をつけるということは
こういう形状になるということだろう。

これねぇ。。。
反りによる応力拡散除去の原理を無視なんだよねぇ・・・。刃側を使うと。
かといって、ぶち殴り用の道具としてもかなりいろいろな面で強度的に
どうかと思う。

そして、仮に作るとして、焼き入れ前にはこのようなボッコシの反りを
つけておかないと、マルテンサイト変態で膨張するから、普通の刀
の反り具合にはならない。通常の刀は反りが強くなるので反り浅めに
仕上げてから焼きを入れるが、その逆ということになる。

小刀などの直刀がうつむいた逆反り、つまりタケノコ反りなのは、あれは研ぎ減り
ではなく、完全に焼き入れによるマルテンサイト変態の膨張の影響だ。
切先の返りを深く大きく取るでしょう?小刀は。
そうすると、焼刃が背中まで深く回っていることになる。
すると膨張する体積が増えるから、グンと張る訳、背中側が。背中のほうが
刃先よりも太いからね。物理的に化学変化でそうなる。焼きがキッチリと入れ
ば入るほど小刀はうつむく。だからそこまで見越して焼き入れ後にまっつぐに
なるように仕上げてから土を置いて加熱するのが本当なのだが、最初から
直線にしておくと、きれいに焼きが入ったならば刃側にコンニチハしてしまう。
俺の作なんて典型だよ。これはたぶん、上古形状の切刃直刀でも返しを取っ
たらそうなるね。



で、話は戻るが、戦闘用の大刀で鉄の棒としても、人を斬らないために
刃を逆に付けるなんてのは、いわゆるマンガなのよ。
まあ、なんというか、ようするにマンガだからファンタジーなんですよ、

ファンタジー。


映画『博多っ子純情』初DVD化予告篇

2015年01月10日 | 映画・ドラマ・コミック

映画『博多っ子純情』初DVD化予告篇 光石研デビュー作
監 督:曽根中生 DIGレーベル第一弾


2013/04/12 に公開

2013年6月7日(金)堂々発売&レンタル開始!
長谷川法世原作の人気漫画『博多っ子純情』を映画化。
脚本は、『約束』、『旅の重さ』­等で知られる名匠、石森史郎と
長谷川法世自身が担当。監督は大ヒットシリーズ『嗚呼!­!花の
応援団』を手掛け、その後、突然消息不明となり、不穏な噂が
飛び交う中、201­1年に突然表舞台に現れて話題になった曽根
中生が担当。今や個性派俳優として名を馳せ­る光石研のデビュー
作でもある本作は、70年代の九州の空気と中学生の青春の炎上・
爆­発を見事にパッケージングし、九州のみならず全国的に大ヒット。
昭和の世をシゴく青春­の数々が展開していく青春映画の金字塔
とも言える傑作が遂に初DVD化!
(1978年­公開 キネマ旬報ベストテン作品)

----------------------------------------------

うわぁ。このDVDほしいなぁ。
高校生でキスしたとかせんとか純情すぎるっちゃろうもん。
中学生みたい(笑
タイムリーにおれも高校生やったけどが(苦笑
というか、設定からすると中学の役か。
あれ、中学から大学までの話だからね。
学内で高校生(中学生?)なのにヘルメットかぶってゲバやってる
のが1970年代の時代を感じさせる。うちの高校も紛争高校だった
けどさぁ(笑
この映画が撮影されたのが1977年。公開が1978年で、原作は
1976年から1983年まで漫画アクションに連載された。
なんつーか五木の『青春の門』の当時の現代版で地方都市と
学園ラブコメにしたような物語だった。なかなか面白かったよ。

博多もんの独特の感性というのは、首都圏育ちの俺には高校の時
にはまったく理解できなかったけど、俺も大学で国内の別の土地の
人と触れ合って初めて「感性の違い」を知った。九州弁や大阪弁や
東北弁を生で聴いたのも大学に入ってからが初めてだった。
大阪弁なんて1980年の漫才ブームがテレビでオンエアされる前は
東京では関西弁はまさに「映画などの画面の中のこと」でしかなかった。
お笑いブームが来て、関西芸人が東京でのTVに出るようになってから
はじめて東京人は大阪弁に身近に触れた。だから今では東京人も
「めっちゃ」とか言うようになったし、大阪人も逆に「~さぁ」とか言う
ようになった。1980年までは、きっぱりとそのような言葉は使わな
かった。

大学生になることの最大のメリットは、大学は日本全国から人が
集まるから、視野が広がることではなかろうか。まったく異文化や
感性を持った人が全国から集まる。そこで触れ合って交流すると
よく日本が見えてくるよ。
かわいい子には旅をさせろとはよく言うが、プチ海外留学で見聞を
広めるような土壌が大学という学府にはある。
学問などより、そうしたことが一番ためになったように私自身は思える。
東京地方も、東京しか知らない連中は実は東京のイナカモンであって、
東京から出たことなくて
全国各地の日本人と触れ合った経験のない
人は、やはり地方から出たことがない人と同じで非常に視野が狭い。
視野というか世界観が信じられない程に狭い。
東京・大阪・京都の大学に進むと、自分中心のそれまでの自己文化
を中心に据えてのみの世界観でゴリ押しするいわゆる「中華思想」が
如何に傲慢で世の中それでは通用しない、ということを全国の人と
触れ合うことで知ることができる。東京のイナカモンも地方のイナカモン
も視野が広がる。狭い世界から一歩踏み出して「世の人」となれる。
やはり、「井蛙大海を知らず」てのはすごくあるよ。
大学といっても、地方の同じ地域の人間のみが集まるとこは、あまり
そういうものは得られないみたいだけど。同族ばかり集まって視野狭窄
の延長線上にあるから。これまた地方のそういう私立大学出身者集団を
見ていると、現実的によく分かる。

こういうことは、現象面として確かにある。
社会人になってからもそうだけど、東京でも大阪でもよいが、人が多く
集まる場所で(つまり「社会」で)人の波にもまれないと人間は視野が
広がらないということだと思う。
最近、東京で独り暮らししている娘と話していて、彼女が言ったことが
ある。彼女は東京で生まれたが1歳半から18歳まで広島県で育った
から、東京の大学で初めて「他の土地の人」と接触したのよね。「広島
だけの狭い見方や考え方がガラリと変わった」と本人も言っていたが、
やはり垣根をとっぱらうことは大切だよ。これはインターナルでインター
ナショナルな視点を持つということにおいて。
本当の意味のグローバルというのは、恣意的な政治操作用語ではなく、
そういうことのように感じる。
そうしたことを踏まえた上で、「(自分は)博多もんやき」という矜持のような
ものを持つことは、アイデンティティの確立であるので、これはいいことで
あるのではないかなぁ。


ところで、俺が常々妻子はじめ友人たちから「ブス好み」と言われている
理由が分かった気がする。
俺、松本ちえこさん大好きだったもの(^^;
離れ目アイドルの原点ここにあり!
てか、好きな顔の原点、ここにあり!
トレーラー観ていて自分で納得した(笑


(撮影時松本さんは18歳でした。撮影時は高校3年。高校生なのに
中学生の役(笑)。公開が1978年12月なので、年内撮影だとしたら
もしかしたら19歳だったかも。高校の時は品川の中延学園学園女子
に通ってた。おらの1コ上。1975年バスボンのCMでブレイクして、
俺が中学の時にはかなり人気ありました。ブスかわアイドルはこの人
が日本初かと)


曾根監督は2014年8月26日に逝去されました。
ご冥福をお祈りします。


超現代語訳『五輪書』

2015年01月09日 | 文学・歴史・文化・科学


(『五輪書』写本/細川家伝来/宮本武蔵自筆原本は焼失)

この私の日記は2003年から書いている。
ブログなるものの形式が普及したのは2005年頃からで、ネット
環境として横繋がり、記事の相互リンクがなせないかと当時常々
考えていたが、ブロードバンドの普及と共にリンクソフトが考案
されて、それがウェブログでの自動リンクシステムとして結実した。
だが、同時期に開発されたSNS(ソーシャルネットワークシステム)
は、ツールとしての利便性は高かったが、集う人々のコミュニティの
村意識がエゲつなく気持ち悪いので、私は不参加を選択した。
インターネット自体は1998年から使っていたが、2005年以降の
爆発的なインターネットの普及により、「ネチケット」なるモラルも
もはや死語となる状況が現在まで続いている。
あめぞうの頃からネット巨大掲示板は存在したが、それを引き継いだ
2ちゃんねるなどは、文字通り外国人をして「ここはひどいインター
ネットでつね」と言わしめる状態そのものであり、各種犯罪の温床とも
なっている。
パソコン通信の頃はSNSの萌芽ともいえる通信手段だったが、ネットが
メディアとしての側面を具備する時代に入って以降は、要するに「裾野が
広がると質が下がる」という人の世の一般現象を代弁するに至った。

私のこの日記はブログではない。ブログ形式のレンタルソフトを使って
いるのは、2011年で旧来の自動リンクを貼らないレンタル日記(さるさる
日記)が閉鎖し、世の中ではほぼ「ブログ」形式の簡易レンタルサイト
しか存在しなくなったからだ。
時々、インターネットの歴史や設置サイトの趣旨を理解しない単細胞が
「コメント欄を設置していないのは卑怯だ」などと発言するようだが、そも
そもウェブサイトの絶対権限は運営管理者にある。
コメント欄を設置しようがしまいが、そんなことは管理者の勝手なので
あって、気に入らないならばそのウェブサイトを見に行かなければいい
だけのことだ。
また、「ブログ炎上」という現象も2006年頃から発生しはじめた。
個人が日記で記載したことが気に食わないからと、集団的示威行動の
ようにブログを潰す非難攻撃をコメント欄に寄せるのがそれだ。
根本的にインターネットの利用法を誤っているし、お門違いも甚だしい。

私は、この日記においてはコメント欄を設置していない。すべて内的
独白であり、コメント交流などこの場では求めていないからだ。
おべんちゃらもいらなければ非難もいらない。
発言の場はメールアドレスを公開しているし、掲示板も複数設置している。
ネット上では、私が運営する掲示板で読者間交流なり私へのご意見なりを
全世界に向けて発信してくれればいい。
ただし、管理者は私なので、私が管理する。
投稿の自由は最大限に保障するが、公序良俗に反する発言や、私が
気に入らない発言は削除する。
個人運営のサイトであるので、私が絶対権限者なのである。
私が気に入らない発言(特に特定者や一団や私に対する揶揄中傷)を
なぜ公開しておく必要があるか。公開ネットとはいえ、他人の家に土足で
入って来てゴミをまき散らしていく人間を「はいどうぞ」という訳にはいかない。
私が気に入らなければ消す。発言内容の理非ではない。気に入らないから
消す。ごく当たり前のことなのである。本来個人運営のネット掲示板という
ものはそういうものである。公的機関の掲示板や店舗掲示板ではないのだ。
投稿の自由は保障するが、発言の自由は保障しない。
また、場合によってはアクセス禁止にして投稿の自由にも制限をかける。
これ、至極当然のことなのである。
個人運営の掲示板は、公開フォーラムの場として設置しているのではない
からだ。

さて、この日記においても自動リンクが機械的に勝手に貼られ、他人を揶揄
中傷・名誉棄損することのみが生きがいのような不届き者で日本刀
ド素人俺様大将の愚にもつかぬ日本刀周辺をうろちょろしている族
の低俗ブログに自動リンクされてしまうのが如何ともしがたいのだが、
たまには良質のブログへのリンク紹介がされることもあり、それらは
大歓迎だ。
たまたま、私の日記の康宏刀記事に自動リンクされていたブログで大変興味
深いウェブログがあったので紹介したい。
宮本武蔵の『五輪書』を現代口語で翻訳して紹介している記事のあるブログだ。
これは読んでいてとても面白い。
武蔵『五輪書』につては神子侃(かみこただし/本名
村山孚-むらやままこと/
1920~2011)の現代語訳本が極めて正確に訳してあり秀逸だ。これは私は
10代~30代後半までむさぼり読んだ。
私が普段この日記で書いている心法や技法は、もちろん私自身が会得した
ことも記しているが、深い部分でのベースとなっているのは宮本武蔵の伝書
たる『五輪書』である。
神子版は原文が併記されているので、武蔵の実際の表現についても意訳か
直訳かも検証でき、剣術研究参考書としてはバイブル的存在だと思える。
なんというか、自身が剣術家であったり、剣術研究家を自認する人間でこれを
読んだことがないとしたらまずモグリだね。今の時代、文字を読み込む(字面
ではなく文意と文脈と行間を読み込む)という人が少なくなったから、竹刀や
真剣を握る人たちにもあまり『五輪書』は読まれていないようだが、私が小さい
頃の人々は勉強家が多く、竹刀を本気で握る人、本気で居合や剣術をやろう
としている人は、ほぼまんべんなく『五輪書』には目を通していた。刀を使う
技法の要諦だけでなく、心構えまで非常に論理的に簡易に合理的に書かれて
いるからだ。
武蔵の頭抜けたところは、「神から授かった」などという江戸初期の観念主義的
精神論が大手を振っていた時代に、極めて合理的に理路整然と剣の理を解き
明かしたところにある。

今回紹介するサイトは、その『五輪書』を今様の口語調で訳したブログ記事で
かなり面白い。こういうアプローチの仕方もあるのだなぁ、と感心する。

こちら → あーりーダイアリー 宮本武蔵『五輪書』のゆる~い現代語訳など