1971年時点で45PSのS2。
てね、言われるほどじゃじゃ
馬でもないよ。
オモチャのように扱える車
だった。
「あまりにも危険すぎ」とか
説明しているネット情報多い
けど、それは本当にマッハⅢ
やマッハⅡに乗った事が無い
人が書いたり言ったりしてる
のでは。
ごく普通に当たり前の乗り方
をすれば、全くじゃじゃ馬と
かではなくツキの良いいい
バイクだった。フレームに難
ありだったけど。
エンジンだけはこれでレーサ
ーが欲しいと思う程だった。
ブレーキとフレームは✖。
フレームはコーナリングでよ
じれまくった。
ただ、知らない人が神格化す
るほどのじゃじゃ馬とかピー
キーとかではない。
ピーキーでじゃじゃ馬と感じ
る人たちは「馬鹿右手」ゆえ
に5500以上に入るとドカンと
急激に加速するように思えた
のではなかろうか。
高校生が完璧に乗りこなして
いたのだから、マッハについ
て「危険すぎ」を口にする人
たちは高校生以下だと断定で
きる。
あるいは巷間の噂話だけを鵜
呑みにして実際には乗った事
が無いとか。
ホンダ88NSRの神格化のよう
に。
88NSR-MC18よりも89式の
MC18のほうが遥かに全てが
良かった。
しかし、都市伝説のように
神格化された噂話によりまる
で88NSRのほうが最強最高の
ように神格化されてしまった。
速さとハンドリングでいった
ら88年式カワサキKR-1のほう
がずっと高性能だったのに、
歴史の真実を知らない人たち
は都市伝説を盲信して88NSR
が歴史的名車のように思い込
んでいる。
マッハも同じようなものかと
思う。
ただ言えてるのは、1970年代
初期~中期、クラス最強最速
だったのはマッハⅡSS350だっ
た事は間違いない。
直線番長だった。
だが、サンパチのフロントドラ
ムの1型もめちゃくちゃ速かっ
た。
当時、ホンダは4ストに拘って
いたので、超鈍足モデルばか
りだった。
結局、排気量を上げてどうにか
なっていた、というかなってい
なかったが。ホンダは遅い二輪
を作る代表メーカーだった。
西欧耐久選手権ではRCが世界戦
を76年に制していたが、スプリ
ントのWGPは撤退したままだっ
たし、スプリントレースで勝て
る車はホンダは作っていなかっ
た。125のみMT125という名車
を作っていたが。
70年代中後期からはミドルクラ
スでダントツで速いのはカワサ
キ。
トータル完成度が高いのがヤマ
ハ。
一発名車を時々出すのがスズキ
だった。
スズキの2ストはヤマハと並ぶ
完成度でかなり速かった。
これは500レーサーでも現れて
いる。世界グランプリを制して
いたのはスズキだった。
ヤマハは常勝の王者。貴族の
ような風格を持っていた。
カワサキの2ストは滅茶苦茶
速いがよく壊れた。
だが、世界グランプリで250
と350クラスで1970年代後半
から1980年代前半に連勝、毎
年世界チャンピオンになって
いたのはカワサキだった。
壊れさえしなけば、カワサキ
の2ストレーサーはミドル・
ライトウエイトクラスでは
世界最強最速だった。
ワークスレーサーKR250/350
はタンデムツインエンジンを
搭載し、パワーとハンドリン
グで王者ヤマハさえにも後塵
を喫する事を強いる走りだっ
た。カワサキKRがダントツで
圧倒的だった。
カワサキが70年代後半から80
年代前半にかけては世界最強。
また、4スト大排気量におい
てもカワサキは海外で最強
伝説を作り、「モンスター」
と称されていた。特に北米で
のカワサキ人気は異常な程
だったが、それはカワサキ
こそが強いマシンの代表で
あり、そのあたりがアメリ
カ人に大歓迎されたからだ。
マッハが「危険すぎ」とか
言うのは、走行偏差値レベル
が40位の人たちを基準に見積
もっての話なのでは。それは
正味のところ、全く話になら
ない。
走行偏差値が70位ある人間
からしたら、マッハはごく
普通のオートバイだ。