渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

備後国御調郡三原町

2021年04月28日 | open

昭和初期の広島縣御調郡三原町。

備後国の城下町三原は戦国時代末期に
三原城築城により誕生した。
江戸期には三原町として栄えた。
明治以降は鉄道が明治27年に開通する
までは、不便な場所だった。

城下町として市街区があったのは、江戸期
から昭和30年代まで城のごく周辺のみで、
城下町を外れると一帯は田んぼと塩田の
広がる農業地帯だった。

昭和30年代の三原。


同位置、平成初期。


城の周辺は江戸初期から昭和30年代まで
なんら変わらず市街地だった。

明治時代。


三原八幡宮から山陽道を東に見る。
現在の西町、本町を望む。


同位置、令和3年(2021年)。
建物が新しくなっただけで、江戸時代から
城下はこの町並みの風景だ。


昭和33年(1958年)に初めて塩田の中に
国道が通った。江戸期には海だった場所。
というか、三原は全てかつては海の中。


糸崎の海岸線国道。


現在の三原市宮浦地区の昭和30年代。

これらの田園地帯にはすべて現在は住宅
が建っている。江戸期には山すそまで一面
海である。
三原が今のようになったのは、ほんのここ
30年程の事なのだ。
1980年頃は、まだこの昭和30年代のよう
田園風景が市内西部には広がっていた。
町であったのは城周りのほんのごく一部
のエリアのみだった。つまり、城下町のみ
が町で、あとは一面農村地帯だったので
ある。現在市内の本郷地区は、郡部であり
三原市ではなかった。本郷地区は平成大合
併により三原市に編入された。それゆえ
か、現在でも、本郷というと三原ではない
感覚が古い三原市民には残っている。
三原市内港湾部は明治以降に工業誘致に
より三菱と帝人の工業地帯だった。
農村部が縮小するに伴い、工場労働力と
して人口集約が進んだ典型的な明治近代
都市パターンの町であり、それにより、
誘致産業が撤退すると寂れて行く全国の
地方産業都市の轍を踏んだ町が三原だっ
た。
それはかつての炭鉱町や製鉄産業の町と
同じ道を辿っている。
産業誘致型町づくりの全国失敗例から三原
も全く漏れてはいない。

三原は江戸期には村ではなく町だった。
しかし、それは城下に限っての事であり、
狭い町を出るとあとはすべて農業地帯の
風景が昭和終わり頃まで広がっていたの
である。
江戸期の三原城下町の人口は1万人。
現在、広域に及ぶ平成新生三原市の人口は
8万人台(ここ数年で2万人減少)。
三原市は人口は増えない。減る一方だ。
ゆえに、市政の財源は現在かなり厳しい。

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