渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

砂浜

2020年12月10日 | open


息子さんが広島から横浜に住んで所帯を
持ったという方から聞いた。
その横浜のお孫さんは、砂浜の砂が瀬戸
内海では金色に近い色であることを信じな
いという。そんな砂浜はありえない、と。

そらねえ。富士山の火山灰が降って関東
ローム層が形成された砂鉄混じりの関東
の浜辺のほうがイレギュラーなんであって
ね。それが世の中の中心ではない。
海砂の本来の色は、沖縄の海や瀬戸内海の
海の砂浜のように真砂色だ。
関東の浜辺の砂は、学校の砂場の砂色だ
が、浜辺としてはそちらのほうが別枠物
だというのは、人は知っておいたほうが
いい。

神奈川県の海。


神奈川県はこの砂浜の色がビーチの色。


関東の海は学校の砂場の砂と同じ色。


沖縄の海。

沖縄の浜。これが日本全国浜辺の砂色だ。
地球の砂浜の色はこれ。瀬戸内海もこの
砂浜の色だ。
関東の砂場色のほうが特殊なのであるか
ら、それを標準だと思ってはいけない。






海辺の砂浜とは、地球においてはこれが
自然な色なのよね。
関東の場合は、地質学的な特殊事情が
あったというわけ。

最近、日本語では「肌色」という呼称が
廃されるようになった。
そらそうだよね。日本人基準で肌色なんて
名称にしてると、黒人や白人の肌の色は
肌の色じゃねえのか?とかいうことにな
る。狭い手前基準で物事を考えたらダメな
のよ。自分が話す方言のみが言葉の基準
だ、全国区だとか勘違いしたりとかね。
国語としては「標準語」があるのだから、
人と意思疎通を図ろうとするならば標準語
をきちんと話す必要がある。そのために
小学1年からわざわざ国語として標準語を
学校で教育を受けているのだから。
学校教育を踏みにじることをしちゃあいけ
ないよ。
浜辺の砂色もそんなもんだね。
関東の砂浜が全世界の地球の基準だとか
思っていたら大間違いだ。
自分の目の前の狭い世界だけがこの世の
すべてだと思い込むのは大きな間違いだ。
狭い了見だと人間自体が小さいままだ。
視野と見聞は海のように広くね。

鳥取県の日本海。


東北の太平洋。


沖縄の浜辺。砂浜の色は東北と同じだ。


九州長崎の砂浜。浜辺の砂色とはこれ。


千葉県九十九里浜。60km位海岸線が続く
びっくら浜が九十九里。実際には1里を4
kmとすると16里程だ。


九十九里浜も砂浜は浜辺色だ。


しかし、邪馬台国の時代の1里ならば短里
なので1里が90m。それでいくと九十九里
浜の長さは666里にもなる。99里どころ
ではない。
さらに別角度から見て、邪馬台国時代の
中国の1里は434mであるので、九十九里
浜の長さをそれで計算すると138里にな
る。
何が言いたいかというと、基準モノサシに
よってモノの表現は変わるということ。
同じモノであるのに。
そのため、人の社会では共通の基準値が
必要になる。これは言葉のみならず尺度と
しても。尺度を表すのも言葉であるので、
つまるところ、言葉だ。
通じない言葉は言葉としての意味が無い。

九十九里浜の名称は、「そんくらいでけえ
浜だっぺ」というような名称なのだろう。
実際にね、浜辺に立つと驚くよ。見えない
はるか先まで砂浜なのだから。延々と。
普段狭い砂浜しか見た事ない人は、機会が
あれば一度九十九里浜を見てみるのもいい
かも。
いや、ほんとに浜辺に出てみると「何こ
れ?」となるから。でけえの。


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