渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

浜辺の歌

2020年12月10日 | open


三拍子なんだよ。
昔、これをどうしても4/4拍子で演奏し
ようとする人がいたが、三拍子なんだよ。

歌詞が極めて秀逸な浜辺の歌だが、英語
だとどうかと思ったら、普通の英語だっ
た(笑)。つまらぬただの言葉並び。
シェークスピア調古語でないと、あの
日本語歌詞の美しさは再現できないかも。
言文一致云々以前に、文語調の日本語の
美しき歌詞が英文ではくっそつまらぬ
歌詞になってしまっている。
「夜のとばりの中、二人は渚に足を進め
た」と英文を訳せばよいところ、「夜中、
二人は海岸を歩いた」と訳す程情緒が無い
ものはないが、日本人の詩心は詩歌が日本
に出来てから一千年以上の歴史で培われた
日本人独特の感覚に支えられている。
それは西洋のように即物的な発想ではない
のだ。
月の明かりのことを月影と呼ぶその感覚
などは、西欧人には理解不能である事だ
ろう。
現代西欧人は、秋の虫の声さえもただの
ノイズとしか思わない。
蝉の声を耳にして、何年も地中にいて、
やっと地上に出てきてほんのひと時の儚い
命を叫ぶ蝉たちの生命の証の声に想いを
抱くことはしない。
すべて「騒音」にしか聴こえない脳の働き
なのだ。
こればかりは日本人とは全く異なるので
ある。
「古池や かわず飛び込む 水の音」
など根本的に理解はできない。ただの物理
現象の光景としてしか西洋人は理解しよう
とはしない。
この五七五の調子も理解不能だろう。
まして五七五七七の和歌の約束事の深さや
奥ゆかしさなどは到底理解できない。
ヘーイ、カマーン、ヒャッハー!では到底
無理す。ヘイヨー、ウァッツアップマー
ン、ヒャッハー!は明るいけどね。

日本人は光を光として見ない。
光とはまばゆい輝きであると見る。
そして明かりとは影を生む影であると解
する。単なる輝度、光度の現象としては
見ないである。
湯は「暖かい水=hot water」ではない。
煮湯もあればぬるま湯もある。湯は湯なの
だ。日本語と英語の言葉に現れる識別感
のこの違い。
日本語は美しい。
しかし、日本語の歌詞を英語にすると、
こんなにつまらない言葉の羅列になるの
かというのが「浜辺の歌」の英文訳でよく
解る。
日本語の歌詞は極めて繊細で洗練されて
いる。
あした、である。
日本語は朝だけで沢山の単語がある。
あかつき、しののめ、あさぼらけ、他にも
沢山ある。
そして、朝とは十日十月と書く。
つまり、人の命が宿って生まれるまでの
時の流れを表し、人がこの世にいずる時
が朝であるのだ。それが日本語。外国文字
を流用しながら、この国の人間の独自の
感性と融合させた言葉が日本語。
言葉そのものが日本語は原初から文学的
であるのだ。

浜辺の歌
あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ 忍ばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も

ゆうべ浜辺を もとおれば
昔の人ぞ 忍ばるる
寄する波よ 返す波よ
月の色も 星のかげも

はやちたちまち 波を吹き
赤裳のすそぞ ぬれひしじ
やみし我は すべていえて
浜辺の真砂 まなごいまは


浜辺の歌 At The Shore /Susan Osborn 
英語歌詞付き

浜辺の歌は壮大なる愛の歌。
消された4番の歌詞の秘密は、残された
歌詞に暗喩が隠されていた。

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