2015/9/20礼拝説教
【テーマ】 偏り見ない神様
【説教題】 「つまずいても大丈夫!」
【聖書箇所】 ローマ11:11-16
11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
11:12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
○ 「つまずいても たおれても たたかれても はなれられない あなたがいちばん 十字架がほこり どこまでもついてゆく キリストいのち」というノアの賛美があります。この賛美はどんなことがあってもイエス様に着いて行くという賛美ですが、今日のテキストにはユダヤ人がイエス様につまずいたことが書かれています。つまずくというのは大きな壁にぶつかってそこから先に行けないというようなものでは無く、道に頭を出している石にけつまずくようなことです。これは体勢が立て直せるということではないでしょうか。
Ⅰ.つまずいても大丈夫
A.ユダヤ人は何につまずいたのか?
1.ユダヤ人はイエス様の何につまずいたのでしょうか? それはイエス様が御自分を聖書に預言されたメシヤだと言って登場されたのに、ローマ帝国から独立するように王としての働きをされなかったことが挙げられます。
2.弟子たちにとっては、イエス様がメシヤであって、みすみす字架にかけられて殺されるような方では無いと思っていたのに、いとも簡単に十字架刑にされたことがつまずきでした。
3.ユダヤの指導者たちはどうだったでしょうか? イエス様の教えがあまりに自分たちのものと違うため、つまずく以前にイエス様を亡き者としようとしたのです。イエス様が御自分を神と等しくされた辺りは、ユダヤ人にとっては許せないほどの神への冒涜と捉えたことでしょう。
B.私たちはつまずいたのか?
1.私たちはイエス様の何かにつまずいたでしょうか? つまずきは人それぞれでしょう。私はつまずいたというより、クリスチャンになったのに、神がいるのかどうかわからなくなったということがあります。神が私と共にいてくださるという実感が無い、祈っても病気が治らなくて、辛くて大変な状態が続いたりしたからです。
2.多くの場合、イエス様につまずくというより、クリスチャンにつまずくのですね。「あの人はクリスチャンなのに、愛が無い」等々と。クリスチャンといえども同じ罪人なんですけどね。
3.つまずいてもいいのです。倒れていたらダメなのです。立ち上がればいいのです。私は神がわからなくなって、教会もクリスイチャンも辞めようと思ったのですが、真剣に祈る時があって、その日に変わってしまったのです。だから、クリスチャンとしての自分が今もあります。
Ⅱ.ユダヤ人の回復のために
A.ユダヤ人がつまずいたので
1.パウロはユダヤ人がイエス様に対してつまずいた事が無駄だったとは言わないのです。それによって異邦人に救いが及んだからです。
2.異邦人はつまずく以前にすでに神がわからなくなっていました。そこで、勝手に神を考え出していたのです。異邦人は自分勝手な神を作り出したわけです。
3.しかし、異邦人はわからなかっただけなので、イエス様による救いを知ると一気に救われていったのです。まさにユダヤ人のように律法を知っているとか、行うとかでは無く、信じるだけで救われるということが実現していったのです。
B.ねたみから神様を求める
1.ユダヤ人にしてみれば変な話です。ユダヤ人は良い民族だから神に選ばれて救いの道が用意されたと思い込んでいたのに、その自分たちがはじかれ、何もしない、下劣な異邦人が神様の恵みをいただいているのですから。
2.当然そこにねたみが起こるのです。「私たちの神だったはずのお方が、あんな下劣極まりない異邦人を愛するなんて!」というわけです。妬んだ結果、ユダヤ人もイエス様を求める事になるのです。すると救われるのです。イエス様を求めれば救われるのです。
C.ユダヤ人は回復できる
1.神様がユダヤ人を捨てたのではありません。ユダヤ人が神様のお心を理解せず、勝手に自分たちで律法を作っていってしまい、言うならば新たな宗教を生み出したわけです。
2.その間違いに気付き、本来の神様のみこころに沿う生き方を求める事でユダヤ人も回復するのです。
Ⅲ.つまずくことは問題では無い
A.イエス様は異邦人を愛された
1.イエス様はユダヤ人のためにお出でになって、ユダヤ人のところに救いを広めに行かれました。ところがユダヤ人はなかなかイエス様を受け入れません。そんな中、マタイ8章に出てくる百人隊長が自分のしもべの癒しを願ってイエス様のところに来ますと、イエス様は百人隊長の信仰を見て、しもべを癒されました。
2.また、マタイ15章に出てくるカナン人の母親は娘の癒しを求めて必死でイエス様に願うのです。やはり、イエス様は彼女の信仰を見て、娘を癒されました。
3.イエス様はすでに異邦人を顧みておられました。その頃からユダヤ人は、異邦人や、罪人と呼ばれる人達のところに行かれるイエス様につまずいていたのです。
B.イエス様はユダヤ人を愛しておられた
1.ユダヤ人は選民意識、エリート意識のために、イエス様を信じるだけで救われるということを受け止めようとしませんでした。しかし、現実に異邦人にすばらしい救いの出来事が起こり続けると彼らにねたみが起こり、自分たちこそ救いや恵みを受けるべきだと求め出すのです。
2.イエス様は本当に神様です。イエス様は私たちの救い主です。ですからつまずいても、求めればしっかりイエス様の手を握ることになります。
3. 11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。 とあるように、もともとアブラハム、イサク、ヤコブに働かれた神は信仰による義を示しておられ、彼らユダヤ人を通して異邦人を救おうとされたのです。その神様の救いの根本は変わりません。
● 今日のテキストから思い出すのは、イエス様のたとえ話にある「放蕩息子とその兄」ではないでしょうか。放蕩の限りを尽くしてボロボロで帰ってきた弟息子を父親は大喜びで迎え入れましたが、兄はそれを見て妬みました。しかし、父親の兄に対する愛はずっと変わっていなかったのです。
★ 神様はユダヤ人を愛しています。つまずいても愛しています。決してユダヤ人を捨てたりなさいませんでした。むしろ、ユダヤ人がつまずいたことで異邦人に福音が伝わるようになさったのは、神様が異邦人も愛しておられたことをはっきりと語っています。神様は偏り見ない方です。
【テーマ】 偏り見ない神様
【説教題】 「つまずいても大丈夫!」
【聖書箇所】 ローマ11:11-16
11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
11:12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
○ 「つまずいても たおれても たたかれても はなれられない あなたがいちばん 十字架がほこり どこまでもついてゆく キリストいのち」というノアの賛美があります。この賛美はどんなことがあってもイエス様に着いて行くという賛美ですが、今日のテキストにはユダヤ人がイエス様につまずいたことが書かれています。つまずくというのは大きな壁にぶつかってそこから先に行けないというようなものでは無く、道に頭を出している石にけつまずくようなことです。これは体勢が立て直せるということではないでしょうか。
Ⅰ.つまずいても大丈夫
A.ユダヤ人は何につまずいたのか?
1.ユダヤ人はイエス様の何につまずいたのでしょうか? それはイエス様が御自分を聖書に預言されたメシヤだと言って登場されたのに、ローマ帝国から独立するように王としての働きをされなかったことが挙げられます。
2.弟子たちにとっては、イエス様がメシヤであって、みすみす字架にかけられて殺されるような方では無いと思っていたのに、いとも簡単に十字架刑にされたことがつまずきでした。
3.ユダヤの指導者たちはどうだったでしょうか? イエス様の教えがあまりに自分たちのものと違うため、つまずく以前にイエス様を亡き者としようとしたのです。イエス様が御自分を神と等しくされた辺りは、ユダヤ人にとっては許せないほどの神への冒涜と捉えたことでしょう。
B.私たちはつまずいたのか?
1.私たちはイエス様の何かにつまずいたでしょうか? つまずきは人それぞれでしょう。私はつまずいたというより、クリスチャンになったのに、神がいるのかどうかわからなくなったということがあります。神が私と共にいてくださるという実感が無い、祈っても病気が治らなくて、辛くて大変な状態が続いたりしたからです。
2.多くの場合、イエス様につまずくというより、クリスチャンにつまずくのですね。「あの人はクリスチャンなのに、愛が無い」等々と。クリスチャンといえども同じ罪人なんですけどね。
3.つまずいてもいいのです。倒れていたらダメなのです。立ち上がればいいのです。私は神がわからなくなって、教会もクリスイチャンも辞めようと思ったのですが、真剣に祈る時があって、その日に変わってしまったのです。だから、クリスチャンとしての自分が今もあります。
Ⅱ.ユダヤ人の回復のために
A.ユダヤ人がつまずいたので
1.パウロはユダヤ人がイエス様に対してつまずいた事が無駄だったとは言わないのです。それによって異邦人に救いが及んだからです。
2.異邦人はつまずく以前にすでに神がわからなくなっていました。そこで、勝手に神を考え出していたのです。異邦人は自分勝手な神を作り出したわけです。
3.しかし、異邦人はわからなかっただけなので、イエス様による救いを知ると一気に救われていったのです。まさにユダヤ人のように律法を知っているとか、行うとかでは無く、信じるだけで救われるということが実現していったのです。
B.ねたみから神様を求める
1.ユダヤ人にしてみれば変な話です。ユダヤ人は良い民族だから神に選ばれて救いの道が用意されたと思い込んでいたのに、その自分たちがはじかれ、何もしない、下劣な異邦人が神様の恵みをいただいているのですから。
2.当然そこにねたみが起こるのです。「私たちの神だったはずのお方が、あんな下劣極まりない異邦人を愛するなんて!」というわけです。妬んだ結果、ユダヤ人もイエス様を求める事になるのです。すると救われるのです。イエス様を求めれば救われるのです。
C.ユダヤ人は回復できる
1.神様がユダヤ人を捨てたのではありません。ユダヤ人が神様のお心を理解せず、勝手に自分たちで律法を作っていってしまい、言うならば新たな宗教を生み出したわけです。
2.その間違いに気付き、本来の神様のみこころに沿う生き方を求める事でユダヤ人も回復するのです。
Ⅲ.つまずくことは問題では無い
A.イエス様は異邦人を愛された
1.イエス様はユダヤ人のためにお出でになって、ユダヤ人のところに救いを広めに行かれました。ところがユダヤ人はなかなかイエス様を受け入れません。そんな中、マタイ8章に出てくる百人隊長が自分のしもべの癒しを願ってイエス様のところに来ますと、イエス様は百人隊長の信仰を見て、しもべを癒されました。
2.また、マタイ15章に出てくるカナン人の母親は娘の癒しを求めて必死でイエス様に願うのです。やはり、イエス様は彼女の信仰を見て、娘を癒されました。
3.イエス様はすでに異邦人を顧みておられました。その頃からユダヤ人は、異邦人や、罪人と呼ばれる人達のところに行かれるイエス様につまずいていたのです。
B.イエス様はユダヤ人を愛しておられた
1.ユダヤ人は選民意識、エリート意識のために、イエス様を信じるだけで救われるということを受け止めようとしませんでした。しかし、現実に異邦人にすばらしい救いの出来事が起こり続けると彼らにねたみが起こり、自分たちこそ救いや恵みを受けるべきだと求め出すのです。
2.イエス様は本当に神様です。イエス様は私たちの救い主です。ですからつまずいても、求めればしっかりイエス様の手を握ることになります。
3. 11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。 とあるように、もともとアブラハム、イサク、ヤコブに働かれた神は信仰による義を示しておられ、彼らユダヤ人を通して異邦人を救おうとされたのです。その神様の救いの根本は変わりません。
● 今日のテキストから思い出すのは、イエス様のたとえ話にある「放蕩息子とその兄」ではないでしょうか。放蕩の限りを尽くしてボロボロで帰ってきた弟息子を父親は大喜びで迎え入れましたが、兄はそれを見て妬みました。しかし、父親の兄に対する愛はずっと変わっていなかったのです。
★ 神様はユダヤ人を愛しています。つまずいても愛しています。決してユダヤ人を捨てたりなさいませんでした。むしろ、ユダヤ人がつまずいたことで異邦人に福音が伝わるようになさったのは、神様が異邦人も愛しておられたことをはっきりと語っています。神様は偏り見ない方です。