2015/7/26礼拝説教
【テーマ】 祈りの真髄
【説教題】 「主の祈り」5
【聖書箇所】 マタイ6:9-13
6:9 だから、こう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
○ 今日は主の祈りの最後のところ、13節です。
Ⅰ.試みに会わせないで
A.試み ≒ 試練
1.戦国時代の武将の一人、山中鹿之助は「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に向かっていつも祈っていたという話があります。彼の祈りは、この主の祈りの反対ですね。彼の祈りは強虫の祈りで、主の祈りは弱虫の祈りです。
2. 試み という言葉の原語は「ペイラスモス」で「試練」とも「誘惑」とも訳せます。が、 ヤコブ1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 とあることを考えると「試練」「試み」という訳が良いのかもしれません。
B.試練を生きる
1.イエス様は 私たちを試みに会わせないで と祈るように勧められましたが、聖書の中で試練に会った人たちはどれくらいいるでしょうか? むしろ試練の無かった人はいないと思います。では、イエス様が言われたこの祈りの言葉は矛盾するのでしょうか? 私たちを試みに会わせないで と祈ったところで、結局のところ私たちは試練を受けるのではないでしょうか?
2.私たちの回りではどうですか? 試練に会わなかったクリスチャンがいるでしょうか? 私の知っているクリスチャンのおばあちゃん、試練が無かったわけでは無いと思いますが、昔の人なので、少々のことは苦にされなかったのでしょう。「私の信仰が成長しないのは試練が無いからだと思う。だから、神様に試練を与えてくださいと祈ったんです」と言われました。そして、実際、なかなか大変なことが起こり、このおばあちゃんは試練を体験することになりました。「先生、やはり、試みに会わせないでくださいと祈る方がいいですね」と言われたのです。
3.Ⅰコリ 10:13 神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 というのが神様からの試練です。祈らずにいて耐えられない試練が来たら困りますね。
C.試練は必要なのか?
1.試練は無い方が良いのです。でも、確かに試練は信仰を成長させますし、その人の徳を高めます。詩篇の記者はこう言っています。119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 と。
2.聖書の中で大変な試練を経験した一人にヨブがいます。彼はどうして苦しまねばならないのかわからなかったのです。しかも、彼はその試練の中で、慰めに来たはずの友人からもぼろくそ言われます。逃げ場の無い苦しみの中で、彼は友人に反論しながら、神に問いかけていきます。祈る内に、祈りの中で彼は今までわかっていなかった神様の素晴らしさに気付き始めるのです。
3.ヨブだけではありませんが、試練はその苦しみだけで終わるものではありません。必ず、私たちに神様の恵みを覚え、感謝し、幸せを感じるように用意されています。
Ⅱ.悪からお救いください
A.誘惑から遠ざかる
1.試み という言葉の原語は「ペイラスモス」で「試練」とも「誘惑」とも訳せますと言いましたので、もう一つの「誘惑」という言葉も考えてみましょう。ここの文章を直訳すると「誘惑の中に引き入れないでください」となります。神が引き込むことは無いのですが、非常に大きな力が働いて、注意していないと引きずり込まれてしまうものなのです。
2.論語には「君子危うきに近寄らず」という言葉があります。聖書には Ⅰペテ2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。 とあります。「誘惑」の泥沼に引きずり込まれないように遠ざかるように言われています。
B.イエス様の受けた悪魔の誘惑
1.神様が私たちを誘惑するわけではありませんが、悪魔は誘惑してきます。実はイエス様も悪魔の誘惑に遭われたのです。ルカの福音書4章に詳しく書かれています。食べ物、権力の誘惑と、神様の言葉を自分に都合よく使う誘惑です。この悪魔の誘惑に対して、イエス様は打ち勝たれました。悪魔は敗退したのです。 ルカ4:13 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。 と書いてあります。
2.この話は私たちの救い主は悪魔に打ち勝たれたお方だということを示していますが、私たちが悪魔に勝つには自分の力・知恵では無理です。この悪魔に勝たれたイエス様と共に闘うしか無いのです。
C.釣り針からはずしてください
1.こんなたとえ話があります。私たち人間を魚に、悪魔を釣りをする子どもにたとえています。そして、私たちは釣り針にかかった魚のようなものだと。名誉欲、物質欲、金銭欲などによって、針についている悪魔の餌を食べて釣り針に引っかかってしまうのです。そこに、子どもの父親がやって来て、かわいそうだから逃がしてやりなさいと言って、子どもから釣り竿を取り、釣り針から外してやって、はじめて魚は自由になれるのです。この 悪からお救いください というのは、「誰か、釣り針から私をはずしてください」とのたうち回っている魚の祈りだという話です。
2.私たちは誰も自分でその釣り針から逃れることはできないのです。この優しいお父さんのように、「逃がしてやりなさい」と釣り針からはずしてくれる人が必要なのです。
3.私たちを自由にしてくださるのは誰でしょうか? イエス様です。 悪からお救いください と祈る時、その私たちの切実な祈りに応えてくださるのがイエス様です。
● Ⅰコリ 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
ヤコブ 1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
ヘブル 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
という言葉があるように試練は、私たちを成長させるためですが、それは誘惑と紙一重かも知れません。
★ イエス様だけが悪魔の誘惑に打ち勝たれたお方です。そして、私たちが悪に引っかかっても、助けてくださるのもイエス様です。この祈りはとても大切な祈りです。
【テーマ】 祈りの真髄
【説教題】 「主の祈り」5
【聖書箇所】 マタイ6:9-13
6:9 だから、こう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
○ 今日は主の祈りの最後のところ、13節です。
Ⅰ.試みに会わせないで
A.試み ≒ 試練
1.戦国時代の武将の一人、山中鹿之助は「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に向かっていつも祈っていたという話があります。彼の祈りは、この主の祈りの反対ですね。彼の祈りは強虫の祈りで、主の祈りは弱虫の祈りです。
2. 試み という言葉の原語は「ペイラスモス」で「試練」とも「誘惑」とも訳せます。が、 ヤコブ1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 とあることを考えると「試練」「試み」という訳が良いのかもしれません。
B.試練を生きる
1.イエス様は 私たちを試みに会わせないで と祈るように勧められましたが、聖書の中で試練に会った人たちはどれくらいいるでしょうか? むしろ試練の無かった人はいないと思います。では、イエス様が言われたこの祈りの言葉は矛盾するのでしょうか? 私たちを試みに会わせないで と祈ったところで、結局のところ私たちは試練を受けるのではないでしょうか?
2.私たちの回りではどうですか? 試練に会わなかったクリスチャンがいるでしょうか? 私の知っているクリスチャンのおばあちゃん、試練が無かったわけでは無いと思いますが、昔の人なので、少々のことは苦にされなかったのでしょう。「私の信仰が成長しないのは試練が無いからだと思う。だから、神様に試練を与えてくださいと祈ったんです」と言われました。そして、実際、なかなか大変なことが起こり、このおばあちゃんは試練を体験することになりました。「先生、やはり、試みに会わせないでくださいと祈る方がいいですね」と言われたのです。
3.Ⅰコリ 10:13 神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 というのが神様からの試練です。祈らずにいて耐えられない試練が来たら困りますね。
C.試練は必要なのか?
1.試練は無い方が良いのです。でも、確かに試練は信仰を成長させますし、その人の徳を高めます。詩篇の記者はこう言っています。119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 と。
2.聖書の中で大変な試練を経験した一人にヨブがいます。彼はどうして苦しまねばならないのかわからなかったのです。しかも、彼はその試練の中で、慰めに来たはずの友人からもぼろくそ言われます。逃げ場の無い苦しみの中で、彼は友人に反論しながら、神に問いかけていきます。祈る内に、祈りの中で彼は今までわかっていなかった神様の素晴らしさに気付き始めるのです。
3.ヨブだけではありませんが、試練はその苦しみだけで終わるものではありません。必ず、私たちに神様の恵みを覚え、感謝し、幸せを感じるように用意されています。
Ⅱ.悪からお救いください
A.誘惑から遠ざかる
1.試み という言葉の原語は「ペイラスモス」で「試練」とも「誘惑」とも訳せますと言いましたので、もう一つの「誘惑」という言葉も考えてみましょう。ここの文章を直訳すると「誘惑の中に引き入れないでください」となります。神が引き込むことは無いのですが、非常に大きな力が働いて、注意していないと引きずり込まれてしまうものなのです。
2.論語には「君子危うきに近寄らず」という言葉があります。聖書には Ⅰペテ2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。 とあります。「誘惑」の泥沼に引きずり込まれないように遠ざかるように言われています。
B.イエス様の受けた悪魔の誘惑
1.神様が私たちを誘惑するわけではありませんが、悪魔は誘惑してきます。実はイエス様も悪魔の誘惑に遭われたのです。ルカの福音書4章に詳しく書かれています。食べ物、権力の誘惑と、神様の言葉を自分に都合よく使う誘惑です。この悪魔の誘惑に対して、イエス様は打ち勝たれました。悪魔は敗退したのです。 ルカ4:13 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。 と書いてあります。
2.この話は私たちの救い主は悪魔に打ち勝たれたお方だということを示していますが、私たちが悪魔に勝つには自分の力・知恵では無理です。この悪魔に勝たれたイエス様と共に闘うしか無いのです。
C.釣り針からはずしてください
1.こんなたとえ話があります。私たち人間を魚に、悪魔を釣りをする子どもにたとえています。そして、私たちは釣り針にかかった魚のようなものだと。名誉欲、物質欲、金銭欲などによって、針についている悪魔の餌を食べて釣り針に引っかかってしまうのです。そこに、子どもの父親がやって来て、かわいそうだから逃がしてやりなさいと言って、子どもから釣り竿を取り、釣り針から外してやって、はじめて魚は自由になれるのです。この 悪からお救いください というのは、「誰か、釣り針から私をはずしてください」とのたうち回っている魚の祈りだという話です。
2.私たちは誰も自分でその釣り針から逃れることはできないのです。この優しいお父さんのように、「逃がしてやりなさい」と釣り針からはずしてくれる人が必要なのです。
3.私たちを自由にしてくださるのは誰でしょうか? イエス様です。 悪からお救いください と祈る時、その私たちの切実な祈りに応えてくださるのがイエス様です。
● Ⅰコリ 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
ヤコブ 1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
ヘブル 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
という言葉があるように試練は、私たちを成長させるためですが、それは誘惑と紙一重かも知れません。
★ イエス様だけが悪魔の誘惑に打ち勝たれたお方です。そして、私たちが悪に引っかかっても、助けてくださるのもイエス様です。この祈りはとても大切な祈りです。