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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

わたしについて来なさい(岡山志伸師)

2014-10-15 06:48:35 | 礼拝説教
2014/10/12礼拝説教

■ テーマ: イエスの弟子
■ 説教題:「わたしについて来なさい。」
■ 聖書箇所:マタイ8:18~22


8:18 さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。
8:19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
8:20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
8:21 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」


<はじめに>
 このマタイの福音書8章において、イエス様が山から降りてこられてなされた三つの癒しの前回のときにお話ししました。今日の箇所は、この8章の中で唯一、イエス様が神の癒しや奇跡、神の権威などを示されなかった場面ですが、大切な教えをなさっています。
 
<Ⅰ弟子としての道>
1.真の弟子へ
 今日のこの聖書の箇所は、イエス様による神のわざとわざに挟まれた物語です。超自然的な神のわざが前後で語られるわけですが、その間にイエス様がなされたことは、ご自分の弟子として歩むための道を説きました。(8:18)イエス様は3人の人の病を癒された後、なぜ群衆を見渡して、向こう岸に行く用意を命じられたのでしょうか?多くの群衆に対応するためにも、イエス様はご自分の弟子の育成の必要を感じられたのではないかという意見もあります。また、こういった群衆の中にはいろいろな人々がいるため、結果的に「真の弟子」とそれほど熱心ではない支持者に分類されてくるのではないか、そんな意見もありました。こういったところから、イエス様は、まずは、「真の弟子」を育成するお気持ちがあったように思います。向こう岸には、まだ、イエス様がしなければならないことがありました。神の奇跡と権威がこの地に示す働きをもっと広める前に、イエス様は「真の弟子」を求めたのです。

2.ひとりの律法学者
 さて、弟子を連れて向こう岸に渡ろうとしているときに、律法学者が自分もついて行きたいと言いました。8;19、「・・先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」この律法学者は、イエスのことを「先生」と呼んでいても「主」とは呼んでいません。しかし、この律法学者は、イエス様を尊敬するがために、もっとその教えを受けていこうという志があったのでしょう。
 私もこの教会に来始めた時、イエス様への大きな関心もありましたが、また、キリスト教について勉強しようという気持ちが強く働いていました。振り返るとキリスト教について利口な人間になりたいと思ったんだな~と思いました。この一面もイエス様は大変、歓迎されます。しかし、頭で考えるだけの聖書知識の詰め込み、キリスト教の知識人だけに終わるのでは、本当の信仰を受け取れることは出来ません。本当の信仰心は聖霊がその人の心に豊かに働かれ、理屈ではない神の真理で心も魂も満たされることです。言わば、本当の信仰心は神様が与えるものだと言うことです。この律法学者もまた、「先生」と呼ぶだけに留まらず、「主」と呼べるほどの信仰心をイエス様から与えられる必要があったのです。

3.別のひとりの弟子
(8:21)また、もう一人の弟子である人物。彼はイエス様に従いる弟子の一人でしたが、父親の葬りにまず行かせてほしいと願い求めたわけです。この人は「弟子」と呼ばれていて、かつ、イエス様を「主よ」と呼んでいます。イエスが確かにこの人を召されたのです。
皆さんはイエス様をご自分の「主」だとはっきりと答えることが出来ますか?「主」であると答えられる人、それは、イエス様を自分の救い主として受け入れた方全ての人です。Ⅰコリントの12:3には、「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」と書かれています。聖霊がその人に働かれるとき、私たちは心から「イエス様は私の主です」と答えることが出来るのです。ですから、イエス様への信仰告白が出来る全ての人は、「イエス・キリストの弟子」として歩んでいるのと言えるのです。

<Ⅱ弟子としての覚悟>
1.眠る所もない神の働き
 この二人の要望に対してイエス様は、それぞれに問題を指摘して、弟子としての覚悟について語られます。まず、律法学者には、「すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』」(8:20)自分の弟子になるとは、ぐっすり眠る場所さえ与えられないなどの犠牲が伴うし、その決断を時に迫られるということだと語ったのです。イエス様は、彼が単に自分への感動だけで付いていきたいと言っていることを知っておられました。もし感情だけでイエス様に従おうとするなら、感情による落胆も大きいでしょう。マザーテレサが存命中、インドで貧しい人々を救助していることに感動したある女性が、マザーテレサのところに行って一緒に救助活動をしたいと申し出たとき、「あなたの近くにいる人を助けてあげなさい」と言われたそうです。インドまで来なくても、現実はすぐそばにあり、その人への憧れといった感情だけでは出来ないと言うことです。
また、眠るところもないほどキリストの弟子とは大変なのか、そんな風に思われるかもしれません。イエス様のこの譬えは究極の弟子の姿とも言えるかもしれません。今のこの日本においては、そこまで困っている神の働き人をあまり聞いたことがありません。しかし、先週もフィリピンの宣教師の吉原先生からお聞きしてよく分かりましたが、迫害の多い国のクリスチャンたちは、現実に眠ることも出来ないほどの命の危険の中に置かれるわけです。

2.神への優先順位
 では、もう一人の弟子についてはどのような覚悟を語られたでしょうか?この弟子は言いました。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」(8:21)これに対して、イエス様は、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」と言われます。これは、すでに死んでしまった人の方を、いのちの主であるご自身よりも優先させてはいけない、という意味合いです。イエス様は、父親の葬りはご自身を知らない者たちに委ね、まずご自身に従うよう仰いました。先祖を大切にする日本人にとっては、きつい言葉でしょう。しかし、これはイエス様が親孝行を軽んじられたのではないのです。律法には「父と母を敬いなさい」との教えがありますし、イエス様ご自身も苦しみの十字架上で母マリヤを案じ、弟子のヨハネにマリヤを委ねています。また、学校や仕事とか、または冠婚葬祭とか、そうしたものをないがしろにすることを言われたわけでもありません。イエス様は、親孝行や家族に仕えることを大切にしつつも、ご自身に従うことの優先性を教えられたのです。

3.神の国とその義を第一に
 こういった弟子としての覚悟を聞くと、「イエス様を信じて主の弟子になるって、何だかリスクを伴うことが多いんだな~」と思うかもしれません。しかし、神様に捧げていく心や神様を優先させるときにある恵みを、マタイの6章ではこう教えています。「6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ここは、「イエス様がまず第一」であるということです。「神の国とその義」とは、私たちが神様に信頼して、神様の支配に委ねて、神に従いつつ歩む生活を指しています。キリストの弟子になるというのは、キリストがすべての優先順位のトップとなることです。しかし、この神の国を優先順位の中に生きるとき、経済的なことや、私たちの生活の全ての必要は与えられるのだという約束であります。私たちは、この世の価値基準ではない神のものさしというものを、一緒に体験をしたいと思います。
 
<Ⅲ わたしについて来なさい>
1.神の国のビジョンに燃えて
「わたしについて来なさい」という言葉、聖書の他の箇所からも聞き覚えがあると思います。マタイ4章の有名な言葉です。「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:19~20)イエス様が4人の漁師たちをご自分の弟子に選ばれた場面です。今日のみ言葉とこのみ言葉にある「わたしについて来なさい。」という言葉、どう感じますか?いずれも神の導きの確かさと、神にある信頼や力強さと平安に満ちた言葉だと思いませんか?これは、牧師たちだけへの招きの言葉のように聞こえますが、神の民を召し出しておられる言葉です。この言葉を心の中で繰り返してみるとイエス様に自分の人生をゆだねよう!という決意を与えられてきます。また、イエス様と一緒に神の国のビジョンに燃えていこうという聖霊の火を感じてきます。イエス様は神の国の建設のために、私たちと一緒にその働きをされたいのです。「わたしについて来なさい」イエス様のこの言葉を聞いた弟子は、単にさとすような言葉ではなく、イエス様の燃えるような情熱を感じたのではないでしょうか?今日の言葉もこのペテロへの言葉もイエス様の神の国建設への情熱があるのです。
ペテロたちはまだイエス様についてよく知らなかったでしょう。しかし、彼らは神の国へのビジョンを持って心が燃えたことでしょう。「わたしについて来なさい。」と呼ばれてすぐについて行きました。平凡な漁師をイエス様は選ばれ、用いられました。私たち一人一人の出来ることも、その働きは小さいかもしれません。しかしながら、神様は小さな私たちに大きな関心を示される方です。私たちの内に聖霊による神の国への理想とビジョンを燃え立たせて頂きましょう。

2.神への献身はそれぞれ
ヨハネ15:16には、「わたしがあなたがたを選び、任命した。」という言葉があります。私たちがイエス様を信じたとき、私たちがイエス様を選んだと思ってしまいますが、神様の方が私たちを選び招かれたのです。私たちが思うような理由や評価や基準、それとはまったく違う理由で神さまは、私たちをご覧になって、「わたしについてきなさい」と招かれます。イエス様を信じていく時に、クリスチャン全てが、「キリストの弟子」であります。門下生としてすでに、入門しているのです。霊的に生まれたばかりの「赤ちゃんのお弟子さん」の門下生もいます。また、成熟段階に入った「大人のようなお弟子さん」もいます。しかし、神様は、一人一人の弟子、それぞれの特徴をよくご存知です。「わたしについてきなさい」このイエス様のお声に導かれて一歩一歩、今週も歩んでいきましょう。


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