2013/5/5ウエルカムサンデー礼拝説教
【説教題】 「少年の差し出した弁当」
【聖書箇所】 ヨハネ6:5-14
6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
○ 今日は「こどもの日」です。新中野キリスト教会では子どもたちを大事にしています。大事というのは愛しているということです。日本の国が「こどもの日」を制定したのは、子どもを大事にするためでした。教会はそれ以上に思っているのです。
Ⅰ.お腹を空かせた人々
A.イエス様のところに集まる人々
1.聖書の時代には一般的に女性と子どもは数に数えられなかったといいます。現代から見れば差別です。そんな時代にイエス様のお話を聞きに集まった人がたくさんいました。10節に、その数はおよそ五千人であった。 とありますが、それが大人の男性だけだというのですから、女性も子どもも入れれば2万人位いたのではないかというのです。
2.2万人がどれくらいの数かというと、今日の礼拝の400倍です。今私はこの人数でマイクを使っていますが、2万人の聴衆にイエス様はどんな大声でお話をなさったのでしょう。子どもたちは静かにしていたのでしょうか? トイレはどうしたのでしょうか? どうもそんなことばっかり考えてしまいます。
3.かつてアフリカで大伝道集会が持たれた時、何十万人という人が集まり、たくさんの人が救われたという報告がありましたが、大きな天幕だけではとても足りなかったというのは当然でしょうね。でも、イエス様のことを知りたくて遠くからも集まったのです。
B.対策は十分していても・・・
1.先ほど、トイレはどうしたのだろうか? と言いましたが、まさしく、大きな集会を開く時には、安全対策とトイレ対策、飲み水はじめ食事対策は大事な事です。
2.新中野教会で行う100人くらいのイベントでもそうしたことは大変なのです。数十名でバーベキュー大会に出かけた時も、安全対策、トイレの確認、肉の分量確認をしました。思わぬ早く雨が降ってきて、ブルーシートをテントにして、片付けを急いだことは懐かしい思い出です。
3.ですから、このガリラヤ湖周辺の小高い山に集まった人々への食事対策は弟子たちも気がかりだったかも知れません。そんな時、イエス様は 大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 なんて言われるのですから、弟子たちも困惑して当たり前でしょう。
Ⅱ.頭を使った弟子たち
A.足りません
1.大勢の人を見て、弟子たちは、イエス様から差し出された問題に取り組みます。「どこからパンを買ってくるか?」「どれだけのパンが必要になるか?」「お金はいくらかかるのか?」必死で考えたことでしょう。
2.ピリポは素早く答えます。 「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」 と。つまり、「私達でこの大勢の人のためにパンを与えるのは無理です」という結論なのです。200デナリとは、200日分の賃金に当たるということです。仮に一日1万円で計算すると、200万円で、2万人いるのですから、一人200円分ということです。これはあくまでも現代の金額ですから、セブンイレブンでおにぎり100円セールの時に、一人あたり2コという計算です。果たして、会計をしていたユダの財布には200デナリも入っていたのでしょうか?
B.こんなに大勢では・・・
1.そんな時、アンデレは 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」 と、言います。彼は頭から自分たちの財布の中身が無いことを知ってか、集まっている民衆の持ち物に関心があったのではないでしょうか。
2.あちこち見渡しても、みんな大して何も持たないで来たような雰囲気です。そんな時、一人の少年が自分のお弁当を持って来たようなのです。この少年が持っていたということは、他にも持っていたかも知れません。ですから、みんなが出し合えば何とかなるかなとアンデレは思ったのかも知れないのです。
3.みんなに向かって「持っている食べ物を出せ!」と言えば、結構集まるのではないかと思ったかも知れないのですが、実際は彼が絶望するほどに食料は無かったようです。だから、しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。 という羽目になったのでしょう。
C.無理です
1.弟子たちはしっかり考えたのです。きっと、イエス様が行くところにはいつも大勢の人が集まったので、安全対策、トイレ対策はしてきたでしょう。しかし、食料対策はしてこなかった。だからマニュアルに無いので、必死で考えるのです。誰も祈らなかった。
2.その上で、彼らは結論を出しました。「無理!」 彼らは湖を見て魚のいそうな所を見つけられるような漁師であったり、お金に詳しい取税人であったりしたのです。その専門分野の知識と知恵を結集して出した結論が「無理!」だったのです。
Ⅲ.心を差し出した少年
A.イエス様、どうぞ!
1.弟子たちの結論を聞くまでも無く、普通は無理です。ところが、子どもというのは、無理とか考えない。トトト、と一人の少年がお弁当を持って来たのです。イエス様と弟子たちの話が聞こえたのか、自分はお腹が空いてもいいから、イエス様に食べていただこうと思ったのか、彼は持って来たのです。彼だって、幼児で無ければ、たった5つのパンでみんなのお腹を膨らせるなんて思ってないでしょう。彼はみんなのことより、自分のことより、イエス様の空腹を思ったのです。
2.ですから、その弁当をイエス様が「ありがとう。おいしいよ。」と食べてしまっても少年は嬉しかったと思うのです。ところが、イエス様は食べなかったのです。そして、少年の目の前で少年にすごいことを見せたのです。自分でイエス様に持って来たから、少年は目の前でパンが一杯に増える奇跡を見るのです。「わーお!すごい、イエス様、最高!」って叫んだと思います。
B.祈りは愛がこもっている
1.少年はお弁当を差し出したのですが、それはイエス様に差し上げたものです。彼は彼の心をイエス様に差し出したということなのです。
2.心を注ぎだしたところには神様の奇跡が起こるのです。祈りで奇跡が起こると言いますが、それは祈りが神と人とを愛するものだからなのです。
3.イエス様が願われることは何でも実現したのは、イエス様が神様と直結しており、人々を100%愛されたからです。天の父なる神様はこのイエス様の願いを聞きたくてたまらないという感じです。
● イギリスの孤児院を創ったジョージ・ミューラーは祈りの人でした。何度も何度も子どもたちへのパンに困りそうになるのですが、ある時は小切手が届き、ある時はパンを積んだ馬車が到着するのです。みんな不思議がったそうです。
★ あなたもこの少年のようにイエス様に心を差し出しませんか?! ジョージ・ミューラーのようにイエス様に期待して祈ってみませんか。