2019/11/3 礼拝説教
【テーマ】 へりくだりを覚える
【説教題】 「だれが一番偉いか」
【聖書箇所】 マルコ9:30-37
9:30 さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
9:32 しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
9:33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
9:34 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
9:35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
9:36 それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
9:37 「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
○ ネット上に「出世する人の特徴6つ」というのがありました。「忍耐力がある」「周囲の目を気にしない」「話を聞くのが上手な人」「上司がそばに置きたいと思う存在になる」「話し方がきれいで上手な人」「時には反論をして説得力を上げる」と。他に「出世する人に共通する20の特徴」というのもありました。読んでみるとなるほどと思いました。同時にもし私が一般企業に勤めていたら出世しただろうかと(笑)。人の上に立ちたいと思う人は多いのでしょうか。今日のテキストにはイエスの弟子達の順位争いのようなものが見えます。
Ⅰ.心の方向が違う
A.エルサレムに向かうために
1.イエス一行は本拠地であるガリラヤを通過されますが、 イエスは、人に知られたくないと思われた とあるようにこっそりとそこを抜けて行かれる様子です。もうあまり人々に語ろうともなさらない、癒しなど奇跡を行うでもなくそっと次の地に向かう雰囲気です。
2.いよいよイエスは弟子達にお話になっていた十字架にかけられて死ぬというメシヤとしての使命を果たすためにエルサレムへと向かわれるということです。
B.一緒にエルサレムに向かっているが
1. イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。 と、とても大事な話をイエスは弟子達に何度か語っておられるのです。しかし、 9:32 しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。 とあるように弟子達は理解しないのです。これじゃ出世しませんね。
2.弟子達は確かにイエスと一緒にエルサレムに向かっているのですが、イエスと心の方向は違っていたのです。それはイエスに王となってもらってイスラエル王国を再建していただき、自分たちはその大臣になるということでしょう。だれもイエスの向かっておられる方向がわかっていません。
Ⅱ.上を狙う弟子達
A.弟子達の関心
1.弟子達の関心はイエスの十字架ではありません。では何だったかというと、弟子の順位です。彼らは道々「誰が一番偉いか」ということを話し合っていました。カペナウムに着いてイエスから何を話し合っているのかと聞かれても恥ずかしくて答えられません。
2.弟子達は誰もあの口のきけない男の子を癒やせませんでした。悪霊を追い出せなかったという出来事があったばかりです。その前はイエスの名によって悪霊を追い出せたのですが、今回はできなくて、恥ずかしい思いをしたばかりです。
B.恥ずかしい思いをする弟子達
1.彼らは恥ずかしくて何を話していたかなんて答えられません。イエスが父なる神に対して完全にへりくだっておられるのに対して弟子達は誰が偉いかを競っています。全く逆方向です。
2.弟子達だって誰が一番偉いか何ていう話をしているのをイエスに知られるのは恥ずかしいとわかっています。しかし、関心のあることは話さない方が良いとわかっていても話してしまうものです。人間というのはいけないとわかっていてもしてしまやすい存在です。だからいじめにしても、依存症にしても解決しないのです。
Ⅲ.下へ行けと言うイエス
A.「しんがり」になれ
1.このような弟子達に対してイエスは何を求めておられるのでしょうか? 「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」 と言われました。順位を話し合っていたということは「自分が偉い」と思いたいわけです。それに対して、イエスは上に立ちたいなら「しんがり」になれと言われるのです。
2.これはこの世の順位では下の部類でしょう。出世とは関係のない話しに聞こえます。
B.最も低いところに
1.イエスはこれからエルサレムに行き、十字架にかけられます。十字架刑は最低の人間の姿です。それを私たちのために受けると言うのです。誰もが逃れたい罪の十字架刑を。
2.人が定めた十字架刑ですが、神はその恥を用いて私たちを救う計画を立ててくださいました。イエスが最も低きに下ることで人に真の幸福が得られるという計画です。
3.私たちには十字架のような罪のさばきを受けることは求められていませんが、へりくだることは求められています。その時にその人は高められており、人をも幸せにする事ができるのです。
● 一般企業でも牧師を講師に招いて研修会を行っているところがあるそうです。人としての成長を考えての研修に聖書から語って貰うということです。今日のイエスの言葉のように世の基準とは違うのですが、とても大事なことが語られ、目から鱗の人も多いようです。
★ だれが一番偉いか この答えは何でしょうか? 弟子の中には相当するものはいません。私たちも同じくそれを求めるなら一番にはなれないようです。一番偉いのはイエスです。そのへりくだりの姿に倣うのが私たちの人生なのです。
【テーマ】 へりくだりを覚える
【説教題】 「だれが一番偉いか」
【聖書箇所】 マルコ9:30-37
9:30 さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
9:32 しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
9:33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
9:34 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
9:35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
9:36 それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
9:37 「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
○ ネット上に「出世する人の特徴6つ」というのがありました。「忍耐力がある」「周囲の目を気にしない」「話を聞くのが上手な人」「上司がそばに置きたいと思う存在になる」「話し方がきれいで上手な人」「時には反論をして説得力を上げる」と。他に「出世する人に共通する20の特徴」というのもありました。読んでみるとなるほどと思いました。同時にもし私が一般企業に勤めていたら出世しただろうかと(笑)。人の上に立ちたいと思う人は多いのでしょうか。今日のテキストにはイエスの弟子達の順位争いのようなものが見えます。
Ⅰ.心の方向が違う
A.エルサレムに向かうために
1.イエス一行は本拠地であるガリラヤを通過されますが、 イエスは、人に知られたくないと思われた とあるようにこっそりとそこを抜けて行かれる様子です。もうあまり人々に語ろうともなさらない、癒しなど奇跡を行うでもなくそっと次の地に向かう雰囲気です。
2.いよいよイエスは弟子達にお話になっていた十字架にかけられて死ぬというメシヤとしての使命を果たすためにエルサレムへと向かわれるということです。
B.一緒にエルサレムに向かっているが
1. イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。 と、とても大事な話をイエスは弟子達に何度か語っておられるのです。しかし、 9:32 しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。 とあるように弟子達は理解しないのです。これじゃ出世しませんね。
2.弟子達は確かにイエスと一緒にエルサレムに向かっているのですが、イエスと心の方向は違っていたのです。それはイエスに王となってもらってイスラエル王国を再建していただき、自分たちはその大臣になるということでしょう。だれもイエスの向かっておられる方向がわかっていません。
Ⅱ.上を狙う弟子達
A.弟子達の関心
1.弟子達の関心はイエスの十字架ではありません。では何だったかというと、弟子の順位です。彼らは道々「誰が一番偉いか」ということを話し合っていました。カペナウムに着いてイエスから何を話し合っているのかと聞かれても恥ずかしくて答えられません。
2.弟子達は誰もあの口のきけない男の子を癒やせませんでした。悪霊を追い出せなかったという出来事があったばかりです。その前はイエスの名によって悪霊を追い出せたのですが、今回はできなくて、恥ずかしい思いをしたばかりです。
B.恥ずかしい思いをする弟子達
1.彼らは恥ずかしくて何を話していたかなんて答えられません。イエスが父なる神に対して完全にへりくだっておられるのに対して弟子達は誰が偉いかを競っています。全く逆方向です。
2.弟子達だって誰が一番偉いか何ていう話をしているのをイエスに知られるのは恥ずかしいとわかっています。しかし、関心のあることは話さない方が良いとわかっていても話してしまうものです。人間というのはいけないとわかっていてもしてしまやすい存在です。だからいじめにしても、依存症にしても解決しないのです。
Ⅲ.下へ行けと言うイエス
A.「しんがり」になれ
1.このような弟子達に対してイエスは何を求めておられるのでしょうか? 「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」 と言われました。順位を話し合っていたということは「自分が偉い」と思いたいわけです。それに対して、イエスは上に立ちたいなら「しんがり」になれと言われるのです。
2.これはこの世の順位では下の部類でしょう。出世とは関係のない話しに聞こえます。
B.最も低いところに
1.イエスはこれからエルサレムに行き、十字架にかけられます。十字架刑は最低の人間の姿です。それを私たちのために受けると言うのです。誰もが逃れたい罪の十字架刑を。
2.人が定めた十字架刑ですが、神はその恥を用いて私たちを救う計画を立ててくださいました。イエスが最も低きに下ることで人に真の幸福が得られるという計画です。
3.私たちには十字架のような罪のさばきを受けることは求められていませんが、へりくだることは求められています。その時にその人は高められており、人をも幸せにする事ができるのです。
● 一般企業でも牧師を講師に招いて研修会を行っているところがあるそうです。人としての成長を考えての研修に聖書から語って貰うということです。今日のイエスの言葉のように世の基準とは違うのですが、とても大事なことが語られ、目から鱗の人も多いようです。
★ だれが一番偉いか この答えは何でしょうか? 弟子の中には相当するものはいません。私たちも同じくそれを求めるなら一番にはなれないようです。一番偉いのはイエスです。そのへりくだりの姿に倣うのが私たちの人生なのです。