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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

どちらが易しいか?

2018-04-08 16:51:06 | 礼拝説教
2018/4/8礼拝説教
【テーマ】  罪を赦す権威
【説教題】 「どちらが易しいか?」
【聖書箇所】 マルコ2:1-12
【新改訳2017】
2:1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。
2:3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
2:4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
2:6 ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
2:12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。

○ マルコは悪霊の追い出しや病の癒しを連続して記しています。そして、2章の最初にこの中風の人の癒しを記しますが、読んでみると単に病の癒しを書いているわけではありません。イエス様が 「子よ、あなたの罪は赦された」 と言われていることが気になるではありませんか。

Ⅰ.仲間の力
A.何もできない人
1.中風の人は一人でイエス様のところに来る力もありませんでした。彼はただただ無力なのです。無力と言っても彼の心の内は誰にもわかりません。
2.もしかして寝ているしかない自分を辛く思いつつも他の人々のことを気にして過ごすような優しい人だったかも。あるいは反対に「生きていても意味が無い」と自分のことだけしか考えられない人だったかも知れません。
3.さらに考えられるのは、彼は「自分の病気をイエス様なら癒やせる」と信じた人かも知れません。

B.名も無い4人の人
1.無力のこの中風の人をイエス様のところに連れてきた4人の人がいます。家族なのか友人なのか? 彼らもイエス様ならこの病人を癒すことができるのでないかと期待して連れてきたようです。
2.ここに相互牧会を見ることができます。中風の人ができないことを助けています。屋根を破ってでも彼をイエス様のところに連れて行こうとしています。

Ⅱ.イエスの力
A.上から来た人
1.屋根を破られたこの家はペテロの家だったかと思われます。自分の家だと想像してみると腹が立つような出来事です。また、多くの人が集まっているところに、上から土がどんどん落ちてきたのですから大騒ぎです。
2.何事かと思った人の中には律法学者もいました。彼らはこの時点ではイエス様に関心を持っていたかも知れません。
3.そこにイエス様に癒して欲しいという中風の人が連れてこられました。そして、上から床に寝かされた男性が吊り下ろされてきました。

B.下にいたイエス
1.みんな驚いたことでしょう。もちろん癒してもらいたくて来たこともわかったと思います。人々の中にはここでまたイエス様の奇跡の業を見ることができると期待していたかも知れません。
2.その期待通り、それ以上に中風の人と彼を連れてきた4人の期待通りにイエス様はこの人を癒しました。しかし、問題はイエス様の言葉でした。 「子よ、あなたの罪は赦された」 と言われたからです。一気に律法学者達の神経を逆なでしました。
3.彼らは心の中で 2:7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」 と腹を立てたのです。彼らの言っていることは間違いありません。同時にイエス様も間違っていません。

Ⅲ.信仰の力
A.赦しを宣言できるのは誰?
1.ここで律法学者とイエス様の論争になるわけですが、ここでキーになる言葉は 2:9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 でしょう。人にはどちらもできないことです。しかし、罪の赦しは目に見えませんから、人目には「癒し」の方が難しいと言えるでしょう。
2.しかし、罪の赦しは言うだけならたやすいですが、実行できるのは神様だけです。ですから罪を赦したことがわかれば、それを語った人は神と言うことになります。そこで、イエス様はこの中風の人を癒されました。つまり、イエス様は神だということです。

B.罪の赦しは喜びを与える
1.そして、この人の癒しに関して大事な言葉は 2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 です。イエス様が信仰を見られたのは中風の人だけで無く、 彼らの にあるように5人ともでしょう。
2.どんな信仰なのでしょうか? イエス様を神とも、十字架で身代わりの死を遂げることも信じていないと思うのです。彼らは「イエス様なら癒してくれる」と言う程度の信仰だったのではないでしょうか。イエス様はそれでも「信仰」と呼んでくださいました。
3.当時、大きな病気は罪の結果と思われていましたから、この中風の人やその家族・親族が罪を犯したと考えられたのです。そこで、 「子よ、あなたの罪は赦された」 と言われて、病を癒されたということは、彼らの罪が赦されたことを大勢の目の前で示したのです。もう人々から罪人呼ばわりされないで、気持晴れやかに過ごすことができるようになったわけです。


★ 中風の人が癒されることでイエス様が罪を赦す権威をお持ちだと言うことがはっきりしました。つまり、イエス様は神だということです。イエス様は私たちの信仰が見えています。それが小さな信仰であっても喜んでくださるのです。

◆ 私たちは小さな信仰で受け入れられていますが、その信仰はからし種のようなもので、成長すべきものです。