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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

光の武具・キリストを着る

2016-07-17 17:47:01 | 礼拝説教
2016/7/17礼拝説教
【テーマ】  愛の行い
【説教題】 「光の武具・キリストを着る」
【聖書箇所】 ローマ13:11-14
  13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

○ 今日の御言葉はあの有名な神学者アウグスチヌスが回心したときの御言葉です。クリスチャンである母モニカの祈り虚しく、彼は新興宗教のマニ教に入り、快楽に目覚めてしまい、とんでもない人生を送っていました。そんな彼が苦しんでいた時に、隣の家の子どもが「取って読め」「取って読め」と歌うのを聞いて、不思議に涙が出、友人の家に飛び込み、聖書を開いて読んだのがここ。彼は一気に平安を得て、教会へと飛び込んだのです。

Ⅰ.今がどんな時か知っている
A.時間と時
1.今から2000年近く前のことですが、この時に「世の終わり」「再臨」が近いと言っていました。私たちは「時」と言うとどうしても「何年、何月、何日、何時」というような時間を考えがちで、「もう2000年近く経つのにまだ世の終わりは来ないではないか?」と言いがちです。
2.AD999年、ヨーロッパの多くの人々が自分の財産を売却して貧しい人たちに与えたりしたそうです。AD1000年、新しい千年期の幕開けにキリストが再臨すると思ったからです。
3.私がクリスチャンになった1973年、そういう話はたくさんありました。2000年が来るのか、いよいよ再臨なのかと。しかし、「時」というのは単に時間を表す「クロノス」という時だけではなく、「十字架の時」「時満ちて」というような「カイロス」という時があるのです。

B.どんな時
1.先日町を歩いていると、珍しく時間を聞かれました。最近はみんな携帯を持っていて、時計が無くても時間がわかるものです。以前は子どもからよく時間を聞かれたものです。「今何時ですか?」と。「5時10分だよ」というと、「いけない、急いで帰らなくちゃ!」と、かけ出す子がいたものです。
2.その子が「時間」を知りたかったのは、何かお母さんと約束があったか、塾があったのかも知れません。5時10分は時間ですが、その子にとってお母さんとの約束の「時」や、塾に行く「時」なのです。このようにこの子はどんな「時」か知っているのです。
3.私たちは今がどんな時か知っているでしょうか? 今がどのような時か の「時」とは正にイエス様の十字架・復活・昇天から、もう一度お出でになる「再臨の時」までの間の時なのです。

Ⅱ.光の武具を着けよう
A.眠りから覚める時刻が来た
1.今、眠っている人はいませんか? 霊的に眠っているということがあるのです。私は大学の授業で大失敗した経験があります。それは美術の教師になると思っていなかったために「美術史」の授業を大幅に欠席したことです。出席を取らない先生で試験も無いのです。教会と聖書研究会で忙しかった私はその授業を休むことが多かったのです。ところが教師の採用試験は美術で受けることになったのです。しかも美術の教師になったのです。恥ずかしいことに「美術史」が抜け落ちた教師です。大学生の「時」、私はこの科目を勉強する「時」だと目覚めていなかったのです。つまり眠っていた状態です。
2.後になれば分かることが多々あるのですが、その時には気づいていないことが多いのです。天国に行ってから気づくということは無いと思うのですが、私たちは果たして 今がどのような時か知っている でしょうか? ヨハネ12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。 とあるように、この地上にいる間は、光であるイエス様を信じる「時」なのです。

B.昼が近づいた
1.闇というのは 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活 という正しくない生き方です。悪はちょっとの悪からどんどんエスカレートして行きます。そして、依存症のようになり、それを打ち捨てることができないものです。
2.しかし、「時」を知っているなら、 夜はふけて、昼が近づ いたのですから、光の武具で身を固める必要があります。  エペソ6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、 6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。 6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 と。

Ⅲ.イエス・キリストを着よう
A.キリストのように生きる人
1.当時のクリスチャン達はまるで「キリスト」という外套を着ているかのように生きていたのではないでしょうか。使徒行伝で「キリストの弟子達」のことを世の人々は「キリスト者(クリスチャン)」と呼ぶようになった背景は彼らが「キリストを着ているよう」だったからではないでしょうか。
2.だとすれば私たちはどのように生きるべきなのでしょうか? どのように生きようとするのか? 決めるのは私たち自身です。「キリストのように生きたい」と願いますか。

B.愛の行いをする人
1.光の武具を着けようではありませんか。 とは、 主イエス・キリストを着なさい。 ということです。アウグスチヌスが肉の欲に生きていて、虚しさだけが彼を襲ってきたとき、彼は幼子の言葉にハッとして、聖書を開いたのです。その時、彼は今がどのような時か気づいたのです。イエス・キリストに立ち帰る「時」だと。そうしなければ自分の先は無いのだと。
2.そして、彼は自身の証を書き、人々に積極的にイエス・キリストを伝えるのです。 主イエス・キリストを着 るというのは、イエス様のなさりたいことを私たちもするということです。イエス様のなさる「愛の行い」を私もするということです。

★ 肉の欲のために心を用いないで、イエス・キリストを着ようではありませんか。