2014/10/19礼拝説教
【テーマ】 聖霊の働き・とりなし
【説教題】 「うめく神様」
【聖書箇所】 ローマ8:26
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
○ 皆さんはうめいたことはありますか? 私は椎間板ヘルニアで本当にぶっ倒れた時、うめきました。言葉にならない、叫びというわけでも無い、しかし、とても強くこみ上げてくるものですね。では、うめく祈りをしたことはいかがですか?
Ⅰ.助けてくださる聖霊
A.聖霊もうめく
1.この前のところでは、被造物がうめき、私たちがうめきながら救いの完成を待ち望んでいることを見てきました。今日のテキストには聖霊がうめかれることが書かれています。
2.私たちがうめくのはわかりますが、神様である聖霊がうめかれるとは考えにくいことではないでしょうか。もちろん比喩的表現なのでしょうけれど、そういう表現以上に私たちのことを思って、真にうめくほどの愛をもっておられるということです。
B.聖霊は助け主
1.御霊も同じようにして と、25節、あるいはその前からの話に続けて私たちを助けてくださる神様の働きがあります。「完成を忍耐をもって待ち望んでいる私たち」ですが、待ち望むにはかなりの力が必要です。それを神様は私たちに与えた信仰によって助けてくださっています。
2.また、その救いの保証として聖霊が与えられています。聖霊は 弱い私たちを助けてくださ るというのです。私たちは弱いのでしょうか? 強いと思っている人も中にはいらっしゃるでしょう。しかし、ここまでのパウロの言い方から見てくると、私たちは善を積極的に行うことができなかったり、悪の誘惑に負けてしまったり、人を赦せない、愛せないという弱いものです。
3.聖霊はそういう弱さの中に生きる私たちを助けてくださる「助け主」です。
C.聖霊のお手伝い
1.助けてくださいます と言うこの言葉はギリシャ語では三つの言葉がくっついてできています。(シュナンティラムバネタイ シュン+アンティ+ラムバノマイ)「いっしょ」「代わって」「取り上げる」です。
2.この言葉は聖書ではもう一カ所だけでてくるそうです。それはルカ10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 の 手伝いをするように がそれです。
3.この意味を当てはめてみますと、「弱い私たちの手伝いをしてくださいます」という訳になるのではないでしょうか。聖霊が弱い私たちと、一緒になって、私たちに代わりとなって手伝ってくださるのです。
Ⅱ.とりなしてくださる聖霊
A.どう祈ってよいかわからない
1.私たちは、どのように祈ったらよいかわからない というような祈りにおいてもどう祈ってよいかわからないような弱い存在です。「祈りは、神様に思っているまま語りかければいいんだよ」と言われたりしますが、その思っていることが何かさえわからないことがあります。
2.イエス様の弟子たちがイエス様に祈りを教えてくださいとお願いしました。 ルカ11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 です。そこでイエス様が弟子たちに教えた祈りが「主の祈り」です。
3.しかし、お題目のようにこれを唱えれば良いわけではないのです。聖霊は私たちに祈りを教えてくださいます。導いてくださいます。
B.とりなしの祈り
1.先ほどの シュナンティラムバネタイ の真ん中の アンティ は「代わって」という意味ですが、イエス様こそ私たちに代わって十字架に死んでくださったのです。私たちは祈りがわからないどころか、どうしたら罪を赦してもらえるかもわからなかったのです。そこで、イエス様が身代わりになり、とりなしてくださったので、私たちは救われたのです。
2.本来私たちは神様から見れば敵であり、憎まれるべき存在でした。ところが、マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 の、イエス様ご自身の言葉の通り、イエス様は私たち憎むべき者を愛してくださったのです。それが、ゲッセマネの園での祈りとなり、十字架上の祈りとなったのです。
Ⅲ.祈らせてくださる聖霊
A.祈らないと死ぬ
1.人間にとって生きていく上で必要なことは、息をすること、食べることですが、人間は霊的な存在ですから、霊的にも生きていく上で必要なことがあります。
2.その一つが祈りです。神様に祈ることです。「祈り」は呼吸にたとえられます。聖書を読むことは、御言葉を食べるということで、食事にたとえられ、奉仕や伝道は、運動することに当てはめられたりします。
3.祈りを失った人は死ぬのです。ばかなか呼吸ができなくなってしまった人に酸素マスクがつけられ、あるいは人工心肺が取り付けられます。それは生きることを助けるためです。聖霊は生かそうとする神です。
B.祈りを助けてくださる聖霊
1.私たちは祈りにおいて自力でいつも祈ることが簡単にできるのでしょうか? いえ、聖霊が手伝ってくださる(助けてくださる)というのは、私たちが簡単に祈れる存在では無いからです。
2.私たちも祈りにおいてうめくのです。特にとりなしの祈りは大変です。ましてや、どんな状況下もわからない、あるいは敵のためにとりなすとすればどうでしょう。聖霊の助け無しに祈れません。聖霊も 御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます とあるとおり、うめかれるのです。
3.聖霊と共にうめくのです。 私たちは、どのように祈ったらよいかわからない とパウロは言いますが、その通りです。わからないから全知全能の神に委ねてうめいて祈るのです。
● 「苦しいときの神頼み」という言葉は悪く聞こえます。しかし、苦しい時だから神により頼むというのは、やはり人間は神無しには生きていけないことを知っているからでしょう。苦しい時には祈れると思いがちですが、苦しいときこそ「助けてください」くらいで本当にどう祈ってよいかわからないものです。
★ 聖霊は祈りを助けてくださるのです。そして、私たちの心の奥底からそれこそうめきをもって人々のためにとりなしの祈りをさせてくださるのです。この祈りをするから私たちは「愛の人」になっていくのです。聖霊に満たされて祈っていこうではありませんか。
【テーマ】 聖霊の働き・とりなし
【説教題】 「うめく神様」
【聖書箇所】 ローマ8:26
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
○ 皆さんはうめいたことはありますか? 私は椎間板ヘルニアで本当にぶっ倒れた時、うめきました。言葉にならない、叫びというわけでも無い、しかし、とても強くこみ上げてくるものですね。では、うめく祈りをしたことはいかがですか?
Ⅰ.助けてくださる聖霊
A.聖霊もうめく
1.この前のところでは、被造物がうめき、私たちがうめきながら救いの完成を待ち望んでいることを見てきました。今日のテキストには聖霊がうめかれることが書かれています。
2.私たちがうめくのはわかりますが、神様である聖霊がうめかれるとは考えにくいことではないでしょうか。もちろん比喩的表現なのでしょうけれど、そういう表現以上に私たちのことを思って、真にうめくほどの愛をもっておられるということです。
B.聖霊は助け主
1.御霊も同じようにして と、25節、あるいはその前からの話に続けて私たちを助けてくださる神様の働きがあります。「完成を忍耐をもって待ち望んでいる私たち」ですが、待ち望むにはかなりの力が必要です。それを神様は私たちに与えた信仰によって助けてくださっています。
2.また、その救いの保証として聖霊が与えられています。聖霊は 弱い私たちを助けてくださ るというのです。私たちは弱いのでしょうか? 強いと思っている人も中にはいらっしゃるでしょう。しかし、ここまでのパウロの言い方から見てくると、私たちは善を積極的に行うことができなかったり、悪の誘惑に負けてしまったり、人を赦せない、愛せないという弱いものです。
3.聖霊はそういう弱さの中に生きる私たちを助けてくださる「助け主」です。
C.聖霊のお手伝い
1.助けてくださいます と言うこの言葉はギリシャ語では三つの言葉がくっついてできています。(シュナンティラムバネタイ シュン+アンティ+ラムバノマイ)「いっしょ」「代わって」「取り上げる」です。
2.この言葉は聖書ではもう一カ所だけでてくるそうです。それはルカ10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 の 手伝いをするように がそれです。
3.この意味を当てはめてみますと、「弱い私たちの手伝いをしてくださいます」という訳になるのではないでしょうか。聖霊が弱い私たちと、一緒になって、私たちに代わりとなって手伝ってくださるのです。
Ⅱ.とりなしてくださる聖霊
A.どう祈ってよいかわからない
1.私たちは、どのように祈ったらよいかわからない というような祈りにおいてもどう祈ってよいかわからないような弱い存在です。「祈りは、神様に思っているまま語りかければいいんだよ」と言われたりしますが、その思っていることが何かさえわからないことがあります。
2.イエス様の弟子たちがイエス様に祈りを教えてくださいとお願いしました。 ルカ11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 です。そこでイエス様が弟子たちに教えた祈りが「主の祈り」です。
3.しかし、お題目のようにこれを唱えれば良いわけではないのです。聖霊は私たちに祈りを教えてくださいます。導いてくださいます。
B.とりなしの祈り
1.先ほどの シュナンティラムバネタイ の真ん中の アンティ は「代わって」という意味ですが、イエス様こそ私たちに代わって十字架に死んでくださったのです。私たちは祈りがわからないどころか、どうしたら罪を赦してもらえるかもわからなかったのです。そこで、イエス様が身代わりになり、とりなしてくださったので、私たちは救われたのです。
2.本来私たちは神様から見れば敵であり、憎まれるべき存在でした。ところが、マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 の、イエス様ご自身の言葉の通り、イエス様は私たち憎むべき者を愛してくださったのです。それが、ゲッセマネの園での祈りとなり、十字架上の祈りとなったのです。
Ⅲ.祈らせてくださる聖霊
A.祈らないと死ぬ
1.人間にとって生きていく上で必要なことは、息をすること、食べることですが、人間は霊的な存在ですから、霊的にも生きていく上で必要なことがあります。
2.その一つが祈りです。神様に祈ることです。「祈り」は呼吸にたとえられます。聖書を読むことは、御言葉を食べるということで、食事にたとえられ、奉仕や伝道は、運動することに当てはめられたりします。
3.祈りを失った人は死ぬのです。ばかなか呼吸ができなくなってしまった人に酸素マスクがつけられ、あるいは人工心肺が取り付けられます。それは生きることを助けるためです。聖霊は生かそうとする神です。
B.祈りを助けてくださる聖霊
1.私たちは祈りにおいて自力でいつも祈ることが簡単にできるのでしょうか? いえ、聖霊が手伝ってくださる(助けてくださる)というのは、私たちが簡単に祈れる存在では無いからです。
2.私たちも祈りにおいてうめくのです。特にとりなしの祈りは大変です。ましてや、どんな状況下もわからない、あるいは敵のためにとりなすとすればどうでしょう。聖霊の助け無しに祈れません。聖霊も 御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます とあるとおり、うめかれるのです。
3.聖霊と共にうめくのです。 私たちは、どのように祈ったらよいかわからない とパウロは言いますが、その通りです。わからないから全知全能の神に委ねてうめいて祈るのです。
● 「苦しいときの神頼み」という言葉は悪く聞こえます。しかし、苦しい時だから神により頼むというのは、やはり人間は神無しには生きていけないことを知っているからでしょう。苦しい時には祈れると思いがちですが、苦しいときこそ「助けてください」くらいで本当にどう祈ってよいかわからないものです。
★ 聖霊は祈りを助けてくださるのです。そして、私たちの心の奥底からそれこそうめきをもって人々のためにとりなしの祈りをさせてくださるのです。この祈りをするから私たちは「愛の人」になっていくのです。聖霊に満たされて祈っていこうではありませんか。