2013年5月19日
■ テーマ:聖霊の時代
■ 説教題:ペンテコステの出来事
■ 聖書箇所:使徒の働き2:1~ 21
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。
2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。
2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
<はじめに>
今日はペンテコステです。このペンテコステの日は、イスラエルにおいては、主の三大例祭の一つでもあります。第一は「過越の祭り」、第二は「五旬節、ペンテコステ」、そして第三は「仮庵の祭り」です。そして、キリスト教会にとっては、大切な記念日です。聖霊降臨日とも言います。教会においては、一年に三つの大きなお祝い事があります。一つは、クリスマスです。真の神であり、救い主であるイエス様がこの地にお生まれになったことを祝います。そして、イースターです。これは、イエス様が十字架で死なれ、その三日目によみがえられ、勝利したことをお祝いします。そして、三つ目が、今日のこのペンテコステであります。
<本論1:教会の始まり>
このペンテコステの日に、聖霊が下って、エルサレムに教会が始まりました。ですから、ペンテコステの日は教会のお誕生日でもあるわけです。今日のみ言葉の前に、ペンテコステの日に際しての十日間の祈りの箇所があります。教会の始まりは祈りから始まっていると言えます。そして、エルサレムでイエス様が語った、聖霊が臨むという約束の成就を待っていたのです。ただ、何もしないで指をくわえてボーと待っていたのでなく、この聖霊の約束を信じて、ひたすら祈って待っていたのです。(1:14)教会は、「聖霊が臨む」というイエス様の言葉を信じて、祈って待ったのです。人々の祈りがなくては、教会はスタート出来なかったと言えるのです。イエス様の約束の言葉と、聖霊が下るというその間には、祈りがありました。教会は祈りの家と言われるわけです。教会には、イエス様を信じる人々の祈りによる献身が必要です。私も祈祷部の部長でありながら、朝の祈りの時など、眠くて仕方がないです。しかしながら、祈りは嫌だなんて言ってられないことを教えられます。聖書から見ても教会は祈りを通して生み出されており、教会はクリスチャンたちの祈りなくしては、維持できないのですから。イエス様の言葉を信じて十日間祈って待って、とうとう聖霊が下って、教会はスタート地点に立ったのです。
<本論2:聖霊の驚くべきわざ>
祈りによって備えた十日間を終えて、待望の聖霊が下りますが、聖霊は彼らの考えもしない形で下られます。そこには、超自然的な三つのしるしが伴っていました。
1.激しい風が吹くような響き/2:2激しい風が吹くような響きです。ここでは、実際に激しい風が吹いているわけではなく、風のような大きな響きなのです。「風」は御霊の象徴の一つとして聖書では表されています。旧約においては、旧約において聖書の民は、「風」を「神の息」として考えたようです。「息」として語られる旧約の箇所には、エゼキエル書37章の枯れた骨の回復預言が有名です。エゼキエルが神様に導かれて見た幻です。ある谷へと導かれました。幻の中でその谷は骨で満ちていました。その命は失われ、もはや動くことも見ることも語ることもない、命の営みの一切が失われた抜け殻、それが枯れた骨です。エゼキエルは、神様からこの枯れた骨に「預言せよ」と言われます。エゼキエルがその通りすると、最後には、息が入って人は生き返り、立ち上がりました。御霊によって人はいのちを得たのです。ペンテコステのときの風のような激しい響きは、イエス様を信じる人々に神のいのちをもたらすものでした。これが、ペンテコステの時の最初の超自然的な出来事です。
それは聖霊が風のような響きとして、そして神の息として、人々に臨んだのです。人間のわざによらない、神様のわざであります。
2.炎のような舌/二番目のしるしは、2:3です。ここでは、「炎のような」聖霊が下って人々に留まっておられます。このところでは炎として聖霊は現れています。(マタイ3:11)「聖霊の火」、それは、人間の罪や汚れを「焼き尽くす火」として表されています。
そのような聖霊の炎が人々に留まりました。また、聖霊の火は、旧約では、出エジプト記でモーセが出会った神さまの火があります。(出エ3:2朗読)神の火が、柴を燃やしていましたが、柴は決して燃え尽きない不思議な火でした。神様が下さった火は、決して燃え尽きなかったのです。ペンテコステのこのところでの炎のような聖霊のわざも、神様からの炎であり、『焼け尽きることのない火』であると言えます。ここに集まった人々は、決して燃え尽きない聖霊の火を受け取りました。私たちの内なる聖霊の火は種火のようになっていないでしょうか?風をもって、油を注いで聖霊の火を燃え立たせて頂きたいと思います。
3.他国の言葉で話し出した/三番目のしるしとして、「聖霊に満たされた人々」が、「他国の言葉で話し出した」というのです。(2:4)炎のような舌が留まったことで、他国の言葉を語りだしたのです。(2:7)そして、その言葉で神のみわざを語り、神をほめたたえていました。人々が自分の知らない国の言葉で突然に話し出す、あまりにも人間の常識を超えた超自然的な出来事です。聖書では、このような言葉を「異言」と呼んでいます。イエス様を信じた後に、この聖霊のバプテスマは与えられます。異言は、神様が与える言葉です。聖霊が、その舌を支配して、本人の理解できない言葉を語らせるのです。ですから、異言での祈りや賛美は、非常に大切です。肉による舌が制御されて、聖霊による炎の舌で制御して頂きましょう。
以上、ペンテコステの時に起きた聖霊による、三つの点からの超自然的な現れというものをました。神様は神にしか出来ないという、偉大かつ、超自然的なことをされます。この自然や宇宙をも支配される偉大なる神は現実に生きて私たちと共におられるのです。
<本論3:人々の驚き>
(2:12~13)聖霊が臨んで、他国の言葉で話し出した彼らを見て、周りの人々は、あまりにも不思議な症状を現します。「驚きあきれて」「驚き惑怪しんで」「驚き惑って」とあります。この驚くべき状況に思わず、お酒を飲んで酔っているんだとあざける人もいました。聖霊に満たされて、他国の言葉を語りだし、神の言葉で賛美をしているのです。
私たちが所属する、アッセンブリー教団は、「ペンテコステ派」と言われる教団です。この使徒の働き2章の出来事が今も同じように働くことを信じています。私は、最初この教会に来たとき、「異言」を伴う聖霊のバプテスマという教えに驚きましたし、奇妙に思いました。まるで、この聖書に出てくる人々のようです。しかし、超自然的に働く神様の存在というものが、非常によく分かりました。「この天地を造られた神様の素晴らしさ、驚異は、実際にあるのだ、神は生きている!」と、心からの感動を覚えました。それで、この異言を伴う聖霊のバプテスマを求めて祈るようになりました。そして、とうとうアッセンブリーの全国聖会でメッセージが語られている途中で受霊しました。その後は、異言での祈りによって、神様との交わりの時が充実してきました。感謝です。
<本論4:ペテロのメッセージ>
▲さて、「甘いぶどう酒に酔っているのだ。」という発言に反応して、ペテロが発言をします。(2:14~16)ペテロの最初の説教の語りだしです。朝の九時というと、朝の祈りのときであり、敬虔なユダヤ人は祈りの前に飲食をしないのが習慣であったといいます。ですから、お酒に酔ってはいないのだと理解できるということです。そして、ペテロはどんどんと説教へと突入していくわけですが、これは、ペテロが力強い証し人に変えられたためです。ここに、聖霊が臨むと、イエス様の証し人となることの約束が表れてきているのが分かります。(使徒1:8)聖霊のバプテスマを受けることによって、私たちも、イエス・キリストの証し人として、主の望まれるままに、イエス様の福音を伝える力を与えられます。ペテロは、聖霊が彼の上に下って燃えるような思いで預言の成就を宣言しました。彼は、もはや以前のペテロではありません。私たちも以前の自分とは違う聖霊の力によって、
<本論5:ヨエル書の預言の成就>
ペテロは、この出来事はヨエル書の成就であると語ります。(2:17~21)これは、終わりの時代についての預言です。ヨエルは、紀元前800年ごろに生きていた預言者で、この終わりの日に、イエス様が再び来られる前に、信じる人々に聖霊が注がれるという預言を語りました。
これはこのペンテコステの日に成就し、明確な終わりの時代が来ました。エルサレムでペンテコステの日から多くの人たちがイエス・キリストを信じ救われました。聖霊が臨む終わりの時代には、2:21にあるように、「主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」のです。聖霊の時代に入り、全ての信じる人々に聖霊が住まわれる時代になりました。この終わりの時代は、分け隔てない神の全ての人々への恵みの時代です。どうか、まだ、イエス様を信じていない方は、今すぐイエス様を信じて受け入れてください。万物の支配者なる神が、あなたの内に住まわれます。聖霊によって全く新しい人にされます。そして、神様との素晴らしい人生の歩みに入ってください。
<結び>
私たちは終わりの時代に生きている人間です。イエス様の再臨も意識に入れつつ、信仰生活を送る必要があります。いつ主が来られてもいいように、揺るがない信仰生活を一緒に送りたいと思います。そのためには聖霊にしっかりと導かれて、イエス様の教えの内を歩んでいきたいと思います。ペンテコステのときの出来事は、この当時の人々だけの体験ではありません。今を生きる私たちにも同じように働く神の恵みです。聖霊が臨んで多くの人々が変えられました。このペンテコステの時、皆さんで聖霊の恵みを心から感謝して、聖霊ご自身を求めていきましょう。