バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私たちは祝福を祈る者

2022-10-19 06:36:51 | 礼拝説教
2022/10/23 礼拝説教
【テーマ】  神の祝福があるように
【説教題】 「私たちは祝福を祈る者」
【聖書箇所】 民数記6:22-27
6:22 【主】はモーセにこう告げられた。
6:23 「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。
6:24 【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。
6:25 【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
6:26 【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
6:27 アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。」

○ 牧師は結婚式の司式で二人の祝福を祈ります。神が結び合わせた二人の祝福を祈れるのはやはり嬉しいことです。しかし、祝福を祈るのは牧師だけではないと思います。私たちがお互いに祝福を祈り合うのはすばらしいことだと思います。普段私たちはどれくらい人々の祝福を祈っているのでしょうか? 願いの祈りは多いかも知れませんが、もっと互いのために祝福を祈り合えるといいですね。
 
Ⅰ.優しくも厳しい神
A.優しい神
1.神は優しいお方なのでしょうか? 恐いお方なのでしょうか? イエスを見ると優しさが感じられるかと思います。辛い思いをしている人々に優しく接しておられる姿があちこちに出てきます。一方で律法学者達には厳しい面が見受けられます。
2.今日のテキストでは神がモーセに 6:23 「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。 と、祝福するように言われています。モーセが祝福すれば、神が祝福されるという、優しいお方の姿が見えます。

B.厳しい神
1.一方厳しさを感じさせるところが、この箇所から少し進んだ民数記13章~14章に出てきます。各部族の長12名に約束の地を偵察に行かせた話です。出エジプトしてまだ間の無い頃、彼らは神の数々の奇跡を体験してきました。この12名は全員同じ「約束の地」を見てきたのですが、その捉え方は2種類に分かれました。 13:30 「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」 と言ったヨシュアとカレブ、一方 13:31 「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」 と、10名は無理だと言いました。
2.そして、会衆までもが、エジプトに戻りたいと言いだしたのです。なんと不信仰な言葉、神に対して失礼な言葉でしょうか。そこで神は40年間の荒野の生活を強いられました。ヨシュアとカレブ、次世代は約束の地に入れるけれども、信じなかった前世代は荒野で死に絶えるようにされました。やはり恐ろしい神だと思われるかも知れませんね。

Ⅱ.あなたは神をどう思っているか?
A.恐いと思っていると祈れない
1.神をどのような方だと信じているかで祈り方は変わってきます。恐いと思っていると祈れなくなります。私は高校生の時、英語の先生がとても恐かったのです。いつも怒って授業するので、ピリピリしていました。赤い顔していつも怒っているので、授業中に血圧が上がって倒れてしまったことがあるのです。私は英語の授業で緊張しっぱなしで余計に英語が苦手になりました。しかし、この先生に対するイメージがある時変わるのです。それは私が熱を出して修学旅行に行けなくなった時です。この英語の先生から電話があり、「学校に来れるようだったら来い」と言うのです。先生は血圧が高くて修学旅行の引率ができなかったそうです。熱が下がって学校に行くとその先生が優しく英語を見てくださいました。「英語は苦手か?」と笑いながら聞いてくださったりして、今までにない笑顔と優しさを味わって、その日から、この先生と親しくなったのです。すると色々話ができるようになりました。
2.神も恐いと思っていると自由に話ができません。

B.神はあなたを祝福したいと思っておられる
1.イスラエル人が神を恐く感じるのは、神の言葉に従わないとあのエジプト人にされたような恐ろしい目に遭うと思ったからでしょう。しかし、反面必要なもの全てをくださった神であることも体験しています。優しい神であることを体験しているのです。
2.しかし、いくら体験したといっても神と親しくなったわけではないのです。イスラエル人は度々神に対して不信仰になっています。真に親しくなるというのは真実を尽くすことなのです。結婚すると親しくなるというか真実を尽くす関係になるのです。神との関係はそういう関係だというのです。つまり神は全力を尽くして信じる者を祝福しようとされるのです。

Ⅲ.神は私たちが祝福を祈ることを願っておられる
A.私たちは祝福を受け継ぐ者
1.神に祝福されている私たちは人々の祝福を祈るように願われています。イエスはこう言われました。 マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 と。敵さえ愛して、迫害する者のためにさえ祈れと言われるのです。
2.また、ペテロはこう言っています。 Ⅰペテ 3:9 悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。 と。神は私たちが祝福を受け継ぐ者としてくださったばかりか、祝福を祈る者にしてくださったのです。

B.イエスの名で祈って祝福する
1.もう一度今日のテキストを見ましょう。 6:24 【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。 6:25 【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 6:26 【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』 何とすばらしい言葉でしょう。神が祝福されること、守られること、神が好意的に見てくださること、恵んでくださること、平安をくださること。何とすばらしいことでしょう。これを祈るように言われています。
2.このすばらしい祝福には 6:27 アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。 という条件が付いています。それは契約でもあります。これは直訳に近い訳ですが、前の訳では 【新改訳改訂第3版】 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」 となっています。イエス・キリストの名で祈るなら神は祝福してくださるというのです。

★ 神はあなたを祝福したいのです。そして、あなたが祈る人を祝福したいのです。私たちは大いにお互いの祝福を祈り合おうではありませんか。


神はあなたに聖さを求められる

2022-10-05 08:28:15 | 礼拝説教
2022/10/9 礼拝説教
【テーマ】  聖くなるために
【説教題】 「神はあなたに聖さを求められる」
【聖書箇所】 レビ記19:1-2
19:1 【主】はモーセにこう告げられた。
19:2 「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖だからである。


○ 先週レビ記の1章を見ました。創世記、出エジプトと時間をかけて見てきて、いよいよレビ記まで来たわけですが、レビ記は先週と今日の2回で終わります。ここには、生贄についての律法、祭司の律法、汚れと聖めについて、聖い生活について書かれていますが、私たち新約時代のクリスチャンには直接的な関係が薄いです。ですから、大事な点だけ抑えたいと思います。

Ⅰ.レビ記を知るために
A.レビ記ほど神が直接語っている書はない
1.「レビ記」と訳された語は、「レビ人について、レビ人に関する」という意味です。レビ記の著者はモーセですが、もちろん真の著者は神です。モーセはイスラエルの歴史、出エジプトの歴史を知らないイスラエル人のためにモーセ五書を書いています。
2.カナンの地は神が与えた約束の地で、そこで何のために生きるかを知らせるために書きました。出エジプト記の末尾で、どこで神を礼拝するかが明らかにされ、レビ記ではどのように神を礼拝するかが語られています。レビ記ほど神が直接語っておられる書は他にありません。

B.イスラエルは祭司の王国、聖なる国民
1.レビ人とは12部族の一つであるレビ族全員のことです。レビ族のうち、アロンの一家が祭司として取り分けられました。アロンの一家以外は祭司の補助者となったのです。彼らの働きは幕屋の管理運営です。
2.イスラエルは 出エジプト19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 と言われているように、その存在自体が祭司的なのです。ということは、イスラエルは聖なる国民として生活しなければならないのです。レビ記はその聖なる生き方を教えています。

Ⅱ.レビ記の中心は
A.神と出会えない人が神に出会える方法
1.レビ記は罪に汚れた人、つまり神と遠く離れた人がどうすれば神と近しく過ごせるかを教えている書なのです。出エジプト記は最後に幕屋を造ったことが記されていて、幕屋に神がお住まいになることを教えてくださいました。レビ記はその続きで、1章~10章は、聖なる神に近づく方法を教えています。そのために生贄を献げる必要とその働きのために祭司の職が重要であることを記しています。
2.11章からは、人が外的にも内的にも聖さに至るための道を教え、どのように神を礼拝すべきかを教えています。それは 19:2 「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖だからである。 と言われたように、神が聖なる方だから、神に近づく者も聖なる者で無ければならないということです。

B.聖なる者と認めていただくために
1.その聖なる者となるのはもちろん、罪を犯さないことなのですが、人間は罪人です。罪を犯したものは償いをして、相手に赦していただくしか無いのです。それで償いとしての生贄を献げて赦しを願ったのです。
2.イエスは姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られて石打にされそうになったとき、イエスは ヨハネ8:7 「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 と言われ、人が次々その場を去って行くと、女に向かって ヨハネ8:11 「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」 と言われました。罪を犯さないようにと。

Ⅲ.レビ記と新約聖書の関係
A.イエスの血が完全な赦しの血となった
1.旧約時代は罪の代償として様々な生贄が必要でした。  レビ17:11 実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。 と、神は血による身代わりを決められたのです。自分の飼っている家畜を自分の罪の身代わりとして献げるのですから、大きな痛みです。
2.今の時代はなぜ生贄を必要としないのでしょうか。罪人という点では旧約時代の人々と変わりは無いと思います。私たちの罪も血による代償が必要だったのですが、それをイエスが完璧な生贄として献げてくださったのです。完璧ですからもう生贄はいらないし、私たちの罪は赦されたのです。

B.イエスの血によって私たちは聖いものとされた
1.ヘブル書はこう言っています。
ヘブル10:1 律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。
10:2 それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。
10:3 ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。
10:4 雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。


10:10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。
2.私たちが聖なる者とされたということは、幕屋ではなく、直に神と交われる関係に入ったということです。そういう関係に入ったから罪を犯さないというのではありません。罪を犯さないでいられる人にしていただいたので、聖い生き方を心がけることは必要なのです。

● 車の免許が取れる年齢になり、自動車学校にも通い、テストにも合格し、免許をいただいたからといって、交通違反しない人になったわけではありません。あおり運転する人、信号無視する人、駐車違反する人等々たくさんいます。資格が与えられたから常に安全運転できるわけではなくて、安全運転を意識しているからできるのです。

★ 神は私たちと親しい交わりができる道を用意してくださいました。私たちはイエス・キリストを信じるだけで罪赦され、天国が保証されるというすばらしい命をいただきましたが、罪を犯さなくなったわけではないので、聖い生き方を心がけることは大事なのです。それは神礼拝、聖書、祈り等々の基本的な生活の中にあるのです。


イエスのお陰で救われた

2022-09-27 07:56:29 | 礼拝説教
2022/10/2 礼拝説教
【テーマ】  完全な生贄
【説教題】 「イエスのお陰で救われた」
【聖書箇所】 レビ記1:1-9
1:1 【主】はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた。
1:2 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたの中でだれかが【主】にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。
1:3 そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が【主】の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、
1:4 その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。
1:5 その若い牛は【主】の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。
1:6 また、全焼のささげ物はその皮を剝ぎ、各部に切り分ける。
1:7 祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上に薪を整える。
1:8 祭司であるアロンの子らは、その切り分けた各部と、頭と脂肪を祭壇の火の上の薪の上に整える。
1:9 内臓と足は水で洗う。祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、【主】への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

○ 「レビ記」というとその内容はあまり知られていないと思います。いや、そんな名前さえ知らなかったという人も多いと思います。しかし、ユダヤ人にとっては生贄のことを教える大事な書です。現代の私たちにはほぼ意味の無いことのように思われますが、「生贄」といえば「イエス・キリスト」を思い出していただきたいのです。このレビ記から生贄の意味、イエス・キリストととの関係が見えてくるのです。
 
Ⅰ.生贄の献げ方
A.献げ方の順序
1.まず生贄の献げ方を見てみましょう。
   いけにえの奉献(新聖書講解シリーズ3 p21より)
  全焼のいけにえとしてささげられるのは、若い雄牛か、雄の子羊か雄やぎであって、雌は用いられない。奉献の順序は次の通りである。
① 奉献者は会見の天幕の入口の所に、いけにえの家畜を連れて来る。 そして、彼は、その頭に手を置く。
② 奉献者は、祭壇の北側で主の前に、そのいけにえをほふる。
③ 祭司は、その血を器に入れて、祭壇の回りに注ぎかける。
④ 奉献者は、更にその皮をはぎ、各部分に切り分ける。 内臓と足は水で洗う。
⑤ 祭司は、整えられた祭壇の上に切り分けた部分と頭と脂肪のすべてを置き、全部を焼いて煙にする。
2. すべてのいけにえ奉献について言えることであるが、注目すべきことは、奉献者自身がいけにえをほふるということである。それは本来祭司の仕事ではない。後に、祭司やレビ人の助けを受けるようになったであろうとは思われるが、基本的にはささげる人自身がほふるのである。奉献者が手を置くことによって、そのいけにえの家畜は、彼の代りとなり、ほふられるのである。「彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるため」に、手を置くのである (4)。 

B.手を置くということは
1.生贄の動物に手を置くということは、その動物がその人の罪の身代わりになることを意味しています。つまり、手を置くというのは何か物を置くというような意味合いではなく、「委ねる」ということです。
2.生贄は自分の罪のために身代わりに死んでくれる家畜を自らの手で屠るという儀式です。手を置くというのは自分の罪をその家畜に委ねるということです。

Ⅱ.儀式は形だけではいけない
A.なぜ儀式をするのか?
1.神学のように知識を要することのためにはある程度の学力、知力が必要ですが、儀式としての実際行動だと子どもでも見てわかるものです。そして、それを真似て行う事もできるからです。
2.子どもでも見てわかるのでこの儀式を心を込めて行うなら神に喜ばれるわけです。さらに実際に行う事で自分の信仰がより明確になるからです。
3.今でもキリスト教会には洗礼式と聖餐式という儀式があります。洗礼を受けなければ救われないわけではありません。むしろ救われたことを明確にし、クリスチャンとして生きることをしっかり表明するために行います。聖餐式は私たちの身代わりとなってくださったイエスを思い起こすために行います。

B.形式主義に陥ってはならない
1.儀式はあくまでも形ですから、この儀式を行う人に気持ちがこもっていなければ意味が無くなります。単なる演技になってしまうわけです。儀式さえ行えば良いという儀式主義は形式主義に陥ってしまいます。
2.それは礼拝にも言えることです。礼拝会という会に出席していれば神を礼拝したことになるかというとそうではありません。こころから神を崇めてこそ礼拝です。歌えば賛美したことになるわけでは無いし、目をつぶり、頭を下げれば祈ったことになるわけではありません。心からが大事なのです。

Ⅲ.完全な生贄
A.家族のような動物を献げる
1.生贄の動物というのは、自分の家で飼っていた家畜で、家族のようにしていた家畜です。その家畜を殺さねばなりません、それも自分の手で。どれほど辛いことでしょう。かつて見た映画に畜産家の子どもが牛の赤ちゃんが生まれてくるところから見て育ち、子牛を大事に育ててきたのですが、ある時その子牛が売られていきます。大きくして食肉にするためです。そのことを知っている男の子はその子牛が売られていく場面で泣きじゃくり、車を追いかけます。何ともせつない場面です。
2.そのように家族のような家畜を生贄にするのです。しかも、自分で殺さねばならないのです。それは自分の罪がそれほど大きなものだと自覚するときです。

B.イエスに罪を完全に委ねる
1.しかし、動物の生贄は完全な生贄ではありません。動物は人間よりも劣り、決して身代わりにはなれないのです。神が考えてくださった最高の生贄は人間ですが、それは罪の無い人間でなければなりません。しかし、そんな人間はいません。神が人とならない限り無理です。そこで、神のひとり子イエスが人間となられ、わたしたちの罪の身代わりに死んでくださったのです。そこで、完璧な生贄が成立しました。
2.このイエスに手を置いて自分自身を委ねることが「イエスを信じる」という行為です。形では無く、心から信じるということです。イエスは神ですから完全です。この方が私の身代わりとなってくださったのですからこのイエスを信じるなら完璧に救われます。

★ キリスト教は形式的な宗教ではありません。「信じる」という告白で成り立っています。そして、その告白を表明するのが「洗礼」です。それは「イエスが私の身代わりに死んでくださったので、私は天国が保証されました」という確信のもと行われるものなのです。あなたもイエスを信じて、洗礼を受けてください。

悪魔に祈りを奪われるな!

2022-09-22 06:28:54 | 礼拝説教
2022/9/25 礼拝説教
【テーマ】  聖霊に満たされて祈る
【説教題】 「悪魔に祈りを奪われるな!」
【聖書箇所】 ルカ22:39-46
22:39 それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。
22:40 いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
22:41 そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。
22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
22:43 〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕
22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
22:46 そこで、彼らに言われた。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」

○ 11日に祈祷聖会をいたしました。私たちは共に心を合わせて、「これからの教会のために祈ろう」をテーマに、次世代のために祈りました。私たちの願いであるのですが、みこころと信じて祈り合いました。
  さて、今回「祈り」について考えたいと思います。そこで、イエスが十字架を前にして祈られた有名なゲツセマネの園での祈りを見ることにします。
 
Ⅰ.イエスの祈りの姿
A.いつものように
1.イエスは祈りの時に弟子を連れて行かれましたが、まず39節からイエスの祈りを考えてみます。 いつものようにオリーブ山に行かれた のです。この祈りは義務化された祈りでしょうか? ユダヤ人は決まった時間に祈っていました。イエスもそれにあわせておられたかも知れませんが、イエスの祈りは形式的なものではありませんでした。
2.イエスは主の祈りを教えてくださったように、「天のお父様」と呼びかけて、父なる神とお話しなさっていたのです。それも、親しくです。私たちの祈りもイエスと同じく、いつも父なる神と親しくお話しする祈りであるべきでしょう。

B.私の願いではなく
1.そして、このゲツセマネの祈りの最大のポイントは 22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」 です。何が何でも自分の願いを聞いて欲しいというものではなく、みこころを求めておられます。
2.願いを祈るのは問題ありませんが、神を自分の召使いにして言うことを聞かせようというのは祈りではありません。私たちが神のみこころを知り、それを受け入れる力を得るために祈るのです。

Ⅱ.誘惑に陥らないように祈る
A.眠気との戦い
1.イエスは大変な思いで祈っておられるのですが、弟子達はどうだったでしょうか? 眠り込んでいたのです。イエスは いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。 のですが、眠っていました。祈っているときに睡魔が襲ってくるということはあります。
2.私は授業中に寝ることはまず無かったのですが、塾に通っている友だちが疲れて寝ている姿を何度も見ました。また、寝やすい先生がおられたのです。ある友だちはその先生の授業では必ず寝ているのです。しかもシャーペンだけは動いているのですごい技術です。そして彼が言うには、「寝ないようにしようと思っても寝てしまうんだ」と言っていました。そうなのです。寝る習慣が身についたのです。良いことが習慣化することはいいのですが、良くないことの方が習慣化しやすいと言います。

B.悲しみのあまり寝込んでしまった
1.弟子達は眠かったのかというと、 彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた とあるように悲しみが強いと寝てしまうことがあるのです。寝ることで悲しみを逃れ、またその間に脳を休めて心身の不調を回復させるのです。寝ることに効果があることはよく知られていることです。
2.こういう人間の寝ることの習慣や効果を知っている悪魔は寝ることを用いて祈りを中断させてしまうこともあるのです。イエスがここで 誘惑に陥らないように と言っていらっしゃるのは、悪魔の誘惑のことです。睡魔ではありません。

Ⅲ.悪魔に祈りを奪われないように
A.悪魔は弟子達にも働いた
1.この時、イエスは最後の晩餐(聖餐)を弟子達となさってから祈りに出ておられます。少し前にユダの裏切りが起こり、彼はユダヤの指導者達のところにイエスを売り渡しに行くのです。ユダについてはこう書いてあります。 ヨハネ13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。 また、 13:27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。 悪魔は働いています。
2.イエスはペテロにはこう言っておられます。 ルカ22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。 サタンが誘惑をしかけてくるのです。このあと、ペテロは大胆にも 22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 と言っているのですが、イエスを3回も否んでしまうのです。サタンの勝利ではないでしょうか。

B.聖霊に満たされて祈ろう
1.私たちは人間的にはとても悪魔に勝つことなんてできません。弟子達がこんな大事な祈りの場面で眠り込んでしまったことも否定できないことなのです。まだ聖霊を受けていないときの弟子達なのですから。
2.私たちは聖霊を受けています。では、私たちはイエスが いつものようにオリーブ山に行かれた というような祈りをしているでしょうか。イエスのようにいつも神を愛して親しく交わりを持っているでしょうか。

★ 私たちは悪魔の誘惑に陥らないで祈ろうではありませんか。眠らないということではありません。聖霊に満たされて、心から神を愛して、親しく神とお話をする、そして願いを聞いてもらうだけの祈りでは無く、みこころを求めて祈らせていただこうではありませんか。


モーセの如く

2022-09-15 07:25:47 | 礼拝説教
2022/9/18 礼拝説教
【テーマ】  主が共にいる人生
【説教題】 「モーセの如く」
【聖書箇所】 出エジプト記40章
40:17 第二年の第一の月、その月の一日に幕屋は設営された。

40:34 そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。
40:36 イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。
40:38 旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。


○ 今日はシルバー祝福式を行います。
 人生で真に祝福された人というのは神が共におられる人です。

  出エジプト記を今日で終わります。8月28日の礼拝で、神が幕屋を造るように指示されてその構造等をお語りしました。なぜ「幕屋」を造るようにされたのかというと、神がイスラエル人と共にいるためです。この地上は汚れていて、神の住むことのできる聖い場所はないので、その聖い場所を造られたのです。神は最初この地を人の住まうところとして造られました。今度は神の住まいを罪深い人に造らせたのはおもしろいことだと思います。

Ⅰ.神の栄光に満ちる人生がある
A.雲と栄光
1.幕屋が完成し、モーセは大祭司としての働きをしました。すると、 40:34 そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。 と、「雲」が幕屋を覆ったそうです。ここに出てくる「雲」はどのような雲なのでしょうか? それは神の栄光の雲です。
2.なぜこんなにまですごい臨在があったのでしょうか? それは神の言われるとおりに幕屋を造ったからです。罪人であっても神のことば通りに実行すると神はその栄光を表してくださるのです。私たちの人生も神の言葉に従っていくなら、神の栄光現れる、神の臨在豊かな人生を送ることができるのです。
3.教会を雲が覆い、誰もその中に入れなかったなんてことがあるとすごいですね。また、夜には火の柱が立ち上るということが。それだと消防車が来るでしょうね。しかし、神の臨在に満ちたということは私たちの教会にも多々あると思います。もちろん、毎週の礼拝がそうであることが望ましいです。

B.動くも留まるも神次第
1. 40:36 イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。 とあるように、彼らは神の導きに従いました。神が動かれるとみんな動くのです。雲が上る時には「約束の地に行くのではないか」と期待したことでしょう。しかし、40年間も荒野をさ迷うのです。神の導きだからといってスムーズに進むわけではないのです。
2.また、 40:37 雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。 とあるように、人生は前進ばかりでは無く、その場に足踏みさせられる、留まることが多々あるのです。人によってはそれは病気で思うように前進できなくなったというようなことです。年配者にとっては若いときのように動けなくなるということです。
3.しかし、留まるということは「信仰に留まる」というとても大事な「留まり」があります。この「信仰に留まる」ことこそ人生で最も大事なことではないでしょうか。皆さん、信仰に留まり続けてください。

Ⅱ.モーセのように主に謙遜に生きる
A.自信を失っている者が用いられる
1.モーセは何才で神に従いましたか? 80才ですよ。彼は神に召された時、「私にはできません」と拒否しました。しかし、あまりにも強く神が「行け」と言われるので彼は折れたのです。それほどにまで神の臨在があったということです。そして遂に神を信じてエジプトに行きました。
2.彼はまさか自分がイスラエル人を救う働きをするとは考えてもみませんでした。何しろ80才にもなっているのです。しかも上手く話ができる人ではなかったのです。そして出エジプト後、40年間荒野での生活が続きましたが、その時も120才まで彼はリーダーとして働くのです。
3.モーセは「まさか自分が?」と思ったのです。モーセは謙遜でした。神の導きというのは私たちが自信に満ちているときでは無さそうです。年をとって「もう何の働きもできない」と言うクリスチャンがおられますが、そういう自信が無くなっているときに神は良き働きをさせてくださるのです。年配者の方が礼拝に出席するだけで雰囲気が良くなります。その存在がすでに良き働きなんですね。

B.強固な教会には突っ走る者と留まる者がいる
1.年配者の皆さん、この地上に生かされているのはモーセと同じです。もちろん働きはモーセと違いますので、エジプトへ行くのではありません。杖は持つかも知れませんが(笑)、人々を救いに導くという働きは同じです。人を救いに導くのに年を取りすぎたということは無いようです。
2.比較的若い人は突っ走る傾向にあります。そして、人生経験が少なく、信仰経験も少ないですから、正しい判断ができなくて失敗してしまうことも多いものです。一方、年配者は今までの人生経験から留まるべき時には留まります。信仰は「進行」と思われがちですが、動かない事も大事なのです。それは神が「留まれ」と言われるときです。
3.突っ走ることのできない年配者が突っ走る若いクリスチャンのためにしっかりと腰を落ち着けて祈るならなんと強固な教会ができることでしょう。

★ 年配者には年配者にしかできない働きを神は用意されています。モーセの如く神に従いましょう。教会は皆さんを必要としています。

十戒の石の板が砕かれる

2022-08-31 09:51:31 | 礼拝説教
2022/9/4 礼拝説教
【テーマ】  罪の重さととりなしの祈り
【説教題】 「十戒の石の板が砕かれる」
【聖書箇所】 出エジプト記32章
32:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
32:2 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」
32:3 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」

32:7 【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。

32:31 そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」

○ 十戒に「偶像を造ってはならない」とありますが、私たちのまわりにもどれくらい偶像はあるのでしょうか。皆さんは偶像を造ったことはありませんか? 神以上に大事にするのものは偶像となります。
 
Ⅰ.不安が偶像を造る
A.指導者がいない不安
1.モーセが神に呼び出されて長い日数が過ぎました。イスラエルの民はモーセは死んでしまったのではないかと大変不安になりました。指導者がいないとこれからどうしてよいのか検討がつきません。彼らはエジプトで生まれ育ち、こんな荒野の生活には慣れていません。もうエジプトには戻れないと思うもののどうしてよいかわからないという不安です。まるでイエスが十字架に架けられた後の弟子達のようです。
2.イスラエルの民の不安は自分たちを導く神を求めることになりました。しかし、それは目に見えない唯一まことの神ではなく、見える偶像、しかもエジプトで見てきた子牛像でした。うやうやしく造るために金の像にしました。キンキラにすると御利益があるように見えるのでしょうね。

B.人が偶像を造りたくなる
1.私たちの周りにある偶像もうやうやしく造られているものです。また立派に造られています。人々の心が惹きつけられるように造られています。人は不安になると何かに頼りたくなるのでは無いでしょうか? お守りがたくさん買われていくのもそういうところにあるのです。宗教もその一つに挙げられます。
2.人が不安になるのはある面で仕方のないことです。人は完全ではないし、一人では生きていけないという存在です。誰か自分よりも力のあるものに頼りたいという思いがあるものです。それは否定できませんが、どういうわけか偶像を造ってしまうのですね。

Ⅱ.偶像に頼る堕落
A.恵まれた状況から一変して
1.40日間も神と共に過ごすというすばらしい場所にいたモーセでした。そして神みずから十戒の石の板をいただくというすごい場面ではないでしょうか。そんな恵まれた状況にいたモーセに神が言われたのは民の堕落でした。信じられない思い、なんとショックだったことでしょう。
2.信じられない思いで戻ったモーセが見たのは金の子牛の像が祀られているところでした。モーセはあの神と過ごした何とも言えない聖い40日間が一瞬にして消えていく思いだったでしょう。

B.十戒の板が砕かれた
1.モーセは民のこの堕落ぶりに腹が立ち、怒りが込み上げました。そして、せっかく神がこの民のためにくださったすばらしい十戒を民は無にしてしまったことに神に対して申し訳ない思いと、民に対する怒りで、この十戒をいただく資格そのものがないと思い、十戒の石の板を投げつけて砕いてしまうのです。
2.このイスラエルの民は神に大きな罪を犯し、モーセは神から見放されてしまったと感じたのではないでしょうか。

Ⅲ.モーセのとりなし
A.神の元へ行く
1.怒ったモーセですが、「もうやってられない」と彼らのところから逃げたのではなく、彼は神のところへと行くのです。大問題があっても逃げるのではなく、神の元へ行くべきなのです。民は偶像に向かいましたが、モーセは神に向かったのです。
2.そしてとりなしをします。その箇所をもう一度読んでみましょう。 「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」 と、神の赦しが得られないのなら、自分の名前を消してくださいというのです。これこそがとりなしです。

B.私の命に代えて
1.私たちは「とりなしの祈りをしましょう」と気楽に言いやすいですが、自分の命と引き換えにしてくださいというほどの祈りなのでしょう。
2.イエスの十字架のわざこそがとりなしなのです。ゲツセマネでイエスは祈られました。十字架を無しにして欲しいと。しかし、神のみこころを受け入れると。そして十字架上でイエスは ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 と、このとりなしの故に私たちは赦されたのです。
3.十戒の石の板はモーセの怒りと神への申し訳なさで砕かれましたが、イエスの体は私たちの罪の身代わりとして砕かれました。それによって私たちに救いが与えられたのです。

● 私たちはとりなしの祈りをさせていただきますが、その祈りさえ私たちの力ではありませんね。イエスが身代わりになってくださったという実績の元私たちのような者の祈りを聞いてくださり。誰かのためにとりなすことにおいても聖霊はその祈りに力をくださるのです。

★ 十戒はモーセが持っていった石の板に改めて神が書き込んでくださいました。それがなくては神とイスラエルの関係はなくなるのです。私たちには砕かれたイエス、しかし、復活されたイエスがおられるので、完全な救いをいただいています。感謝し、私たちもとりなしていこうではありませんか。



神の住まいを造る

2022-08-25 07:46:19 | 礼拝説教
2022/8/28 礼拝説教
【テーマ】  幕屋・神の臨在あるところ
【説教題】 「神の住まいを造る」
【聖書箇所】 出エジプト25:1-9
25:1 【主】はモーセに告げられた。
25:2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
25:3 彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、
25:4 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、
25:5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
25:6 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、
25:7 エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。
25:8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
25:9 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。

○ 荒野を旅するイスラエル人と神は共におられました。神は彼らの生活が神のみこころに沿うように戒めや諸規定を与えました。さらに、神の住まいを造るように命じられたのが「幕屋」です。一体「幕屋」とは何か? 見ていきましょう。
 
Ⅰ.幕屋は神の仮住まい
A.天国の出張所
1.幕屋と書かれているのはヘブル語で「ミシュカーン」と言い、「住まい(「人が住む家」とは違い、「仮住まい」とか現代では「会館」という意味を持つ)」という意味です。幕屋は移動型の神の聖所です。ソロモンの時代にはイスラエル人は定着したので、幕屋ではなく「神殿」が建設されました。神殿は幕屋に比べるとはるかに立派でしたが、それでも仮住まいなのです。
2.幕屋は ヘブル8:5この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。 と言われているように、天にあるものの「写し」「影」です。決してここが本当の神の住まいではないということです。この地上における神の出張所のようなもので、ここにはモーセが入り、神と会見したので、「会見の幕屋」とも呼ばれます。

B.最高の材料で作られた
1.幕屋も神殿もこの地上における神の住まいで、この地上においてはここだけが神の住まわれる場所でした。仮住まいですが、神の住まいとして当時の最高のものを使って作られました。人々は神様の住まいとして最高の材料を集めて、それも自ら進んで材料を持って来ました。
2.そして幕屋は聖所、人々の罪の生贄を捧げる場でもあるので、その奉仕をする祭司やレビ人の働きや着る服も決められました。こうして幕屋でどの様にするのが神への礼拝であるかを示して行かれました。

Ⅱ.神と人とは隔てられている
A.誰もが入ることのできない幕屋
1.幕屋はその内部が二つに仕切られており、手前の祭司達が入って働きをする「聖所」と、決められた大祭司しか入ることのできない「至聖所」があります。聖所には12部族を表す12個のパンが供えられ、七枝の燭台(メノラー)、香の檀があります。至聖所には契約の箱(十戒の石の板が入った箱)が置かれています。
2.この聖所に入れるのが特別な人たちで、誰もが入ることはできませんでした。神と人とは隔てられているのです。特に皆さんもよくご存知の話、イエスが十字架で亡くなられたとき神殿の幕が上から真っ二つに裂けた話 マルコ15:37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。15:38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 と。この時初めて神と誰もが神に近づけるようになったのです。それまで幕屋に神の臨在があっても、人々は近づけなかったのです。

B.幕屋の外側では・・・
1.幕屋の外側は庭のようになっており、さらに塀で仕切られて一般民衆は生贄を携えてでしかこの中に立ち入ることができません。この幕屋を中心に12部族が天幕を張って生活します。幕屋は神の臨在があるので、雲の柱が立ち上っています。移動するときはこの幕屋をたたんで持ち運ぶのです。
2.一箇所だけ東側に入り口があり、罪の赦しを願って生贄の動物を携えてこの門から入らねばなりません。 ヨハネ10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。 を、あらわす門です。そして、祭司は洗盤で手足を洗いきよめ、祭壇に生贄を捧げるのです。
3.このように神はご自身がいかに人間とは違って聖いお方であるかを示し、罪汚れを持ったままでは神に近づくことはできないことを示されました。

Ⅲ.現代の我々と幕屋(神殿)
A.我々が神の幕屋(神殿)
1.幕屋は神の仮住まいと言いましたが、本当の住まいはどこでしょうか? 神が私たちにも幕屋の規定のように会堂を造るように命じられたら、世界中の教会は個性のない、みんな同じ教会堂になったことでしょう。
2.現在の会堂は集まるための場所に過ぎませんから、この地上における神の住まいはクリスチャンの霊です。イエスは助け主・聖霊を遣わすと言ってくださり、ペンテコステの日からイエスを信じる人々の中に聖霊が住んでくださるようになりました。私達が幕屋であり、神殿です。

B.万人祭司
1.幕屋ではモーセだけが神と親しくお話をしていたのですが、幕屋も神殿も要らなくなったので、祭司も要らなくなりました。神と親しくお話しするのは私たちみんなです。それで「万人祭司」と言われます。
2.イエスの十字架の時に神殿の幕が上から裂かれたのは、大祭司無しに直接神とお話しできる関係に入れられたということなのです。クリスチャンはみんなイエス・キリストを通して大胆に神の御前に出ることができるのです。
3.そして、私たちのすべき事は何かというと儀式としての生贄などの礼拝ではなく、霊的な礼拝です。私たち自身を献げ、賛美と祈りをもって神を崇め、御言葉のパンをいただき、神のみこころを行わせていただくことです。

★ イスラエル人は神に命じられたとおりに幕屋を造りました。そのために最高の材料で造り、主を迎えました。今は私たちの体こそが神の住まいです。神が私たちの内に住まわれるとは何とすばらしいことでしょう。最高の礼拝を捧げようではありませんか。


そのうえで、わたしに従って来なさい

2022-08-11 07:30:04 | 礼拝説教
2022/8/14 礼拝説教
【テーマ】  十戒と福音
【説教題】 「そのうえで、わたしに従って来なさい」
【聖書箇所】 マタイ19:16-26
19:16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
19:18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
19:20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
19:21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
19:22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
19:23 そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。
19:24 もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
19:25 弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

○ 先週、十戒をイエスがどのように捉えておられたかを見て、イエスを私達の心に迎えることで私達を神の子としてくださることを知りました。それはイエスにしか十戒は守れなかったのであり、私達は罪人であることを教えられるものでした。しかし、今日登場する青年は十戒を守っていると言うのです。果たしてそうなのでしょうか?
 
Ⅰ.どんな良いことをすればよいのか?
A.これからを悩む人々
1.一人の真面目なユダヤ人青年がイエスの所にやってきました。彼はユダヤ人が決めた律法を必死で守ってきた真面目な青年だと思います。しかし、そういう彼の悩みは 「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」 という悩みでした。こういうことは現代でも同じです。
2.ニコデモというユダヤ人指導者が悩んでイエスの所にやってきた話がヨハネの福音書3章に出てきますが、彼は晩年になってこれから自分の行くところに不安が生じ悩んでいました。年齢に関係なく、真面目に悩む人は多くいるのです。また、真面目な人ほど悩むのかも知れません。

B.何が欠けているのか?
1.イエスは青年の質問に何と答えられたでしょうか? 19:17 ・・・いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい でした。戒めとは 「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」 で、要は「十戒を守れ」でした。ということはやはり神の国に入るためには十戒を守ることなのでしょうか。
2.この青年はすごいことに、これらのことは全部守ってきたと言っています。彼は良い事をしてきたというのです。(皆さんも結構十戒を守っておられるのでは無いですか。)だったら平安でいられるはずなのに彼は悩んでいます。 「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」 と、律法を守っているにもかかわらず平安がないから何か欠けていると思っているのです。

Ⅱ.イエスに従っていくこと
A.財産を売り払って・・・?
1.この青年の悩みに対するイエスの答は 19:21 「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」 でした。ただ、イエスに従って来い」だけではなく、 あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与え てが付いています。このイエスの答えに 19:22青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。 と、イエスに真面目に相談したらますます悩むことになってしまいました。なぜかというと 多くの財産を持っていたからである。 と、彼はイエスに従うことよりもお金が大事だったからです。(イエスのこの言葉は正しく理解しないとカルト宗教になります。)
2.イエスはこの青年に わたしに従って来なさい。 と言われましたが、果たしてこの青年はイエスに従うつもりで質問しに来たのでしょうか? 「あなたはそれだけ律法を守っているので立派です。あなたはいのちに入れます」とでも言ってもらうことで平安を持とうとしていたのでしょうか?

B.イエス・キリストより大事なものはあるか?!
1.いのちに入るにはイエスに従って行くことが必要なのです。そのためにはイエスよりも大事にしているものは捨てなければなりません。お金や物を持っていない人は私は大丈夫と思っているかも知れませんが、案外「自分自身」が捨てられないのです。自分が偶像化している人がいるのです。
2.福音とは何でしょうか? 色々な言い方ができるかもしれませんが、[GOOD NEWS]「良き知らせ」ですから、世界最大の良き知らせは何と言っても「イエスを信じる者は皆救われる」ということではないでしょうか。

Ⅲ.従うのは難しいのか?
A.初代教会の信徒に倣う
1.この青年のようにクリスチャンになったのに「何か欠けている」と感じるクリスチャンが多いのです。それは、イエスに従っていないからです。福音が真の福音になるのは、私達とイエスが一体化してこそなのです。
2.じゃ、具体的に「従う」とは何か? イエスの弟子達、特に使徒行伝を見ればいいですね。彼らは何をしていますか? 真っ先に礼拝です。祈りです。互いに助け合い、励まし合っています。伝道、奉仕。そうです。今だって教会がやっていることではないでしょうか。ただ、この青年は何かをすることで救われると思っていたのです。

B.神にはどんなことでもできる
1.弟子達も財産を売り払って貧しい人に与えたか考えたことでしょう。たぶんできていないのです。だから 「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 と聞きます。大事なイエスの答は 19:26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」 でした。救いは神のなさることです。私達の努力ではないのです。しかし、ある種の努力は有効です。それは「捨てる」ということです。
2.私達は神のために生きるのに邪魔なものを抱えこんでいないでしょうか? あの青年はお金を抱え込んでいました。それを捨てたくなかったのです。私達はどうでしょうか? 何を捨てるべきでしょうか?

★ どうもスッキリした信仰生活をしていないと言う人の背景にはイエスに従っていないことがあります。イエスに従えば苦難もありますし、大変なこともありますが、充実するのです。イエスを信じればあなたは救われているのです。 そのうえで、わたしに従って来なさい。 と言われるイエスの言葉にあなたはどのように応答しますか?

イエスだけが守れた十戒

2022-08-04 07:27:48 | 礼拝説教
2022/8/7 礼拝説教
【テーマ】  十戒と福音
【説教題】 「イエスだけが守れた十戒」
【聖書箇所】 マタイ22:37-40
22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

○ 出エジプト記を説教して、ここしばらく十戒を語ってきましたが、遂に十戒を語り終えました。イエスの時代にはこの十戒を元に律法学者達によってどんどん決まりを作っていました。それは事細かな決まりで結局ユダヤ人自身を苦しめるようなものでした。では、イエスは十戒をどう捉えておられたでしょうか? 今日は出エジプト記を離れて新約聖書・マタイの福音書から見てみます。
 
Ⅰ.十戒は神の民の生き方を示す
A.十戒の復習
1.まず、十戒を簡単に復習してみましょう。
1.あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
2.あなたは自分のために偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
3.あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。
4.安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
5.あなたの父と母を敬え。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
 10.あなたの隣人の家を欲してはならない。
2.十戒の前半4つが神と人との関係の戒めで、神認識を正しくするための戒めです。後半の6つが人と人との関係を正すものであり、社会を良きものとするための戒めです。ですから、これを守らないことが罪だと教えています。

B.律法(トーラー)
1.聖書の最初5巻はモーセの書で「モーセ五書」また、「律法」と呼ばれています。この中には613の規定があります。それをまとめたものが十戒と言ってよいかと思います。これらの規定は神様の求める基準です。
2.イスラエル人は長年エジプトで奴隷生活をしていたため、神との関係も崩れており「神の民」として選ばれたアイデンティティも無くなっていましたので、再教育する必要がありました。そこで、神の基準を教えておられるのです。

Ⅱ.十戒によって罪を認識させる
A.十戒を守れる人はいない
1.十戒を中心に律法を守ることで神の基準に達するのですが、残念ながら誰一人としてその基準には達せませんでした。つまり十戒は私達が罪人であることを教えるものでもあるのです。 ローマ 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 と、あります。
2.人々は十戒によって「罪人」であることを認識させられ、救い主の必要を覚えさせられるのです。それは ガラテヤ3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 と、パウロが言うとおりなのです。十戒では救われないのです。むしろ、救いが必要だと知らされるのです。

B.十戒を守れたのはイエスだけ
1.十戒という神の基準を人間は誰一人守れないというのは、結局人間がもともと「罪人」だからです。しかし、イエスはもともと「神」ですので、「罪のない人」として誕生し、「罪のない人」として生活されました。
2.イエスは ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。 とあるように罪のない人です。イエスは十戒を完璧に実行されました。完璧というのはただ表面上守ったというのではなく、みこころを行ったということです。

Ⅲ.福音は十戒を全うする
A.十戒の中心は愛
1.この十戒の中心は何でしょうか? イエスが語っておられます。それが今日のテキストです。 22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』22:38 これが、重要な第一の戒めです。22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」 十戒の中心は、神を愛することと、人を愛することです。
2.パウロも ガラテヤ5:14 律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 と言っています。つまり、律法を守るというのは愛の人になることなのです。イエス・キリストに似た人となることなのです。

B.十戒の中にある福音
1.この十戒を御心のままに実行されたのがイエスだと言いましたが、だからこそイエスを心に迎えることで私達は律法抜きに「神の子」としていただけたのです。 マタイ5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 
2.イエスを心に迎えるというのは、神の子として生まれたので、イエスのように成長することを願っているということです。イエス無しで私達の願いだけではイエスのように成長しません。しかし、私達の心の中心にイエスが来てくださることで私たちは変えられるのです。ここに福音があります。

★ 神は十戒を通して私達に苦しい戒めを課したのではありません。神に信頼することを教えておられます。つまり、イエス・キリストを信頼すれば良いのです。このお方に信頼してしがみつけばいいのです。イエス・キリストはあなたといつも共にいてくださいます。それが福音です。

全てに感謝しよう

2022-07-28 08:42:48 | 礼拝説教
2022/7/31 礼拝説教
【テーマ】  第十戒 むさぼるな
【説教題】 「全てに感謝しよう」
【聖書箇所】 出エジプト記20:17
20:17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

○ 7月も今日で終わりますね。このコロナの間に色々なことが変化してしまいました。オンライン礼拝に長けた教会もあれば、そういう機器を使いこなせなくて、礼拝そのものを休むしか無かった教会。借家であったがために家賃が支払えず会堂がなくなってしまった教会もあります。牧師も辞めてしまって行き場を失った信徒もいます。そんな中、しっかり会堂もあり、オンライン礼拝もバッチリという教会を見て「あの教会はいいなあ」と羨む牧師や信徒がたくさんいたのではないでしょうか。今日の御言葉はそういうことも考えさせられるかと思います。
 
Ⅰ.欲しがる心理
A.隣の芝生は青い
1.よく言われることわざに「隣の芝生は青い」というのがありますが、何かしら隣の家は良く見えるのです。そうならない人は幸せです。今日の御言葉、十戒の第10番目をもう一度見てください。 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。 と、どうも隣の家は全部よく見えてしまうみたいです。
2.なぜ、 隣人の妻 だけで「隣人の夫」が無いのでしょうか? それは十戒がイスラエルの成人男子に語られた言葉だからなのです。当時は女・子どもが数えられない社会でした。ですから、妻も所有物として挙げられているのです。今の日本とは違うので、同じように考えるわけにはいかないことに気をつけて読まねばなりません。

B.他人のものを妬む心理
1.人は自分と他人、また自分のものと他人のものを比較しやすいものです。ケーキを均等に切ってお皿に載せても自分のケーキはなんとなく隣の人のケーキより小さく見えてしまうものなのです。親は、我が子とよその子をすぐ見比べてしまうものです。そして「どうしてうちの子は・・・」と言うのです。私も小学生の時はよく母親に言われました。「あんたも〇〇君のように手を上げて答えなさいよ!」と。だから参観日は嫌いでした。また、子どもは友達のもっているゲーム機やスマホを見て欲しくなります。そして「みんな持ってる」と言ってねだり、「○○君の家はいいなあ。買ってもらえるもん」と言うのです。
2.教会の場合もあるかも知れません。「教会に来たのに癒されない。問題が解決しない。△△宗教だと癒しがあるらしい。◇◇教では不登校の子どもが治ったという」などと比較して他の宗教に目が行く人もいます。

Ⅱ.むさぼりやすい人間
A.偶像礼拝にまで繋がるむさぼり
1.イスラエル人はあの紅海を割ってその海底にできた道を歩かせていただき、エジプトの軍隊が海の中に滅んだ時は主なる神をほめたたえたのですが、食べ物、水に困ると文句を言い、挙げ句の果ては「エジプトが良かった」と言い出しました。そして、エジプトで見てきた偶像「金の子牛象」を造ったのです。神さえも隣人のものがよく見えたということです。
2. コロサイ3:5 ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。 とあるように貪欲は偶像礼拝なのです。欲が増していくと当然「欲しい、欲しい」となり、お金が一番大事なものとなり、お金のためなら何でもするということになり、お金が偶像になるのです。貪欲は偶像礼拝です。

B.自分の思いを優先させるのがむさぼり
1.アダムとエバはなぜあの禁断の木の実を食べたのでしょうか?食べるには事欠かないように十分木の実はありました。しかし、あの「善悪を知る知識の木」から食べたのはサタンにそそのかされたからですが、それは神と同じようになりたいと思ったからです。天使が悪魔と化したときと同じ、神への妬みなのです。だからここに滅びに至る罪を見出すのです。
2.ユダはなぜイエスを銀貨30枚で売り飛ばしたのでしょうか? 最初はイエスこそイスラエルの王になる方で、自分はその王国の大臣になるとでも思っていたのでしょう。しかし、ユダの思っているようにイエスが活動されないと、「こんな人に用は無い」と、奴隷の値段で売り飛ばしました。彼もお金に目が行った人です。自分の思い、お金が偶像化してむさぼりの罪となっています。

Ⅲ.では、どう生きるべきか
A.欲しがってはならない
1.欲しいと思うだけなら問題無いと思う人もいらっしゃるでしょう。しかし、十戒は 欲してはならない と言っています。隣人の持ち物、生活が良くて、「隣はいいなあ」と思うだけなら、実害は無いのではないでしょうか? しかし、その思いが高じて実力行使に出てしまったら大変なことになります。盗みになり、姦淫になってしまうのです。もっとその気持ちが高じると殺人にもなりかねません。第六~八戒に抵触してしまいます。
2.この戒めは 欲してはならない ですから、実力行使に出なくても思うだけでも問題だということがわかります。それは前にも語りましたイエスの言葉 マタイ5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。 が、教えているとおりです。

B.神の恵みを思い、感謝する
1.では、欲しいという気持ちを無くすように修業を積むべきなのでしょうか? パウロは ピリピ4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。 と言っています。これは修業の成果でしょうか?
2.またパウロはテモテにこう書き送っています。 Ⅰテモテ 6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。 また、ヘブル書にはこうもあります。 ヘブル13:5 金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。 と。
3.神に信頼する、神に感謝する、神の恵みを覚える生き方こそが大事なのではないでしょうか。私たちの目を人から、ものから、お金から神に向けるべきなのです。

★ 何を第一にするかで人生は変わります。世のもの、世の人を見て比較し、世の良きもの、お金に目が行っているとそれらが偶像となり、それに仕えることになります。神が与えてくださったもの全てに感謝する生活を始めませんか。イエスだけを見上げませんか。イエス・キリスト以外に神はあってはならないのですから。