初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

映画「七つの顔」

2015年11月20日 17時56分18秒 | Weblog


もう少し映画の話を…

戦後、復活した映画は

娯楽の王者だったらしく

つくる映画は必ず大入りだったようでした

… … …

たまに、赤字と云われた映画は

会社の皮算用に対して減収を

云われていたようでした



浜松市内に、封切りの映画館が

たくさん、できました。

市内の丁度、真ん中あたりに

松竹と大映の直営館が二軒並んで

ありました



松竹映画の富士山のマークも好きでしたが

どんな映画を見たのか覚えていません

大映映画「七つの顔」は面白い作品でした

主演は片岡千恵蔵(かたおか・ちえぞう)で

役柄は私立探偵、多羅尾伴内(たらお・ばんない)で

事件現場に七変化の変装で現れて、事件を解決する

最後の場面で、それぞれの扮装をバラして

「七つの顔の男じゃよ。ある時は競馬師、ある時は画家、

またある時は片目の運転手、ある時はインドの魔術師…」

の名台詞で劇中人物を驚かします

… … …

しかし、見ている観客には丸わかりの変装も、劇中人物には

全然わからないという、設定でした



当時、GHQから命令で刀を使った

チャンバラ映画が作れなかったので

時代劇スターの片岡千恵蔵にピストルを持たせて現代劇を

制作したのでした

… … …

出演女優は轟夕起子(とどろき・ゆきこ)、

喜多川千鶴(きたがわ・ちづる)

それに月形龍之介(つきがた・りゅうのすけ)など

このシリーズは数本作られました



「元軍国少年」の私は、これから「映画少年」に

染まっていきます。どうして私が次々に

映画が見られたのか、次にお話しします








映画「誰か夢なき」

2015年11月19日 18時03分00秒 | Weblog


浜松に映画館が次々に出来ました

東宝、松竹、大映などの直営館や

実演のできる広い舞台と

映画のスクリーンのある

大きな東洋劇場もできました



東宝撮影所から分裂した

新東宝撮影所の

「誰か夢なき」を浜松の直営館で

見ました

… … …

俳優さんは、藤田進(ふじたすすむ)

黒川弥太郎(くろかわやたろう)

野上千鶴子(のがみちずこ)でした

… … …

藤田進は「ハワイ・マレー沖海戦」や

「加藤隼戦闘隊」の戦意高揚映画や

黒澤明の「姿三四郎」で小学生だったころから

私にも馴染みの俳優さんでした



新東宝映画は、はじめの

大きな鐘がガランガランと鳴なる

プロダクション・マークが好きでした



映画「誰か夢なき」は渡辺邦男監督で

劇中、主題歌が流れるメロドラマでした

この主題歌はなんとなく

覚えてしまいました



戦後、日本は少しずつ復興するのですが

たまに停電がありました。

映画館でも上映中に突然、停電がありました

スクリーンは真っ暗、館内も真っ暗になりました

観客は何時ものことなので、ため息をつくだけで

別に騒ぎもせずに静かに待っています。

しばらくすると

突然、上映の続きが始まります

私は

「どうぞ、停電しないように」と

祈りながら、いつも映画館に入っていきました。







ベストセラー「リーダーズダイジェスト」

2015年11月18日 18時55分54秒 | Weblog


浜松市内の復興もめざましく

街中にいろんな店が建ち始めました

戦後の娯楽の第一番は映画でしょう

洋画・邦画の映画館が建ちました

… … …

プロ野球も盛んだったのでしょうが

浜松には球場がありません



本屋もあちこちにオープンしました

アメリカからやってきた

雑誌、リーダーズダイジェスト(邦訳)が

ベストセラーでした。

毎月の発売日には朝早くから

本屋に行列が出来ると聞きました



私は、中学生でしたから

別に読みたいとは思いませんが、好奇心から

どんな装丁の雑誌か一目、見たいと

思っていました。



ハリウッドの映画女優の話題を載せた

トルーストーリーという雑誌もありました

私は、挿絵と図解の多い、ポピュラーサイエンスを時々、

読みました。「フォード」が流体クラッチの

新車を発表するという記事を覚えています

… … …

今は、ほとんど無いでしょうが、

貸本屋が出来ました

いまのレンタル・ビデオ店を

小さくしたような店でした





エンゼル・インクと万年筆

2015年11月17日 17時50分48秒 | Weblog


国鉄・浜松駅前には唯一、松菱デパートの

ビルが残っていました

その松菱デパートのまわりは繁華街で

北の方に広い道路があります

田町(たまち)と呼ばれて道の両側に

神社の縁日の夜店のようにテントの

店がずらりと並んでいました

… … …

その中に文房具を扱っているテントがありました

いろんな色の万年筆が並んでいました

私の目にとまったのは、戦後、輸入され始めた

パーカーの万年筆です

… … …

私が手に取ったのは、パーカーもどきの国産?

の廉価なほうです



万年筆はエボナイト製です。

当時、まだプラスチック製はありません

流線型の本体の先にチョコッと

ペン先がのぞいているスタイルが

格好良かったので買いました



同時にインクも必要です

青色のエンゼル・インクを買いました

レッテルにEngelと印刷されていました

しばらく、気が付かなかったのですが

辞書でエンゼルを引くと

Angelとなっていました



教室で黒板をノートするのは

不思議な青色のエンゼル・インクと

新しいパーカーもどきの

万年筆でした






父親に腕時計を買ってもらう

2015年11月16日 18時49分18秒 | Weblog


私の中学生、生活が始まり

家族の生活も落ち着いてきました

父親も何時までものんびりできず

仕事を探しに東京へ京都へ出掛けました



久しぶりに父親の仕事が始まりました

映画「縁は異なもの」、吉本プロ

監督は石田民三(いしだたみぞう)さんです

もう1本「こころ月の如く」で監督は

稲垣浩(いながきひろし) さんです



この映画は東横映画(とうよこ)の

第1回作品でした。その後、東横映画は

東映映画と社名を変えます

… … …

出演は上原 謙(うえはらけん)、

轟夕起子(とどろきゆきこ)

宮城千賀子(みやぎちかこ)です

轟夕起子、宮城千賀子とも宝塚出身です

上原謙は加山雄三の父親

… … …

映画は、現代劇で時代劇畑の父親には

初めてだったのではないでしょうか



久しぶりに帰ってきた父親は

私に腕時計を買ってくれました

中学生になったお祝いは腕時計と

万年筆が定番だったようです

万年筆はその後、小遣いで

買うことになります

… … …

ボールペンはまだ、世の中に

現れていません






農繁期休校

2015年11月15日 20時41分04秒 | Weblog


中学校の教室で

机と椅子に座って

授業を受けるのは初めてです

… … …

担任の先生が私の事情を

話してくれていたのでしょうか

皆は温かく私を迎えてくれました

… … …

高台の校庭からは遠く海が見えます

遠州灘(えんしゅうなだ)かも知れません

また、高台の下には国鉄・浜松工場があって

時々、蒸気機関車の試運転のシューッ・ガチャンとか

ポーッ・と汽笛が聞こえていました

その横に、小学校の校舎とグランドが見えました

国鉄・東海道本線も遠くに見えました



私は毎日、昼食のアルミ(アルマイト)の

弁当箱を持って通学が始まりました

サツマイモを細かく切った混ぜご飯でした

そのご飯の入った弁当箱は

二倍くらい大きなものでした

兎に角、お腹の空いた毎日でした

… … …

農家から通学している子が

教室の三分の二ぐらいでしたか

その子らの弁当は銀シャリでした。



当時の浜松の全中学校の生徒は

農家が多かったのでしょうか

春の田植えと、秋の収穫期になると

学校が休みになるのでした

農繁期(のうはんき)休校が

設けられていました



日本の農作業がまだ、人海作戦で

機械化導入以前でした。

田植え、収穫の時期には

猫の手も借りたいので

子供が中学生ともなると、

家族が当てにしたのでしょう

ひょっとしたら全国の学校で

農繁期休校が

あったのかもしれません






富士山の見える通学

2015年11月14日 18時18分18秒 | Weblog


住まいから西の方、

鴨江(かもえ)の坂を越えた

小高い丘に私の編入する

浜松の中学校がありました



浜松の中学校へ入学式もなく

一年生の途中から編入です

私には初めて中学校です



私は小学校三年生のときに

満州の小学校(国民学校)へ

編入しています

… … …

中学校も途中、編入からスタートです

編入生の私は教壇の先生の横に立って

紹介されて始まりました

… … …

未知の教室の皆と仲良くなるのは

別に抵抗はありません



毎朝の通学の途中

坂の上から東の方を望むと

富士山が遠い山間に小さく見えました

秋の富士山は紫色ですが

冬が近づくと雪が積もって

白く見えるようになりました





戸谷の叔母様と静岡県庁へ

2015年11月13日 22時32分56秒 | Weblog


静岡県庁の教育課に戸谷の叔母様と

私は、大勢で働いている広いフロアーに

案内されました

… … …

今までの私の経緯を戸谷の叔母様から

聞いた教育課の人は

「外地から小学六年生で引き揚げてきた児童は

 一年下の学級の五年生クラスに

 小学五年生で引き揚げてきた児童は、一年下の

 四年生に編入するということで静岡県では

 受け入れています…」

と云われました



私は、満州新京で小学六年生(春光国民学校)の

なかばで、敗戦を迎えて、卒業もしないで

中学一年生の時期を、当地の元先生のボランティアで

なんとか勉強をしていました

… … …

そこで教育課の人は、

「貴方は年齢的に中学一年生です。

 しかし、中学校の一年生には下がありません…

 中学一年生のクラスへ強引に編入して一年間の

 ブランクを自習で追いつきますか?…」

と問い掛けてきました



戸谷の叔母様を見ても、判断がつかないご様子です

もっとも、戸谷の叔母様にはお子さんが居なかったのでした

… … …

呑気な私は、後先も考えず、

「それで、お願いします…」と云ってしまいました

… … …

教育課の人は、頷いて

「浜松の中学校へ編入手続きをとります…」の

返事を貰いました。







戸谷の叔母様に会う

2015年11月12日 21時07分13秒 | Weblog


私の大切な学校のこととは云え

家族で出掛けるほど余裕がなかったのか、

それとも、可愛い子には旅をさせよ、です

私は、1人で静岡市へ行くことになりました

… … …

浜松は夏休みに父親と一緒に来た

覚えはありましたが

これから私の行く静岡市は全く初めてで

心細かったはずです



母親に地図と、汽車賃、小遣いをもらって

電車で浜松駅から静岡市駅に出掛けました

行く先は、父親の兄で、肺炎で亡くなった

戸谷家(とだに)の叔母を訪ねてです。

… … …

母親と戸谷家の叔母とは事前に

手紙のやりとりで、道しるべの地図など

連絡済みだったのでしょう

どのように静岡市内を

歩いて行ったのか

覚えていません

… … …

立派な門構えの玄関を見つけて

叔母様に会えました



初対面の戸谷の叔母様に挨拶を済ませて

持参した手紙を差し出しました

叔母様は、まず私に

「ご飯食べる?…」と用意してくれました



真っ白なご飯、生卵、海苔、焼き魚などが

ずらりと並びました。

いまなら、当たり前の朝食ですが、敗戦後、復興期の

日本では、大ご馳走でした。

特に、眩しい真っ白なご飯は

世間で、銀シャリと云われていました

… … …

豪華な、ご馳走を嬉しく済ませた私の前に

パリッと和服姿で現れた戸谷の叔母様は、

私を連れて、静岡県庁・教育課へ出発です








1人で静岡へ…

2015年11月11日 17時42分11秒 | Weblog


浜松市元魚町で生活が始まりました

あたりは空襲の焼け跡で

住処のバラックから

遠くのほうまで見渡せました

… … …

浜松は軍需工場があったので

空襲の目標になったのかもしれません

… … …

浜松の人によると、沖から

軍艦による艦砲射撃が

凄かったと聞きました



バラックの復興住宅でしたから

風呂はありません

少し坂道をあがったところ

鴨江(かもえ)に銭湯がありました



一応、毎日の生活のリズムが

戻ってきました

… … …

さて、私の学校をどうするかを

解決しなくてはなりません

… … …

国民学校六年生の夏に

突然、学校がなくなって

翌年、中学校もなく

一年ほど、ブランクのまま

引き揚げてきています



私のような境遇の引き揚げ児童は

大勢いたはずです

… … …

母親は、私のために市役所へ

交渉か相談に行ったのでしょう

ある日、母親に私は

「静岡に行ってちょうだい…」と

云われました。