今日のうた

思いつくままに書いています

非常時のことば 震災の後で

2014-08-28 14:53:48 | ②一市民運動
高橋源一郎『非常時のことば 震災の後で』(2012年・朝日新聞出版)を読む。

この本は私の、足下が揺れているような頼りなさ、鬱屈した思い、何をしても楽しめない・前向きに
なれない気持ち、何でも疑ってしまう心、知らない間に自分が自分でなくなってしまったような自信の
なさ、焦燥・・・そういったものを代弁してくれているようで、読みながら涙が出た。

3・11までは、新聞は社会面と文化面、そしてテレビ欄と週刊誌の広告しか読まなかった。
短歌を楽しみ、そこそこ幸せだと思って暮らしてきた。
知らない間に、世の中が180度変わった。
誤魔化し、見ないふりをして来たことが、露わになった。
もう戻れない。知らなかったことには出来ない。
何もなかったようには暮らせない。楽しめない。続けられない。

何かことばがほしかった。信じられるものが欲しかった。
それまであまり読まなかった本を、手当たり次第に読んだ。
高橋さんの『恋する原発』(2011年・講談社)は、これでもかというくらい猥雑な言葉に満ちていた。
なんでここまで・・・読み終わって、わかった。
美しいことばのために、露骨で卑猥な言葉があった。

『非常時のことば 震災の後で』は、3・11以降、それまでのことばを失うことから始まる。
私の心に残ったことばを記します。

 ぼくたちは、ここでもまた、ジュネ(ジャン・ジュネ)の、このことばを思い出さなければならない。
 ことばは、なんのために存在しているのか。なにの役に立つのか。
 ことばは、そこに存在しないものを、再現するために存在しているのである。

 なにも問題がないなら、ぼくたちを抑圧するものがなにもないなら、ぼくたちに不満が
 なにひとつないなら、ぼくたちは、ことばを使おうと思うことさえないかもしれない。
 なにかを(ことばで)表現したいと願うのは、どうしても埋めることができない欠落が、
 ぼくたちの中に生まれるからなのかもしれないのである。

 私が確信をもって言えること、それは世の中の1%の人は危機を望んでいるということ
 です。人びとがパニックや絶望に陥り、どうしたらいいのか誰にもわからない、そのときこ
 そ、彼らにとっては自分たちの望む企業優先の政策を強行するまさに絶好のチャンスとな
 ります。教育や社会保障の民営化、公共サービスの削減、企業権力に対する最後の規制の
 撤廃。これが経済危機の只中にある今、世界中で起きていることなのです。
(「ウォール街を占拠せよー世界で今いちばん重要なこと」
 ナオミ・クライン「世界」2011年12月号)

 年月は、 人間の救いである。
 忘却は、 人間の救いである。
                     (『お伽草子』から「浦島さん」・太宰治)

 「あの日」から、多くの文章が読めないものになったのは、ぼくたちが、「死者」を見た
 からだ。いや、この目では見なかったかもしれないが、「死者」たちの存在を知ったから
 だ。ぼくたちが生きている世界は、ぼくたち生きている者たちだけの世界ではなく、そこ
 に、「死者」たちもいることを、思いだしたからだ。
 「上」を向く文章は、そのことを忘れさせる。「下」に、「大地」に、「根」のある方に向
 かう文章だけが、「死者」を、もっと正確にいうなら、「死者」に象徴されるものを思いだ
 させてくれるのである。

 私はみなさんが決して犠牲者になることなどないように望みますが、他の人々に対して権
 力を振るうこともありませんように。そして、みなさんが失敗したり、敗北したり、悲嘆
 にくれたり、暗がりに包まれたりしたとき、暗闇こそあなたの国、あなたが生活し、攻撃
 したり勝利を収めるべき戦争のないところ、しかし未来が存在するところなのだというこ
 とを思い出してほしいのです。私たちのルーツは暗闇の中にあります。大地が私たちの国
 なのです。どうして私たちは祝福を求めて天を仰いだりしたのでしょうー周囲や足下
 をみるのではなく?私たちの抱いている希望はそこに横たわっています。ぐるぐる旋回
 するスパイの目や兵器でいっぱいの空にではなく、私たちが見下ろしてきた地面の中にあ
 るのです。上からではなく下から。目をくらませる明りの中ではなく栄養物を与えてくれ
 る闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。
             (「左ききの卒業式祝辞」アーシュラ・クローバー・ル=グレン)

 ある文章は読めて、別の文章が読めないのは、なぜだろう。
 それは、ぼくが、「病気」になってしまったからだろうか。大きな事件があって、その
 せいで、ぼくが「病気」になってしまったからだろうか。大きな事件があって、その
 せいで、(精神の)健康を害してしまったからで、自然に治癒するのを待っていればいい
 のだろうか。
 そう思った。
 しかし、なにも読めず、それでも、ぼんやり机に向かっていると、もしかしたら、いま
 までなんの問題もなく読めていたことこそ異常であって、こんな風に、ほとんどの文章が
 読めなくなってしまうことこそ正常なのではないか。そんな風にも思った。

 大きな事件があり、たくさんの「死」があった。「死」というものが、そんなにも、身
 近にあることを、ぼくたちは気づいた。それは、いいかえるなら、実は自分もまた死にゆ
 く人間である、という認識だ。
 ぼくたちは必ず死ぬ。そのことは、子ども以外は誰でも知っている。誰でも知っている
 けれど、同時に、そのことは、ふだん口にされることはない。「日常」とは、誰もが知っ
 ているはずの「自分の死」という現象を、勘定に入れないことによって成り立っている世
 界なのである。
 「死」を遠ざけ続けることで、ぼくたちは、「死」を忘れる。「死」というものが存在する
 ことは知っているが、それは、単なる「ことば」にすぎない。そのようなものとして、ぼ
 くたちは生きている。

 「鬱病があらわれ」るとは、この世界に違和感を感じる、ということだ。それまで、なんの
 問題もなく生きてきたのに、同じことができなくなる、一つ一つの行動やことばに、なん
 の意味も感じられなくなる、ということだ。
 「あの日」から、読めない文章ばかりだ、と訴えると知人の精神科医は「そういう人が増
 えているよ。明らかに、『震災鬱』だね」といった。ぼくもまた「鬱病があらわれ」たの 
 である。

 「ぼくが ここに いるとき
  ほかの どんなものも
  ぼくに かさなって
  ここに いることは できない

  もしも ゾウが ここに いるならば
  そのゾウだけ
  マメが いるならば
  その一つぶの マメだけ
  しか ここに いることは できない

  ああ このちきゅうの うえでは
  こんなに だいじに
  まもられているのだ
  どんなものが どんなところに
  いるときにも

  その『いること』こそが
  なににも まして
  すばらしいこと として」
                             (まど・みちお)

  そこにいる、その、赤ん坊は、ことばを持たないことによって無力のままに置かれてい
  る、その生きものは、実は、ずっと以前の、生まれたばかりのお前でもあるのだ。そして、
  お前は、かつて、そのような視線の下にいたのだ。お前もまた、「かけがえのない存在」
  として、見つめられていたのだ。お前は、無力な存在として、横たわっていたのではない、
  「その『いること』こそが/なににも まして/ すばらしいこと として」見られてい 
  たのだ。
  「私」は「私」を肯定するために、「私」以外の誰かを必要としていたのである。
  「私」以外の誰か、それは、ことばを持たない、「小さな」誰かのことだ。こちらから手
  を伸ばさなければ、助けなければなにもできない、か弱い、なにものか、のことだ。その
  ような者たちについて書かれた「文章」は、そのような者たちを庇護する人たちの行いに
  似て、囁くように語られている。ぼくは、いま、そんな「文章」なら読むことができる
  のである。


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