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今日のうた

思いつくままに書いています

タクシー運転手 ~約束は海を超えて~

2020-05-30 10:17:00 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
※6月1日(月)13:00からBSプレミアムで、この映画を放送します。


「タクシー運転手 約束は海を超えて」を観る。
(原題は「タクシー運転手」 これでいいのでは、と思ったが
 マーティン・スコセッシ監督の「タクシー・ドライバー」を意識してのことか?)
光州事件を背景にしているが、私は詳しいことは知らなかった。
1980年の5月(ちょうど40年前)、民主化を求める人々のデモを
戒厳軍が弾圧する。
このことをドイツ人記者ピーターが取材しようとするが、戒厳令が出されていて
思うように動けない。
そこで10万ウォンを出し光州までの往復に、ソン・ガンホ演じる
タクシー運転手を雇うことになる。

至る所に検問があり、タクシー運転手はさっさと送り届けて残りの金を得ようとする。
この時の報道では、「スパイに扇動された学生が、5人の警察官を殺す」だった。
だが実際にタクシー運転手が目にしたのは、学生を含む民間人を情け容赦なく
殺傷する軍の姿だった。
実際の死者は、民間人(144人)、軍人(22人)、警察官(4人)。
(ウィキペディアによる)

現在、香港では「国家安全法」をめぐって、デモ隊を弾圧する警察官の姿が
連日報道されている。
このことを思い出させるような、あるいはそれ以上の虐待が、この映画では行われている。
仲間たちに命がけで助けられながら、タクシー運転手はドイツ人記者を何とかソウルに
送り届ける。

映画の最後の字幕には、次のように書かれている。

「ピーターが命がけで撮影した光州の真実は世界に報道され、
 軍部独裁の暴圧を知らしめるきっかけとなった」

タクシー運転手を演じるソン・ガンホ(「パラサイト 半地下の家族」に出ている)が
チャーミングで素晴らしい。
生身の彼にぐいぐい惹きつけられ、目が離せなかった。

歴史に対してごまかさずに直視する姿勢。
娯楽性を忘れずに大いに笑わせてくれる。
そして登場人物には、みな血が通っている。
こうした作品を作ることのできる韓国映画界とチャン・フン監督はすごい!




(画像はお借りしました)


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復活の日

2020-05-17 11:05:47 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
※5月19日の朝日新聞に、記者がフィッシングに遭ったという記事が載っていた。
これは少し前まで私に送りつけられてきたものと同じだった。
その日によって内容が少し違うが、アマゾンを騙ったもので、あなたの登録内容が違うので
下のURLからログインして契約内容を変更するよう求めるものだ。
そうしないとアカウントを削除します、と書かれているとあせってしまう。
すぐに正規のアマゾンに確認したところ、フィッシングであることが解った。
フィッシング(phishing)とは、電子メールやウェブサイトを装い、口座・暗証番号などを
不正に入手する詐欺手法をいう。(広辞苑より)

2日に1度メールが送られてきて、その都度、迷惑メールリストに登録し削除していたが、
あまりにも頻繁なのでセキュリティ会社に問い合わせた。
すると迷惑メール対策の受信レベルを【厳密】に変更した方がいいと言われた。
その後、全く入ってこなくなった。ウィルスはどんなウィルスも怖い!
詳しくは正規のアマゾンに載っています。
        ↓
https://www.amazon.co.jp/gp/help/customer/display.html?ie=UTF8&nodeId=201909120&ref_=hp_ss_qs_v2_phi


【厳密】にしてからはフィッシングメールがなかったが、昨日、上の文章をアップした後に
1通が送られていた。これではイタチごっこだ。
取り締まることは出来ないのだろうか。
メールの書き出しは、「親愛なるお客様」になっている。
こうした文体から、手掛かりが掴めそうな気がするが。


4月中旬に、「準備ができました」と図書館からメールがあった。
3月の中旬から図書館は閉鎖されていたが、予約した本だけは借りることができたのだ。
ところが後日取りに行ったところ、今日からすべて閉館になりましたとの張り紙があり、
6月30日まで借りることができなくなった。
石牟礼道子著『色のない虹』を楽しみにしていたのに・・・。
私は持病から古い本は読めない。
作家の方々には申し訳ないが、新刊を図書館から借りることにしている。
それが絶たれてしまうのはショックだ。
新聞に出ていたのだが、予約した本を配送してくれる自治体があるそうだ。
スマートレターなら1冊180円で送ることができる。
料金は自粛が解除された後ということで、希望者に送ってくれないだろうか。
せめて一人一冊だけでも・・・。どうぞよろしくお願いします。

追記
緊急事態宣言の解除を受けて、わが市の図書館で予約してある本は
受け取ることが出来るようになるという。有難いことだ。
(2020年5月27日 記)


そんなわけで映画ばかり観ている。
『山河ノスタルジア』では、離れて暮らす7歳の男の子と何年ぶりかで再会したお母さんの
次のセリフに胸を打たれた。シナリオが素晴らしい。

「なぜこの電車ゆっくりなの?」
「各駅停車だからよ」
「特急に乗ればいいのに」
「この方が長く一緒にいられるの」・・・

「電話が鳴った時はいつも緊張するの
 母さんに何かあったかと
   つらいものよ
 愛する人を心配するのは
   私思うの
 愛を知るためには
 痛みを感じるべきだと」        (引用ここまで)


『復活の日』を観る。
1964年に小松左京が書き下ろし、1980年に深作欣二監督で映画化されたものだ。
小松左京の作品は、以前、『日本沈没』を観たことがある。
観終わってから数年が経っても、居場所を失った日本人が難民となって
アジアを彷徨うシーンが脳裏に焼き付いて離れなかった。

この映画では、細菌兵器として開発された猛毒の新型ウィルスが盗まれる。
その後、飛行機事故でこのウィルスが世界中にまき散らされるのだ。
このウィルスは極低温下では生きられない。
その結果、南極にいた855人の男と8人の女が生き残る。
心に刻まれた言葉を引用させて頂きます。

「我々が見る最後の夕陽だろう
 ”もう少し時間があったら”
 マイヤー博士の最後の言葉だ
 人類はこの言葉を繰り返し
 そのたびに文明が滅びた
 歴史にはっきり記されている通りだ
 歴史を忘れた者だけが
 過誤(あやまち)をくり返す
」     (引用ここまで)

人間の驕りと愚かさが、これまで築き上げてきた世界を簡単に破壊してしまう。
今、観るべき映画だと思う。
この作品は、人間の愚かさと同時に生き延びる術を描いている。
だが1964年に書かれた小説とはいえ、強姦事件をきっかけにみんなで話し合って
決めたやり方に私は唖然とした。とうてい理解できるものではない。
これでは従軍慰安婦と同じではないか。
そしてそのことが、この映画を汚しているとすら思った。
これが人間の本性だと言いたかったのだろうか。

さらに引用させて頂きます。

「種の保存のために我々が問題にしているのは、人間の本能だ。
 人類滅亡の危機に際して、人間は種の繁栄を計ろうとする本能がある。
 855人対8人という不自然な環境では、1対1の男女関係は望み得ない。

 女性が人類の最も貴重な資源になったのです。
 1対1の関係は不可能だ。
 たとえ不本意でも1人以上の男性を引き受けなければならない。」 (引用ここまで)

そして次々と子どもが生まれる。






(画像はお借りしました)

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ドグラ・マグラ

2020-05-09 11:23:22 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
中野翠さんが、エッセイ 『あのころ、早稲田で』の中で、
夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』を次のように書いている。
「それは私の人生を変えた一瞬となったーーと言っても過言ではないのだった」
彼女にこう言わせる小説は、と気になった。
1988年に松本俊夫監督で映画化されているので、DVDを借りて観ることにした。

松本俊夫監督は、1969年に新宿文化劇場(アートシアター新宿文化)で観た
『薔薇の葬列』の監督だ。
ピーター(池畑慎之介)のデビュー作で、大学に入りたての田舎娘には衝撃的だった。
記憶が曖昧だが、確か主人公が口紅をつけ、鏡の中の自分にキスをする場面を
うっすら覚えている。とても美しい映画だった。
当時、ATG(アートシアターギルド)は、他の映画会社とは一線を画し、非商業主義的な
芸術作品を制作・配給する映画会社だった。
新宿文化劇場で映画を観ることが、当時の私の憧れだったのだ。

松本監督は、70年代にこの『ドグラ・マグラ』を映画化しようと考えていたようだが、
会社が芸術から娯楽へと路線変更をし、「難しいのは無理」と映画化は叶わなかった。
そして1988年まで撮ることが出来なかったようだ。

この映画は、解る、解らない、売れる、売れないといったものを排し、
美のエッセンスだけで作られた映画だ。
松本監督は、映画の後のインタビューで、映画を作った動機を次のように語っている。
「大脳を優先するような、西洋的な価値観に対する疑問。
 大脳が機能不全に陥るような、
 知のシステムがぐらつく時に見えてくるものがある。
 合理的に融合しない世界、合理的な予測がことごとく裏切られる世界。」
と語っている。

私は論理的なことはよく解らないが、本物に身を委ねる心地よさがある。
『薔薇の葬列』がピーターなしには考えられなかったように、『ドグラ・マグラ』も
松田洋治なしには存在しない。

たっぷり芸術作品を味わい、観終わったあとが清々しかった。
それにしても当時は、映画『アポロンの地獄』といい、早稲田小劇場の白石加代子主演
『劇的なるものをめぐって』といい、いい作品があったとしみじみ思う。








(薔薇の葬列)



(劇的なるものをめぐって)



※演劇はその場で観られなかったら一生観られない、と思っていた。
 ところがケーブルテレビで「身毒丸(しんとくまる)」を観ることができた。
 1997年の作品で蜷川幸雄演出、白石加代子・藤原竜也主演。
 こんなラッキーなことはない。
 白石演じる継母との愛憎劇を演じた藤原は、この時15歳だったとは・・・。
 白石の狂気は健在で、藤原は男の色気を感じさせながら、
 それに十分に応えていた。 (2020年8月19日 記)


 


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ソローキンの桜、海を駆ける、あぜ道のダンディ

2020-02-03 16:18:13 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
阿部純子さんの3作品を観る。
 
(1)ソローキンの見た桜

日露戦争の時代に、日本初のロシア兵捕虜収容所が松山にできた。
日本は世界から認められたいがために、ハーグ陸戦条約に則って捕虜を扱おうとする。
「俘虜は博愛の心を以て取り扱ふへきものとす」、といった当時の日本人からは、
映画を観る限り、日本人としての「矜持」が感じられる。

ところが、現在の状況はどうであろう。
「荻上チキ・セッション22」で、入国管理センターに収容されている人たちの
酷い扱いを聴いたばかりだったので、その違いに衝撃を受けた。
以前、収容されていた人の話によると、急病でも医師に診てもらえない場合が多く、
症状にかかわらず、せいぜい市販のバファリンかオロナインを出されるだけという。
収容者に対しては一切の説明はなく、人権は認められず、精神的に追い詰めて
自発的に諦めて帰るような雰囲気を作ろうとしているようだ。
母国で生命の危険があるからこそ、危険を冒してまで日本に来たのに
憲法も国際人権も一切適用されていない。
【長期収容は、精神の殺人】だという。
これは1904年の松山の捕虜収容所のことではなく、茨城県牛久にある
入国管理センターなどの今の実態だ。
21世紀に、こんなことが通用するのか!
こんなことが世界に通用するのか!
オリンピックを開催する国として、恥ずかしくないのか!

話は逸れましたが、松山の捕虜収容所では、ロシア兵たちはある程度の
自由が認められていた。許可を得れば外出することも出来る。
この映画はロシア兵と看護を担っている日本女性の恋の物語だ。
その後、2人は歴史に翻弄されていく。
歴史を知らなくても解りやすく、また阿部純子の可憐さ、健気さが際立っている。

だが私には物足りなかった。
人間や歴史の闇にも光を当て、もっと物語を膨らませることが
出来たのではないだろうか。
あまりにも登場人物が善男善女で、性善説の見本のような内容に、
「もしかしたら日露合作なので忖度した?」と思ったほどだ。

(2)海を駆ける

この映画も日本とフランス、インドネシアの合作だ。
だが深田晃司脚本・監督により、のびのび作られたように感じた。
2004年のスマトラ沖地震による津波被害や、太平洋戦争の頃の
「バンダ・アチェ独立運動」が下地にある。私は歴史に疎いので調べると

ウィキペディアによると、アチェの独立運動とは

「1942年オランダ領東インド全域を占領した日本軍をアチェ側は当初解放軍として
 歓迎し日本軍も独立運動に着手した、のちの独立運動時に元日本軍がこの地で
 オランダ軍と戦闘になり死亡している。
 1949年インドネシアがオランダから独立すると、スカルノ大統領の政府は
 アチェを北スマトラ州に併合、アチェ人はこれを外国の占領とみなし抵抗した。
 このため、インドネシア共和国政府は1959年アチェを特別州とし、
 高度な自治を認めたが、抵抗運動はなお続いた」。  (引用ここまで)

インドネシアは多民族国家で、宗教もさまざま、また太平洋戦争で戦った記憶を持つ。
その海岸に記憶喪失の男が打ち上げられ、いろいろな奇跡を起こす。
歴史が分からなくても、宗教が分からなくても、風習が分からなくても、
その男の正体が分からなくても、そこに居合わせた人たちは、
彼を受け入れ、のびやかに生きている。
分からないなりに、風に吹かれているような、気持ちよく楽しめる映画だ。
この映画の中の阿部さんも、のびやかに生きている。

先日、「孤狼の血」を録画して観た。
ところが最初の場面の、豚小屋でのリンチに怖れをなして5分で削除してしまった。
あとで阿部純子が出演していることを知った。
彼女がどういった演技をしているか気になるが、観る勇気は私にはない。

(3)あぜ道のダンディ

石井裕也監督、光石研・田口トモロヲ主演。
この映画で阿部純子は吉永淳の名前で、光石の娘役で出ている。
武骨で一刻者の光石と、気が弱く心優しい田口との、中学からの友情を描いている。
このコンビが絶妙だ。
父子家庭で息子や娘とうまくコミュニケーションが取れない光石。
時に空威張りし、やせ我慢する光石を、田口がいつも受け容れている。
息子と娘の成長に戸惑いながらも成長する光石の姿に、なんだかホッとした。
映画の中で阿部純子は、いつも考えている。
それが彼女の演技をありきたりなものではなく、深みのあるものにしていると思った。












(画像はお借りしました)


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2つ目の窓

2020-01-25 17:52:24 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
河瀬直美監督の「2つ目の窓」を観る。
「銃」の村上虹郎を観てから、彼のデビュー作を観たいと思っていた。
「萌の朱雀」で尾野真千子を見出したように、この映画で河瀬監督は
17歳の村上虹郎を世に出した。
父親(彼の父親である村上淳も映画に出ている)譲りの濃い眉。
寡黙ながら内に秘めた激しさが伝わってくる。

奄美大島に暮らす高校生役の吉永淳にこころ惹かれた。
今は名前を替えて、「阿部純子」として活躍しているようだ。
自然がさまざまな表情を見せるように、彼女もさまざまな顔を見せる。
人の心を射抜くように真っすぐな眼、自然の一部になったような大らかな姿態。
両親に甘える時の猫のように無防備な形。
黙っている時も、頭の中はしっかり物事を考えているのが分かる。
まさに彼女は映画の中で呼吸し生きている。
彼女がいるから、奄美の自然の中で繰りひろげられるさまざまな出来事が
現実味を帯びてくる。

4、500年立ち続けているガジュマルを身近に見ながら、
死期が迫っている彼女の母は、死は特別なことではないと言う。
自然の一部なのだ。
自然の中で死は美しい。
母親の周りを親しい人たちが囲み、三線を弾きながら歌う。

 あなたはどうしても行くの?
 私を忘れて
 行ってしまうのですか?
 あなたが行ってしまったら
 私はどうすればいいの?
 それは心苦しいです。
 やっぱり行ってしまうのね?
 どうしても遠い島に

 行かなくてはなりません
 千年 万年
 長生きしたいです
 生きたかったです

みんなで踊りながら見送ろうとする。
母親も一緒になってかすかに手を動かし踊る。
強い風が吹いている。

母親が亡くなったあとに、彼女は海に向かって歌をうたう。

 あなたはどうしても逝くの
 私を忘れて逝くの
 あなたが
 逝ってしまったら
 どうすればいいの
 それは心苦しいでも
 やっぱり逝ってしまうのね?

 どうしても遠い島に
 逝かなければならないの
 でもきっとあなたを
 想い出して
 戻ってくるからね

「人はね 誰でも死ぬんだよ でも命は繋がっている」 (引用ここまで)

美しい映画だ。

70歳を目前にして、持病のために映画館に行くことも美術館に行くことも
かなわぬ身に、死は決して遠いものではない。
この映画のように、自然の中で死ぬことの豊かさを想った。
そして「内地の人は長生きさせられて気の毒」という、母親の言葉が胸に響いた。





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新聞記者

2019-12-24 09:40:22 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
シム・ウンギョン、松坂桃李主演の映画「新聞記者」を観る。
DVDがリリースされた直後に予約を入れたにもかかわらず、1ヶ月待たされた。
上映当時も、全国映画動員ランキングでは何度も上位を占めた。

今、こうした映画が製作され、上映され、評価されることは、喜ばしい限りだ。
商業映画である以上、細部に異なる箇所があるにはあるが、
まさにこの映画に描かれているのは、現在の日本そのものだ。
これはノンフィクション映画だと思う。

特に主演のシム・ウンギョンが素晴らしい。
演技を抑えることで、まばたき一つで多くを語っている。
感動を押し売りする日本映画の、過剰な演技に辟易していたので、
彼女はとても新鮮だ。
この映画は台湾でも韓国でも上映されるという。
日本人、いや世界中の人々が必見の映画だ。

新聞記者の父親の次の言葉が心に響いた。

「誰よりも自分を信じ、疑え」


第43回日本アカデミー賞で、「新聞記者」が3賞に選ばれた。
最優秀作品賞、最優秀主演女優賞にシム・ウンギョン、最優秀主演男優賞に松坂桃李、
優秀監督賞に藤井道人、おめでとう!
主演女優賞に呼ばれた時のシム・ウンギョンの驚き、震え、涙を見て、
日頃わすれていた大切なものを見る思いで涙が出た。
彼女は最高に美しかった。

国民の危機感がこのような映画を作り、そして評価されたことはとても嬉しい。
上にも書いたが、日本だけではなく世界中の人に観て欲しい作品だ。
そして日本の現状を知って欲しい。

松坂桃李がインタビューで語っていたが、この作品が映画化されるまでに
一転、二転、三転、四転、五転して、ようやく完成したそうだ。
その圧力の酷さは想像に余りある。
それでも貫き通した映画人の、心意気に対する作品賞でもあるのだろう。
こうした作品を日本で観ることのできる幸せを今、味わっている。

彼はまた、テレビドラマ「微笑む人」に出ていた。
この人の可能性は計り知れないものがある。
(2020年3月7日 記)

昨日の新聞(3月11日)によると、イオン系映画館などで上映中のほかに
 凱旋上映が続々決定し、3月13日からは多くの映画館で
 観られるようになるそうです。 バンザ~イ!

※「権力とメディア」は興味深い動画です。ニューヨークタイムズは素晴らしい!
  (2019年6月1日 HUFFPOST)
         ↓
https://www.huffingtonpost.jp/entry/staff-writer-movie_jp_5cf1e8a9e4b0e8085e3a4e07?fbclid=IwAR2sU6enLRTwGp6eIFVT87YEVxjyG_gp9WfctXRs80KMzYiXt-E8RVrigDQ




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全身小説家

2019-11-17 10:16:27 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
「ゆきゆきて、神軍」の監督である原一男の作品、「全身小説家」を観る。
小説家井上光晴をモデルにしたドキュメンタリー映画だが、しょっぱなから
度肝を抜かれてしまった。
人を喜ばすためなら、いかなるタブーをも厭わない宴会での怪演ぶり。
さらには人を笑わせ、怒鳴りつけ、女であれば60代であろうと70代であろうと
声をかける。成功率3割、まさに3割バッターの異名をもつ。

小説を教える場を伝習所と称し、生徒を伝習生と呼ぶ。
彼女たちは、「女で井上さんを好きにならない人はいない」、
「井上さんは永遠に私の心の中の夫」、「私は井上教信者」、と
うっとりとした表情で語る。
まさに人たらしなのだろう。

声がセクシー、肌がきれい、4歳で母に捨てられた幼少期、過酷な少年時代。
殺し文句の上手い人、ロマンスグレーでハンサム、さらには人を喜ばせるためなら
平気で嘘をつく。
埴谷雄高に「嘘つきみっちゃんが小説家になった。小説家は彼の天分」と
言わしめる。井上光晴とは、いかなる人物なのだろう。

私は『地の群れ』の作者ということしか知らなかったし、本は1冊も読んでいない。
差別や権力に抗い、弱者の立場の人たちを作品に書いてきた人のようだ。
瀬戸内寂聴は彼を、「誰にも言えない真実を守るために、嘘をついてきた人」と言う。
人間が好きな反面、誰をも寄せつけない闇を抱えて生き抜いて来た人なのだろう。
女たちに喜びと苦しみを同時に与えてきた男。
身近にいたら、さぞや心を搔き乱されたことだろう。
彼の次の言葉が一番気に入っている。
「自由とは人に期待しないこと」だ。

映画の最後に、井上光晴原作の映画(DVD)の予告篇が入っている。
その数の多さに驚いた。以前に観た「十九歳の地図」も、彼の作品だった。
日本よりも海外で高く評価されているようだ。
(どういうわけか全て、2015年にDVD化されている。)

映画を観るかぎり、傍にいて欲しくない人だが、井上光晴という人に興味を覚えた。
まずは『地の群れ』を読んでみようと思う。

※書店に予約したところ、河出書房の文庫本は絶版になっていた。
 Amazonでは中古の文庫本に数千円の価格がついている。
 こうなったら図書館で古い本を借りるしかない。
 「ほるぷ出版」から出ている『日本の原爆文学 5 井上光晴』に、
 『地の群れ』など多くの作品が載っています。
 
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ひ ろ し ま

2019-09-01 17:15:14 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
NHK・Eテレで8月に放送していた『ひろしま』を、
何度も何度も中断しながらやっと観終えた。
観るのが辛いシーンはたくさんある。
それでも人間として目を背けてはいけないと思った。

この映画は1953年に制作された。原爆投下からわずか8年のことだ。
広島市民8万8000人が参加し、被爆者が自ら再現している。
驚いたことに、この映画の企画・制作が日本教職員組合になっている。
今、こうした映画を作ることは不可能なのではないだろうか。
民主主義は進化しているのか。むしろ後退しているのではないだろうか。
1955年、ベルリン国際映画祭で入賞している。

オリバー・ストーンの言葉
「Must see. この映画は現代戦争の真の恐ろしさを思い出させてくれます」。

主演した月丘夢路さんの言葉
「あの悲惨さは、後の世の人に残したい。
 それが大きな戦争の抑止力になればいい」。

広島で被爆したサーロー節子さんの言葉
「あの時、私の経験したことを身近に感じさせてくれるフィルムだった。
 正真正銘の広島を考えて欲しい」。





 (画像はお借りしました)


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ディア・ハンター

2018-12-16 09:16:48 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
これまで観た中で一番よかった映画はと聞かれたら、私は迷うことなく
『ディア・ハンター』と答えるだろう。
14日から『ディア・ハンター4Kデジタル修復版』が上映されている。

だが、ちょっと待って! このポスターは余りにも酷いじゃないですか、角川さん。
この映画はベトナム戦争を扱っていてはいても、衝撃的なロシアンルーレットを扱ってはいても
あくまでも青春映画なのだ。
このポスターでは「なんだ、戦争映画か、残酷そうだな」と引いてしまう人が出てくるだろう。
今、青春真っ盛りの人に、そして青春を遠の昔に過ぎてしまった人に観てもらいたい映画だ。

映画はペンシルベニア州のピッツバーグ郊外に住む、ロシア系の若者が主人公だ。
彼らは製鉄所で働いているだ。トランプの言う「ラストベルト」だ。
仲間の一人、スティーブの結婚式が行われている。
町を挙げてみんなで準備し、みんなで祝い、みんなでロシアのコロブチカ(民謡)に合わせて踊る。
新婦もみんなと一緒に踊りまくっている。
この場面が私は大好きだ。何度観ても幸せな気持ちになる。

だが結婚式は、徴兵されてベトナムに向かうマイケル(ロバート・デ・ニーロ)、
ニック(クリストファー・ウォーケン)そしてスティーブの壮行会も兼ねていた。
一夜明けて早朝、彼らは鹿狩りに出かける。
この場面はうつくしい。
そして二年後、彼らは……。

1978年の映画なので、ロバート・デニーロも、メリル・ストリープも若い。
クリストファー・ウォーケンの危ういまでのナイーブさに、私はやられてしまった。
戦闘場面が多いわけではないのに、戦争の非情さが心の奥底まで伝わってくる映画だ。








「『ディア・ハンター4Kデジタル修復版』(動画あり)」
          ↓            
http://cinemakadokawa.jp/deerhunter/
         



(画像はお借りしました)

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暗い日曜日

2018-01-23 09:11:49 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
BS12で、夏目雅子の映画を特集していた。
借りたものも含め、4本を観た。制作順にならべると
鬼龍院花子の生涯
時代屋の女房
魚影の群れ
瀬戸内少年野球団

私は、『瀬戸内少年野球団』が一番早い時期に作られたものと思っていた。
これが最後の映画になるとは、夏目さんは心残りだったのではないだろうか。
『瀬戸内少年野球団』は、夏目さんの明るさが瀬戸内海とあいまって、
健康的な映画に仕上がっていて、楽しく観ることができる。
だが最後の映画として観ると、物足りなさが残る。
なぜなら、この映画は「夏目雅子」のために作られたように思えるからだ。

これは一般論だが、「スターのための映画」ほどつまらないものはない。
スターのために作られたとあっては、監督にも、他の出演者にも、
そして映画にも失礼だ。

『魚影の群れ』に、彼女の魅力が一番出ていた。
生命がほとばしる、奔放な、力強い、そして愛くるしい女性。
彼女が生きていたら、どんな映画が観られたのだろう。
もしかしたら映画というジャンルに嫌気がさして、舞台女優になっていたかもしれない。
病気で降板した舞台は、どんな芝居だったのだろう。




(画像はお借りしました)




①ドイツ・ハンガリー映画『暗い日曜日』の主人公、イロナを演じたエリカ・マロージャンは
 夏目雅子をほうふつとさせる。
 生命がほとばしり、骨太で、どの場面でも自分の生き方を貫き、キラキラしている。
 周りが傷つくことなど眼中にない。
 そしてひたすら美しい。
 彼女に翻弄され、彼女を見守るしかないラズロ役の「ヨアヒム・クロール」の
 やるせなさがいい。(写真左)
 ピアニストもからみ物語は進行するが、三人の上にナチスの陰が忍び寄る。
 観終わってから、最初のシーンとラストシーンがぴたっと繋がった。
 「やっぱ映画は脚本よね」とつぶやかずにはいられなかった。
 ちなみにこの映画は、ハンガリー楽曲『暗い日曜日』を基にしている。
 参考までに 「Gloomy Sunday -Original, Hungarian Version 」
              ↓
https://www.youtube.com/watch?v=jOqiolytFw4







②史実を声高に訴える映画よりも、知らない間に人々の生活に関わっているような
 映画が好きだ。
 『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島』も、難民問題を声高に叫ぶ映画ではない。
 少年の目を通して、知らない間に人々の生活に入り込み、静かに訴える。
              ↓
http://www.bitters.co.jp/umi/







③親子の関係を描いた作品で、日本の映画はなぜこうも濃密に関係を描くのだろう。
 理想の母親像、母子の絆のすばらしさ、お涙頂戴……。
 『母の身終(みじま)い』を観れば、多くを語らなくても、いや語らないからこそ、
 親子の本質が見えてくる。
              






④タイトルは仰々しいが、『湯を沸かすほどの熱い愛』を観て、宮沢りえの演技に感動した。
 彼女は一作ごとに上手くなっている。
 特に、死の床で口を薄っすらと開けた顔は老醜をさらし、
 私は母の最期を見ているようだった。
 70歳をとうに過ぎても「若さ、美貌、清純さ」を瓶詰にし、永久保存している
 女優もいるが、宮沢りえは100歳の老婆をも演じることができる役者だ。
 これからが楽しみだ。
              






⑤私が死の床で、「これまでに観た映画で一番印象に残っている映画は」と聞かれたら、
 迷うことなく『ニーチェの馬』と答えるだろう。
 高齢の父と娘が粗末な家に暮らしている。
 食事はいつも茹でたジャガイモ一つ。
 ついに井戸が枯れて、ジャガイモを茹でることができなくなる。
 生のジャガイモを前に娘が躊躇していると、父は「食べろ」とだけ言う。
 生きるとは、生きることの根っこを教えてくれた作品だ。
              



(画像はお借りしました)

 
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めぐりあう日

2016-09-03 15:34:55 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
この夏、たった一つの予定が 「フランス映画 『めぐりあう日』 を観る」
だったので、8月31日になって慌てて岩波ホールに行きました。
公式サイトです。(予告編あり)
   ↓
http://crest-inter.co.jp/meguriauhi/

この映画は、「冬の小鳥」のウニー・ルコントが監督・脚本を担当している。
映画の原題は「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」。
(思潮社版、笹本孝訳は「わたしは、おまえが狂熱的に愛されることを、
 心の底から祈っている」)
英題は、「Looking for her」。
原題は、アンドレ・ブルトンの著書 『狂気の愛』 の終わりにある、
娘にあてた手紙から取ったのだという。
プログラムの中で、次のように書いている。

「私にとって特別なこの文章も突然に記憶から浮かび上がってきて、
 映画の題名として不可欠のものとなりました。
 すぐに、私は映画がこの手紙の一節で終わるだろうということも直感しました」

そして実際に映画の最後では、美しい映像とともに、この『狂気の愛』の一節が朗読される。
この映画にとって、原題がいかに大切なものであるかが、観終わってから分かる。
タイトルが長すぎるのなら、せめて英題と同じ「Looking for her」にして欲しかったです。
「めぐりあう日」では曖昧で、甘すぎて、映画にそぐわない気がしました。

映画では産みの親を知らずに育った女性が、実母を探すためにフランス北部の港町
ダンケルクに息子を連れて引っ越してくる。
だが「匿名出産」という壁に阻まれて、なかなか実母の居場所にたどり着けない。
映画は極力言葉を排し、安易な感情移入を排し、まるでドキュメンタリーのように進んでいく。

ダンケルクは第二次世界大戦でヒトラーに破壊された町で、戦後、町の復興のために
様々な人種が移り住むようになった移民の町である。
息子が転校した学校も、人種によるいじめが横行している。
そして彼も、容姿からアラブ系に見られていじめに遭う。
少しずつ事実が明らかになっていく過程で、主人公の母親はこの町に出稼ぎに来ていた
アラブ系の妻帯者と恋仲になり、彼女が生まれたことが分かる。
彼女はアラブ系の容姿をしていないが、その息子に受け継がれていたのだ。

私はこのことに衝撃を受けた。
主人公は、実の親の名前や住所どころか、国籍も人種すら知らずに生きてきたのだ。
自分のルーツを知らされないまま生きて来なければならなかった不確かさ、そして孤独。
更にはこの映画の監督であるウニー・ルコントは、9歳の時にフランス人の養女になり、
韓国という国を捨て、使い慣れた言葉を捨て、彼女の周りの人々とも離れ、
言葉が通じない、生活習慣が全く違う、知っている人が誰もいない国に来て、
養父母がいるとはいえ、9歳の女の子がたった一人で生きていかなければならなかったのだ。
(フランスに来るまでのことは、映画「冬の小鳥」に描かれています)

安易な同情、安易な共感、そして観客を誘導しようとする安易な作為、こうしたものを
一切排したこの映画に、観終わった後に微かな違和感を覚えた。
この違和感についてずっと考えていたのだが、今はそれが何となく分かる気がする。
それは、私自身がどんなに否定してこようとも、お膳立てされた感動、お膳立てされた結末、
お膳立てされた絆に、馴(な)らされてしまっていたのだ。
それで、観終わった後に、やや突き放されたように感じたのだと思う。

この映画は、一人の人間のいいようのない寂しさや苛酷さ、そしてその尊厳や美しさ、
更には心の底にある熱く強い思いを、静かに多弁に語っている。
フランス映画の奥行きの深さを感じさせる作品だ。

主人公のセリーヌ・サレットと、母親役のアンヌ・ブノアが素晴らしい。
主人公は理学療法士をしているが、偶然、何も知らずに実母に施術することになる。
その時のマッサージの手の動きが、言葉以上に多くを物語る。
あまりに気持ちが良さそうなので、私もマッサージを受けたくなったほどだ。



(画像はお借りしました)


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沖縄 うりずんの雨

2016-05-03 16:10:36 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
朝一番で『沖縄 うりずんの雨』を観てきました。
祭日の9時半からなので、観客は余りいないのではと思ったのですが、
若い方や中高年の方が結構、入っていました。
お年を召したご夫婦が、何組かいらっしゃいました。

映画の中では、次の短歌が紹介されます。

 うりずんの雨は 血の雨 涙雨 礎の魂 呼び起こす雨

『沖縄 うりずんの雨』の公式サイトから引用させて頂きます。

http://okinawa-urizun.com/

「『うりずん』とは潤い初め(うるおいぞめ)が語源とされ、冬が終わって大地が潤い、
 草木が芽吹く3月頃から、沖縄が梅雨に入る5月くらいまでの時期を指す言葉。
 沖縄地上戦がうりずんの季節に重なり、戦後70年たった現在も、この時期になると
 当時の記憶が甦り、体調を崩す人たちがいる」 (引用ここまで)

沖縄の時間と歴史が凝縮されていて、2時間半の上映時間があっという間でした。
私も含め、沖縄を知らなさ過ぎる、そして報道されなさ過ぎる、と思いました。
映画の最後に話された次の言葉が、ずっと頭に残っています。

 沖縄はずっと凌辱され続けている

そして現政権と本土の人間は、凌辱する側にいるのか、凌辱される側にいるのか、
と考えさせられました。

映画のパンフレットは販売されておらず、DVD&BOOK が4212円で販売されています。
                    ↓
http://www.cine.co.jp/detail/0133.html


(画像はお借りしました)


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野火 1

2015-10-13 12:53:41 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
9月6日に、渋谷のユーロスペースで『野火(のび)』を観た。
『野火』予告編です。(You Tube)
        ↓
http://nobi-movie.com/

思いのほか若者が多く、カップルで来ている人もいる。
内容が内容なだけに一大決心をして観に来た私には、このような映画を一緒に
観るカップルがとても新鮮だった。
塚本晋也監督が、「是非、若者に観て欲しい。そして戦争のトラウマを負って欲しい」と
書いていたのを思い出した。

大分前から『野火』を映画化したいと聞いていたので、私は塚本を戦中派と勘違いしていた。
勘違いついでに言うと、この映画の監督を、戦中派の山本晋也とばかり思っていた。
更に塚本が田村一等兵を演じていたのだが、途中まで高橋克実が演じているものと思っていた。
塚本は1960年生まれで、もちろん戦争を知らない。
映画を観たその日に、BS朝日の『ザ・インタビュー』に塚本が出ていた。
物静かで奥ゆかしく、ご自分の世界をしっかりお持ちの素敵な方だった。
映画を観ての私の感想を書きます。  (敬称略)

私は最初の場面が好きだ。結核を患って使いものにならない田村一等兵は、野戦病院に行く
ように言われる。だが芋を少ししか持ち合わせていない田村は、受け入れてもらえない。
仕方なく部隊に帰っても、また病院に行くように言われる。どこに行っても厄介者なのだ。
いつ殺されるかわからない戦場で、食べ物もなくひとり彷徨う。この世のどこにも
居場所がないように。

その後、煙草で芋を巻き上げて生きている負傷兵の安田、彼の使いぱしりの永松や
伍長等と出会う。極限の飢えを抱えて、手足が飛び、内臓が破裂し、血が辺りを染める戦闘に
身を置くことになる。
戦闘シーンだけでなく、田村の血糊のついた顔や泥が干からびた手、伸びた鼻毛などがリアルに
描かれている。これでもかという戦闘シーンで、私は何度のけぞったか分らない。
それと対比するように、レイテ島の自然の美しさが圧巻だ。
地上の地獄を相殺してしまうほどの美しさなのだ。

映画館を出ると自分が今、どこにいるのか分らなくなった。まるで離人症のように駅まで
歩いた。では、私の中でこの映画がトラウマとして残ったのか。
次の日になると、レイテ島のダイナミックな美しさを思い出した。
だが血なまぐさいシーンが記憶には残ったものの、心まで侵すことはなかった。

その後、新潮社(百八刷改版)の大岡昇平著『野火』を読んだ。
そして映画とは全く別の印象を受けた。
映画は最初の場面を除いて、田村は人の中にいる。だが小説では、田村はほぼ一人で
行動する。一人で野山を彷徨い、食糧を確保し、生き延びる術を探る。
彼に働きかけるものは何もない。ただただ二十四時間、自分と向き合う。
あるのは自意識だけだ。
飢えと恐怖と孤独の中で、田村は次第に神を意識してゆく。
そしてこのことが、この小説のテーマだと思った。
解説で吉田健一が書いているように、まるでこのことのために極限状態である戦場が
必要だったのではないかと思えてくる。
吉田は「それは、小説が精神の実験を行う場所になることを意味している」と書いている。
田村が島を自問自答しながら彷徨う姿が、一番私の心に残った。

負傷兵の安田を演じるリリー・フランキーが出色だ。彼は安田にしか見えなかった。
永松を演じる森優作は、1989年生まれだ。すごい才能を感じた。
次に、小説『野火』で心に残った言葉を引用させて頂きます。 2につづく

●1959年公開の市川崑監督『野火』が、11月18日(水)13:00~14:45に
 NHK BSプレミアムで放送されます。
 塚本晋也監督の『野火』とどのように違うのか、制作した時代背景を考えながら
 観たいと思います。
(2015年11月14日 記)

再度、市川崑監督『野火』が、2016年7月29日(金)13:00~14:45に
NHK BSプレミアムで放送されます。
(2016年7月23日 記)

追記1
市川崑監督の『野火』を観る。
塚本晋也監督の『野火』が、カラーで非日常の中の戦争をドラマチックに描いて
いるのに対し、市川監督の『野火』は、モノクロで日常の中の戦争を淡々と描いている。
田村一等兵は、弱々しげで、お人好しで、素直な人間として描かれている。
観客は彼と共に歩き、共に感じ、心を添わせることができる。
田村を演じる船越英二が、なんともチャーミングなのだ。
ラストシーンでは、危険を顧みずに、トウモロコシの殻を焼く人間の営みの場所である
野火に近づいて行く。この田村の姿が、全てを物語っていると思った。
これほどの戦争映画は、もう作れないのではないだろうか。
日本映画の金字塔だと、私は思います。
(2015年11月19日 記)
          ↓


(画像はお借りしました)


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野火 2

2015-10-13 12:53:21 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
私は哄笑(こうしょう)を抑えることが出来なかった。
愚劣な作戦の犠牲となって、一方的な米軍の砲火の前を、虫けらのように逃げ惑う
同胞の姿が、私にはこの上なく滑稽(こっけい)に映った。彼らは殺される瞬間にも、
誰が自分の殺人者であるかを知らないのである。
私に彼等と何のかかわりがあろう。
私はなおも笑いながら、眼の下に散らばった傷兵に背を向けて、径を上り出した。

「天皇陛下様。大日本帝国様」
と彼はぼろのように山蛭をぶら下げた顔を振りながら、叩頭(こうとう)した。
「帰りたい。帰らせてくれ。戦争をよしてくれ。俺は仏だ。
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。なんまいだぶ。合掌」
しかし死の前にどうかすると病人に訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬間、
彼は警官のような澄んだ眼で、私を見凝(みつ)めていった。
「何だお前まだいたのかい。可哀(かわい)そうに。俺(おれ)が死んだら、
ここを食べてもいいよ」彼はのろのろと痩(や)せた左手を挙げ、右手で
その上膊部(じょうはくぶ)を叩(たた)いた。

私がその腕から手を放すと、蠅が盛り上った。皮膚の映像の消失は、
私を安堵(あんど)させた。
そして私はその屍体の傍(そば)を離れることは出来なかった。
雨が来ると、山蛭(やまひる)が水に乗って来て、蠅と場所を争った。
虫はみるみる肥(ふと)って、屍体の閉じた眼の上辺から、睫毛(まつげ)のように、
垂れ下がった。私は私の獲物を、その環形動物は貪(むさぼ)り尽すのを、
無為に見守ってはいなかった。もぎ離し、ふくらんだ体腔(たいこう)を
押し潰(つぶ)して、中に充(み)ちた血をすすった。
私は自分で手を下すのを怖れながら、他の生物の体を経由すれば、人間の血を
摂(と)るのに、罪も感じない自分を変に思った。
この際蛭は純然たる道具にすぎない。他の道具、つまり剣を用いて、この肉を裂き、
血をすするのと、原則として何の区別もないわけである。

この物体は「食べてもいいよ」といった魂とは、別のものである。
私はまず屍体を蔽った蛭を除けることから初めた。上膊部の緑色の皮膚
(この時、私が彼に「許された」部分から始めたところに、私の感傷の名残を認める)が、
二、三寸露出した。私は右手で剣を抜いた。
その時変なことが起った。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。
この奇妙な運動は、以来私の左手の習慣と化している。
私が食べてはいけないものを食べたいと思うと、その食物が目の前に出される前から、
私の左手は自然に動いて、私の匙(さじ)を持つ方の手、つまり右手の手首を、
上から握るのである。私が行っては行けないところへ行こうと思う。
私の左手は、幼時から第一歩を踏み出す習慣になって
いる足、つまり右足の足首を握る。そしてその不安定な姿勢は、私がその間違った
意志を持つのを止(や)めたと、納得するまで続くのである。

万物が私を見ていた。丘々は野の末に、胸から上だけ出し、見守っていた。
樹々(きぎ)は様々な媚態(びたい)を凝らして、私の視線を捕えようとしていた。
雨滴を荷(にな)った草も、或(ある)いは私を迎えるように頭をもたげ、
或いは向うむきに倒れ伏して、顔だけ振り向いていた。
私は彼等に見られているのがうれしかった。

「あたし、食べてもいいわよ」と突然その花がいった。私は飢えを意識した。
その時再び私の右手と左手が別々に動いた。手だけでなく、右半身と左半身の全体が、
別もののように感じられた。飢えているのは、たしかに私の右手を含む右半身であった。
私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、
それ等な実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。
生きているからである。

この垂れ下った神の中に、私は含まれ得なかった。その巨大な体躯(たいく)と
大地の間で、私の体は軋(きし)んだ。
私は祈ろうとしたが、祈りは口を突いて出なかった。私の体が二つの半身に別れて
いたからである。私の身が変わらなければならなかった。  3につづく






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野火 3

2015-10-13 12:52:51 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
2020年2月27日(木)13:00から、塚本晋也監督・主演の『野火』が
 NHKBSで放送されます。

もし私が神に愛されているのがほんとなら、何故私はこんなところにいるのだろう。
こんな蔭のない河原に、陽(ひ)にあぶられて、横たわっていなければならないのか。
雨は来ないか。水は涸(か)れ、褐色の礫(こいし)の間に、砂が、かつて流れた
水の跡を示して、ゆるく起伏しているだけである。
雲もなく、晴れた空は、見上げると、奥にぱっと光が破裂する。眼を閉じる。
何故、こんなに蠅が来るのだろう。唸って飛び廻(まわ)り、干いた頬(ほお)に
止まって、むずむず動く。眼とか鼻孔とか口とか耳とか、やわらかいところを、
大きな嘴(くちばし)でつつく。
何故私の手は、右も左も、蠅を共に追い払おうとしないのか。私の体はただだるく感じる。
しかし私の心は、自分が生きなければならないという理由だけで、他の生物を食うのは
止(よ)そうと決意した以上、自分が食われるのを覚悟しなければならぬ、
だから私の手は、私の粘膜を貪る昆虫(こんちゅう)を追おうとはしないのだと
思う。眼だけは勘弁してくれ、見る楽しみだけは残しておいてくれ。……

この田舎にも朝夕配られて来る新聞の報道は、私の最も欲しないこと、
つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、
それが利益なのだから別として、再び彼等に欺(だま)されたいらしい人達を
私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇(あ)ったような目に遇うほかは
あるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、
半分は子供である。

不本意ながらこの世に帰って来て以来、私の生活はすべて任意のものとなった。
戦争へ行くまで、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。
それが一度戦場で権力の恣意(しい)に曝(さら)されて以来、すべてが偶然となった。
生還も偶然であった。
その結果たる現在の生活もみな偶然である。今私の目の前にある木製の椅子(いす)を、
私は全然見ることが出来なかったかも知れないのである。
もし私の現在の偶然を必然と変える術(すべ)ありとすれば、それはあの権力のために
偶然を強制された生活と、現在の生活とを繋げることであろう。
だから私はこの手記を書いているのである。

思い出した。彼等が笑っているのは、私が彼等を食べなかったからである。
殺しはしたけれど、食べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、
私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志では食べなかった。だから私はこうして
彼等と共に、この死者の国で、黒い太陽を見ることが出来るのである。

もし私が私の傲慢(ごうまん)によって、罪に堕(お)ちようとした丁度その時、
あの不明の襲撃者によって、私の後頭部が打たれたのであるならば――
もし神が私を愛したため、予(あらかじ)めその打撃を用意し給(たも)うたならば――
もし打ったのが、あの夕陽の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人である
ならば――
もし、彼がキリストの変身であるならば――
もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば――
神に栄えあれ。  (引用ここまで)

※レイテ島での日本兵の戦没者は約8万人と推測され、フィリピン全体では約50万人に
 のぼった。そのうちの8割が飢餓や病気による戦病死と言われている。
 2014年7月13日の私のブログ「ゆきゆきて、神軍」にも「人肉食」のことが
 書いてあります。鬼気迫るドキュメンタリーなのでお奨めします。
 DVDを借りることができます。





(画像はお借りしました)

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