今日は、長崎被爆63周年です。2003年8月9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、被爆者を代表して初めてろうあ者が挨拶を「手話」でしました。被爆者の山崎榮子さん(当時77歳)でした。山崎さんは生まれた時から耳が聞こえず、話すこともできません。山崎さんは、手話で被爆体験を学校などで語り続け、その生き方は、NHKテレビの番組でも取り上げられました。
以下は、式典での山崎さんの挨拶の内容です。
「私は、生まれながら耳が聞こえず、言葉を話すことができないろうあ者です。1945年8月9日、一番おしゃれをしたい年頃の18歳でした。私は、疎開先で、バラックの家を建てる両親の手伝いをしていました。その時、突然、目の前が明るくなり、オレンジ色の光を放って広がるものが見えて、ものすごい勢いで床にたたきつけられました。
爆心地近くの自宅には、3歳年上の姉が待っているはずでした。地面をたたきながら泣く母の様子から、姉が死んだことを悟り、大声で泣きました。
被爆者が後遺症に苦しみ続けていると聞かされたのは、ずいぶんたってからのことでした。ろうあ者は、長い間、原爆の実態を知ることができませんでした。
私にできることは、亡くなった多くのろうあ被爆者の仲間たちに代わり、この目で、この肌で感じたあの出来事を語り続けることです。命が続く限り、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り続けていくことを誓います」
以下は、式典での山崎さんの挨拶の内容です。
「私は、生まれながら耳が聞こえず、言葉を話すことができないろうあ者です。1945年8月9日、一番おしゃれをしたい年頃の18歳でした。私は、疎開先で、バラックの家を建てる両親の手伝いをしていました。その時、突然、目の前が明るくなり、オレンジ色の光を放って広がるものが見えて、ものすごい勢いで床にたたきつけられました。
爆心地近くの自宅には、3歳年上の姉が待っているはずでした。地面をたたきながら泣く母の様子から、姉が死んだことを悟り、大声で泣きました。
被爆者が後遺症に苦しみ続けていると聞かされたのは、ずいぶんたってからのことでした。ろうあ者は、長い間、原爆の実態を知ることができませんでした。
私にできることは、亡くなった多くのろうあ被爆者の仲間たちに代わり、この目で、この肌で感じたあの出来事を語り続けることです。命が続く限り、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り続けていくことを誓います」