トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

「草の乱」 秩父困民党と武州困民党

2008-05-11 21:08:13 | 民衆の歴史
 透析ベッドシアターは、色々な映画を上映します。最近は「それでもぼくはやってない」。もうじき裁判員制度が始まりますね。マイノリティな人に関するものは、「メゾン・ド・ヒミコ」(ゲイの老人の共同ホームが舞台)、「ジョゼと虎と魚たち」(障害者との恋の顛末)、「風の歌が聴きたい」(ろうのトライアスロン選手の生き方)※良く似た題の「風の歌を聴け」は村上春樹原作の作品です。
 興味深かったのは、トルコ映画「イラク―狼の谷―」でした。イラク戦争をアラブの世界から観た作品です。当然、アメリカ本国での上映は禁止です。
 秩父事件120周年を記念して作られた、神山征二郎監督の「草の乱」は、最近の映画には珍しい民衆運動を描いた作品でした。
 1884年(明治7年)に起こった民衆の武装蜂起の話です。「圧政を変じて良政に改め自由の世界として人民の安楽ならしむべし」がスローガンでした。原因は、松方デフレ政策・軍備拡大の増税・世界恐慌による生糸輸出の激減による、養蚕農民の生活破綻でした。農民に破産が続出し、負債も増える一方でした。地元の自由党員と名主、侠客などが指導者となり、①高利貸に対する負債据置年賦返済②県への学校の3カ年の休校③内務省に雑収税の減少④村吏に村費の減少などの要求をもって秩父困民党を組織します。彼らは郡役所や警察に何度も請願を出しますが却下され、高利貸との個別折衝も決裂します。そこで11月1日夕刻に、秩父郡下吉田村椋神社に、埼玉・群馬・長野の農民数千人が集結して、埼玉県庁打ち破り、東京での世直しを決行しようとします。しかし、明治政府から軍隊が派遣され、秩父困民党は壊滅します。官憲に囚われた者のうち、死刑12名(執行8名)・無期徒刑はじめ懲役刑約140名・罰金、科料3600名超。
 指導者の1人に秩父の生糸や絹を商う商家の主人だった井上伝蔵がいましたが、彼は包囲網を突破して行方不明になりました。大正7年、北海道の北見国の村で、伊藤房次郎がいまわの際に自分の妻や子供を枕元に呼び寄せ、実は自分は秩父騒動の時に天皇の政府に反抗し、死刑判決を受けた井上伝蔵で、今まで35年逃げ切ったが、もう隠すことはない、秩父へ電報を打て、井上伝蔵はここにいるぞ、と遺言をして亡くなったそうです。映画でもこの史実を冒頭で描いています。彼は死ぬまで、自分の行動の正当性を確信していたのです。映画の中で、官憲が騒動を抑えないと八王子の農民に波及するという事を言っています。事実、その歳の8月10日に武州困民党の騒動が起きていたのです。
 八王子困民党も松方財政のために経営破綻に瀕していた民衆の窮乏を救おうとした民衆運動でした。それに対して、明治政府は非常に激しい弾圧を加え、横浜から増援部隊を繰り出して八王子困民党を押さえつけ、200余名を逮捕しました。この時の川口村の塩野倉之助らの運動方針は、穏便に請願行動をやろうとするものでした。しかし、警察が先制攻撃をかけ、書記の町田克敬を八王子警察に拘引してしまいます。そのため、農民たちがひよどり山に集結し、自分たちの代表を奪え返しに行こうと叫ぶのを、頭取の塩野倉之助が自分一人で行くと言って、自分が犠牲になるのを覚悟して歩き出すわけです。そのあとを農民が追った。結局八王子警察は人でいっぱいになった。220数人全員が逮捕され、剣道場に押し込められ、警官(鹿児島出身の士族)に暴行を受け、釈放されて出てきた人たちは、ほとんど障害者状態だったそうです。若き日の北村透谷もその当時、川口村近辺にいたので、そういう状態を見ていた可能性があるといわれています。
 その後、8月10日の武州困民党の騒動が起こります。今の神奈川県の原町田の農民も含め、数千人の農民が御殿峠に集結して、いよいよ八王子の金貨会社を襲う事になる。結局は弾圧されますが、秩父事件と違うのは、自由党員がこうした動きを抑えようとしたことです。

 今の日本人は、怒りを行動で示すことが無くなった。民主主義を手に入れたのにもかかわらず。地元の名も無き人の運動も含めて、色々な事を考えさせてくれる映画でした。透析時間を、有効に使えました。さて、これから何を見ようかな。
 


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