65歳前の介護保険 その２

　火曜日の透析後、ロッカー室で彼に文句を言ってやった。彼は、帰りの夜道、雨が降ってきて、運転が怖かったという。おいらの方が、よっぽど怖かったよ。怒られたという。誰にとは聞かなかったが、この事を知った人全部にだろう。

　彼の入院中、病院スタッフにもかなりわがままだったらしい。彼が、群馬に働きに行った原因の一つは、一緒に暮らしていた母親との確執だ。無年金の彼は、母親のもらう遺族年金を頼って生活をせざるを得ず、母親とも相性が良くなかった。ある意味、わがままに育てられたのだろう。喧嘩でもしたのだろう。以前働いていた群馬県に職を求めた。以前働いていた塗装屋で仕事を始めたのだが、透析しながらの肉体労働は無理だったのである。それまで、自由気ままに一人暮らしを楽しんでいた過去に引きずられたのだ。人は、今の生活に満足しないと不確かな明日より、美化された過去に心を奪われる。彼にとっては、群馬は栄光の土地だったのかもしれない。頭の中の群馬と、現実の群馬は違って当然なのだが。結局は、脳出血になって生死の境をさまよったのも、彼の無理な群馬行きが原因だった。彼は、それを母親のせいにしている。人は、得てして現実を見ようとしない。彼が、今回車で群馬を目指したのも、未だ過去の夢から覚めることができなかったからだろう。行けばそこに何かが待っているという期待感。そういえば、先月も群馬で生活したいと言っていた。今行っても、知り合いには迷惑がられるのが現実なのだろう。でも、いい思い出だけなら大事に持ち続けていて欲しい。
　彼の病院への見舞いの度に、色々な物を買ってくるように頼まれた。持ち込み禁止の食べ物を断るのは大変だった。ある時は、駅に着くなり、メールで「孫の手」を買ってくるように頼まれた。知らない街を散々探し回ってやっと手にすることが出来た。期待に添えればそれで満足だ。そのくらいだったら、おいらにも出来るからね。
　ある時、見舞いに行ったら、丁度リハビリに行くところだった。おいらは、部屋で待っていようと思ったが、作業療法士の女性が見学したらと言ってくれた。１度、現場を見てみたかったので２人について行った。訓練室で彼のリハビリを見ていた。部屋には、もう一人初老の男性が不機嫌そうな顔で訓練していた。自分の娘か孫の年齢ほどの作業療法士が指導している。思うように動かない身体と、子供扱いされているような気持ちからか、ついに切れて履いていた靴を放り投げた。それを見て悲しくなった。その人が今まで築きあげてきた人生が、壊された感覚なのだろう。どんなに、過去における社会的に地位が高かったとしても、病院では一人の患者でしか過ぎない。リハビリテーションには心理面、精神面の支援も必要のようだ。
　彼のよこすメールの文面で、回復ぶりがうかがわれた。はじめの頃は、ひどい日本語だった。言葉がだんだんとまともなものになる。ところで、彼がこの病院に転院していた時には、脳疾患の急性期の治療はすでに終わっており、後はリハビリ中心の入院生活だった。しかし、その年に、脳疾患のリハビリの上限期間は１８０日に決められた。また、１つの病院には３か月入院するのが限度だった。それ以上は診療報酬額がぐっと減らされるのだ。そのことを彼に話しておいた。しかし、理解しようとしない。病院側で、生活保護の申請を手伝ってもらったりして、病院にいれば人並の扱いを受けられるので、出来るだけ長く入院したいようだった。本来は、リハビリ終了後、退院するのだが、母親との確執から元の家には帰りたくないらしい。おいらは、このままでは社会的入院を専門とする病院に転院させられると危惧を伝えた。医療というより、行き場の無い病人を預かることが主な業務内容の病院に行くことになることを説明した。でも、分かってもらえなかった。
　案の定、今の病院から、東京のもっと奥まった所にある病院への転院を勧められたのだ。