9/17 夕 雨
ゆっくりやってると、ぜんぜん終わらないメキシコ旅行記。そろそろ記憶も薄れてきてるような…。
テオティワカンからメキシコシティへ戻り、メキシコ国立人類学博物館へ。ここまでなんとか持っていた空は決壊し、遂に大雨が降り出す。しかし、この旅は雨神に祝福された旅。アンダーパスのような場所でバスを降りて博物館の入り口へ向かうと、傘は必要の無いほどの小降りになっていた。
しかし、この博物館、地域や時代ごとに12室もの展示室があるのに、滞在時間はわずか1時間半。残念ながら、ガイドさんに連れられてのツアーはテオティワカン、アステカ、マヤの三つのみ。
時間さえあれば、全館回ってみたかったのだが、いったいどのくらいの時間がかかるのだろう。上野の科学博物館でさえ、最初に行ったときは朝から入って、空腹に耐えられずに出てきたのは午後2時だったからな。
ちなみに、国立人類博物館は飲食物完全持ち込み禁止。ちゃんと見て回ろうとすると一日じゃ足りないと言われるが、中にカフェテリアがあるのかどうか見なかったし、飢え死にする前に、絶対に乾き死にする自信がある(笑)
なお、入場ホールでは「日墨交流400周年 交流の奇跡展」なるものの宣伝で、NHKスペシャルらしき映像が流れていた。こんな番組。あったっけ?
さてまずは、今日行って来たテオティワカンの部屋へ。テオティワカン遺跡はすっかり整備されて、山のある公園みたいになっていたが、さすがに発掘物は発見場所ではなく、この博物館にすべて収められているという。地図やら何やらの紹介ゾーンを越えていくとドドーンと見えてくるのがケツアルコアトルとトラロックの顔が並んだでかい壁。ケツアルコアトルの神殿が復元されたものである。ケツアルコアトル、トラロック、ケツアルコアトル、トラロック、……。
牙をむき出していても、まんまるな眼なケツアルコアトルと、丸眼鏡にグルグルほっぺなトラロックはどちらもどことなくユーモラスで、それでいて神々しい。まさに神様という感じだが、太陽のピラミッドや月のピラミッドにはこの二つはレリーフされていないんだよね。そういった意味では、テオティワカンの主神ではなかったのだろう。故意に埋められていたという話もあり、さらに古い文化の神様なのかも。
それじゃ、主神はなんだったのかというと、これが主神殿である月のピラミッド前にあった雨の神様。トラロックも雨の神様なんだが、ちょっとデザインが違うし、彫刻様式もことなる感じ。やっぱり、実は大幅に時代が違うんですかね。
そもそも、テオティワカンがアステカ文明の遺跡じゃないというのは、ちょっと詳しい人じゃないと知らない話であるうえ、さらにそのテオティワカンにも様式が異なるくらいの文化の差があるというのは、この地まで来ないと実感できないかもしれません。
素人目には、まん丸眼とグルグル頬っぺが特徴的な様式と、微妙に写実的な様式に明らかに分けられるんじゃないかと思います。これは時代の差なのか、何か大きな宗教革命でもあったのかという感じですね。あるいは、テオティワカンは当時の国際商業都市だったようなので、他地方の影響によって文化様式が変わっていったのかもしれません。テオティワカンはアステカ時代に既に遺跡になっていたものなので、詳細は良くわかっていないようですが、ピラミッドも生贄儀式用ではないし、本当に謎な文明だ。
他にもまん丸眼のお茶目なレリーフや、妙に写実的で不気味な土偶や、墓から見つかった人骨なんぞを眺めて次の展示室へ。
展示室の外の通路にも興味深い展示物があるので気を抜けません。これはマヤの球技で使用するボール。マヤの球技場は後日、マヤの遺跡で眼にする事になるのですが、これがその競技で使われた実物だとか。ただのゴム樹脂を固めただけの黒い塊にしか見えません。後ろに見えるゴールの穴とさほど大きさも変わらないようだし、本当に球技のルール(膝、肩、腰などで打ち合って、壁のゴール穴を通す)は合っているんでしょうか。いや、どう考えても無理だって!
続いて突入したのがアステカの展示室。ここはソカロ広場下から発見されたものが中心に展示されており、館内でも最大の広さを誇る。
アステカといえば、生贄。これはその生贄の心臓を乗せたといわれる台。真ん中に心臓を置き、流れ出る血潮が溝を流れたという。本当かね。でかすぎじゃねぇの。酒とか注いだんじゃないのかね。まったく、エグイわぁ。これを見たときに、日本人としては酒船石を思い浮かべずにはいられないのですが、あれも実は生贄用だったりして……。
そして、出ました鷲の戦士像(写真奥)。2007年にあった上野のインカ・マヤ・アステカ展でも見たよ、これ。思い返せば、この企画展が、インカ派からマヤ派、アステカ派に乗り換える転機だったんだよな。これが無かったら、今回の旅行先もメキシコではなく、ペルーになっていたかもしれない。とにかく、メソアメリカの古代文明は調べれば調べるほどわからないことが多くなって興味深いです。
……ところで、手前の像は……あんまり突っ込まないようにしよう。
そしてそして、さらに出ましたアステカ・カレンダー。でかい! こんなのが工事中に出てきたら、さすがにびびるだろう。しかし、見れば見るほどカレンダーに見えません。説明を聞いても、カレンダーというよりは干支の図案とか、その手のものだよね。それとも、今日を示す印をこの石版の上に置いたりしていたんでしょうか。二つの歯車を組み合わせてガリガリやってたのはこれじゃないし。
それはともかく、このレリーフの格好よさは異常。RPGでラスボスのいる部屋の扉に書いてあってもおかしくない。というか、積極的に書いてあるべき。
メキシコの10ペソコインにはアステカ・カレンダーの中央部の図柄があって、やけに格好いいんだが、空港で気付いたときには使ってしまっていて手元に残ってなかった。残念。なお、その他のコイン(5ペソ、2ペソ、1ペソ)にもアステカ・カレンダーの図柄の一部が使用されています。
アステカのデザインは、テオティワカンのお茶目な図案とは異なり、おどろおどろしい系のヒトガタが多いように思った。これはアステカ帝国が支配力を高めるために使用した威圧的なデザインが多いということなのでしょうか。ただ、入り口のジャガーくんはちょっとお茶目だったかも。
他にも、おどろおどろしい女神像やら、ケツアルコアトルらしき格好いい頭部やら、生贄台を聖水入れに改造しちゃったものやら、いろいろ眺めて、名残惜しくもマヤのゾーンへ移動。
途中、偶然にもオルメカヘッドを目撃。オルメカの部屋には入れなかったけど、通りすがりに写真だけパチリ。『太陽の子エステバン』とか想い出す。あれ、ナディアで見たんだったっけ?
マヤの展示室ではマヤ文字のレリーフやら、マヤ人の土偶やら。マヤはアステカ、テオティワカンとは離れたユカタン半島の文明ということで、ちょっと雰囲気が違うかと思いきや、石のレリーフのタッチはあまり変わらない。しかし、マヤでは神々のレリーフではなく、人物のレリーフが多いように感じました。それは土偶のデザインによく表れているように思います。
独特の風習で頭を扁平にしたマヤ人を形取ったかなり精巧な土偶、というかここまでくると銅像ならぬ土像ともいうべき人物像が数多く置いてある。その風貌は、やはりアジア人に似ている。レリーフや図案だとはっきりとマヤ風というのがわかるのだが、なぜか土偶となると不思議なもので、中国の偉いお坊さんですとか、関羽像ですと言われても違和感がない。この手のものはアステカでは見ませんでした。
そして、定番のチャックモール。生贄の心臓置き場。これはチチェンイツアのチャックモールで、現地に行っても見られないので、ここで見る。どのチャックモールにも共通なのだが、この表情がなんともいえない。すべてを諦めて悟りを開いた顔にも、生贄にされることが理解できずに呆然としている顔にも、笑えないギャグを聞いてポカンとしている顔にも見える。
生贄の儀式はマヤ人本来の文化ではなく、アステカなどとの異文化交流で入ってきたものらしい。なので、チチェンイツアにはチャックモールがあるが、マヤの古い遺跡ではチャックモールは見つかっていないそうだ。こんな文化、わざわざ広めなくてもいいのに。
他に興味を惹いたのが、逆さ釣りの神の像。これ、どっかで見たことあるよ。シカンの墓で首を切り落とされてさかさまに埋葬されていた人物なんじゃないの、これ。ジャングルを越えて、南米まで文化の道は繋がっているんだよ、きっと。ロマンだねぇ。
他にもパレンケで見つかったヒスイの仮面をかぶった王の墓の復元展示や、ククルカンの頭部やらマヤ文字碑文やらマヤ文字文書やらを眺める。
そう、マヤは紙を持っていたので書物が残っているんですよ! しかし、また阿呆なキリスト教徒が全部燃やしてしまったので、全世界に3冊しか残っていないとか。本当に、キリスト教徒って阿呆だよね。というか、すべての一神教徒は阿呆だ。
そんなこんなで、短いながらも充実した博物館巡りはおしまい。
再び振り出した雨の中をバスで移動し、夕食のレストランへ。トルティーヤのフルコースだが、本場のトルティーヤはラードが強すぎて、これで包んだタコスはあんまり食えたものじゃない。名物に旨いもの無し。
明日は早朝から飛行機で移動。目指すはジャングルに覆われたユカタン半島だ。