PART4 ベッド転落事件
引っ越しをしたその日。
キララの飼い主は、私の荷物の運び入れが終わった午後、
マックのグラコロ・バーガーの差し入れで、「大変だったな」とねぎらってくれた。
しかし、その遅いランチでエネルギーをチャージした私が荷解きをはじめたのを見計らい、
「ちょっと仕事があるから」と、もごもご言い訳をして車でどこかへ出かけてしまった。
それきり、なんの連絡もない。
本格的に同居をはじめた当日なのだから、
飼い主に電話かメールで「今、どこにいるの?」「帰りは何時になるの?」
問いただすべきだったのかもしれないが、
そのときの私には、そんな気力も体力も残っていなかった。
よくよく考えれば、あの差し入れのグラコロ以降、なにも口にしていなかったが、
疲労のあまり、食欲もない。
髪を乾かし終えた私が、半開きになっていた寝室のドアを開けたのは深夜だった。
きちんと整えておいたはずのベッドは、見事なまでにくしゃくしゃになっており、
その真ん中に茶色の大きな体が横たわっていた。
たぷたぷのお腹が呼吸にあわせ、規則正しく動いている。
下着の一件を問いただし、注意しておかなければと思ったが、私は言葉を飲み込んだ。
この子になにを言ったところで、結局、理解してもらえないに決まっている。
それよりなにより、とにかく私は引越しで疲れ果てていた。
昨夜は一人暮らしをしていたアパートの荷物梱包に追われ、一睡もしていなかったのだ。
無言のままベッドの片隅に潜り込むやいなや、私は深い眠りに引き込まれた。
夢を見ていた。
切り立った崖から何者かに突き落とされる、そんな鬼気迫る物騒な夢だ。
月明かりだけの荒涼とした崖っぷち。
「やめて!!」と叫びながら、私は岩陰から枝を伸ばしている木にしがみついた。
これは夢でしょう。だったら早く醒めて。
どこか冷静にそう思いながらも、とりあえず必死に枝につかまる私に゛何者か゛は容赦なく迫りくる。
眼下には荒い波が打ち寄せる黒々とした海が見える。
ここから落ちれば、命はないだろう。私は身震いした。
もともと私は腕の力が弱く、斜め懸垂だって数回しかできない。
こんな状態で持ちこたえられるはずもない。
夢だとしても、冬の荒海に落ちるのはごめんだ。
早く・・早く目を醒まさなければ。
しかし、疲労と睡眠不足を伴い濃度の濃い眠気が意識をくもらせている。
かろうじて寝返りをうとうとして、やっと私は気づいた。
夢ではなく、現実の世界で゛何者か゛がものすごい力で、
私の体をベッドから蹴り落とそうとしていることに。
犯人はキララだった。
「えっ!?」
起き上がろうとした私の体を彼の脚は強引に押しやる。
その脚力たるやすさまじく、結局私はベッドの下に蹴り落とされてしまった。
「ねえ・・・なんでこんなことするの?」
呆然と冷たい床にぺたんと座り込んだまま、私は彼に抗議した。
引越しの荷ほどきで忙しい最中、夕方お散歩にも連れて行ったし
(お気に入りの散歩コースをかなりショートカットはしたが)
晩御飯だって、ちゃんとあげた。
靴下のことも下着の件もあえて責めたりしなかった。
せめて、朝までゆっくり眠らせてくれてもいいではないか。
キララは何事もなかったかのように両脚をまるめ、ベッドの真ん中で寝たふりをしている。
話しかけると、閉じたまぶたがぴくぴくするので、すぐに寝たふりだとバレてしまう。
しかも、私が愛用している羽毛枕にちょこんと頭を預けたりしているのが、また小憎らしい。
「お願い、眠らせて」
口調を変え懇願してみたが、彼は素知らぬふりを決め込んでいる。
つい昨日まで使っていたシングルベッドは、処分してしまったので、私が眠る場所はそこしかない。
真冬の深夜。
部屋の空気は冷えきっている。
エアコンの温度設定を高くした私は、そろりそろりとベッドの隅に居場所を求めた。
「ああ寒い」
私は、くしゃくしゃになった毛布をかき寄せ、凍えそうな体をくるんだ。
「ほんと、性格悪いんじゃない!?」
背中越しに捨て台詞を吐くと、キララはふんっと鼻を鳴らした。
これは後に動物病院へ連れて行ったとき判明することなのだが。
当時、三歳半だったキララの体重は四十五キロもあった。
ゴールデン・レトリバー成人男子の平均体重は三十キロ前半なので、かなりの肥満体だ。
のみならず、長い間、お風呂に入れてもらっていなかったのか、
触ると油染みた嫌な感触がてのひらにまとわりついた。
おまけに、誰に愛情を求めたらいいのか探るような、猜疑心をにじませた目つきをしていた。
とはいえ、なにかおねだりしたいときだけ、愛らしいしぐさをみせたりする。
つまり、私の同居人は難アリのルックスの上、捻じ曲がった性格の犬だったのだ。