PART1 出逢い
ゴールデン・レトリバーのキララ(♂)にはじめて出逢ったのは、しんしんと冷え込む晩秋の夜。
西新宿にある、熊野神社・交番の前だった。
新宿駅西口からタクシーに乗った私は、
「近くて申し訳ありませんが、熊野神社の交番前までお願いします」
運転手に告げた。
歩けばたっぷり二十分はかかるが、車なら五分足らずで着くはずだった。
その晩、私は三年前に別れた彼と再会の約束をしていた。
あのあたりへ行くのは、何年ぶりのことだろう。
煌煌と明かりが灯る高層ビルの谷間を走り抜けながら、私はぼんやり考えていた。
今さら彼に逢って、どうするつもり?
また同じことの繰り返しに決まっているのに。
家を出る直前まで、ぐずぐず迷い続けていたせいで、約束の時間をもう十分経過している。
少し遅れると連絡しておいたほうがいいだろうか。
それとも……このまま、彼に逢わず、帰ってしまおうか。
この期に及んで、まだ煮え切らない私は膝の上に置いたバッグから携帯を取り出した。
着信履歴をスクロールしながら、ふと窓から見える景色に目をやった私は違和感を覚え、その手を止めた。
「もしかして、道が違う……かも」
あたりを見渡しつつ運転手に問いかけると、
「ジツは福岡から出てきたばかりで。今日が初日なもんで。ここいらの道、よくわからないんです」
まだ若い運転手は左にウィンカーを出し、ゆるやかに減速しながら、心細そうにこたえた。
福岡出身と聞いて、私の気持ちはふさいだ。
なぜなら、これから待ち合わせをしている相手と私が別れるきっかけのひとつに、福岡というキーワードがあったからだ。
こんなときに、よりによって福岡出身の運転者のタクシーに乗り合わせるとは。
なんて皮肉な偶然なのだろう。それとも不吉な暗示?
不自然に口をつぐんだ私に、
「もしかしてお客さんも福岡?」
運転手は馴れ馴れしく声をかけてきた。
「いえ」
ミラー越しの粘つくような視線を振り払った私の目に消防署の建物が映った。
私はそれほど方向感覚がいいほうではない。というより、どちらかと言えば方向音痴に属する。
しかし、そんな私にも、目的の場所から離れつつあることはわかった。
残念なことに、新米の運転手はカーナビをつけていない。
ハザードランプを点滅させ、停車した彼は助手席に置いてあった道路地図を手に取り、ページを繰りはじめた。
「ここで降ろしてください」
「やっぱ道が違いましたか?」
運転手は明らかに狼狽している様子だった。
「ええ。でも、歩きますから大丈夫です」
私は料金を支払い車を降りた。
記憶が確かなら、消防署の向かい側に中央公園があり、その端に目指す交番があるはずだ。
うす暗い闇に覆われた中央公園脇の道には人影もない。
落葉樹が葉を落とした植え込みの奥にはホームレスの集落があるらしく、
青いビニールシートや段ボールで作り込んだ゛家゛らしきものが垣間見えた。
「ねえちゃん、一人かい?」
突然、植え込みの陰から男が姿を現した。
服装は比較的こざっぱりしているが、手にはカップ酒。だいぶ酔っているのか、足元がふらついている。
酔っ払いに絡まれるのははじめてではない。
こういった場合、妙齢の女としては、無視するに限るという鉄則を私はすでに学びとっていた。
私は表情を硬くしてその場を通り過ぎた。
「なんだい、気取りやがって」
罵声にも似た言葉が背後から浴びせられたが、私は先を急いだ。コツコツとブーツのヒールだけが響いている。
もし、逆切れされて、背後から襲われたらどうしようと思うと、緊張感で背中がこわばる。
ようやく熊野神社交差点らしい明かりが見えてきたところで、私はほっとして歩をゆるめた。
二十分の遅刻だったが、待ち合わせをした交番の前に彼はいた。
彼の傍らには大きな犬のシルエットが見えた。
それがキララだった。