PART 38 天国に逝った小梅ちゃん
「そういえば」
膝丈のダウンコートに毛糸のマフラーで完全防備のディズニー・ママが
広場を見渡しながら言った。
「この頃、小梅ちゃん来ていないね」
「うん。私も気になっていたの」
遥之介・ママも心配そうに眉をひそめた。
キララが片想いしているマメ柴の小梅ちゃんをみかけなくなって一週間以上になる。
ここ数日、コートでは汗ばむほど暖かな日があった思えば、夜中に冷え込み、
霙まじりの雨が降る日もあり、天気予報のキャスターは、
「寒暖の差が激しいですから、体調をくずさないように、じゅうぶん気をつけてください」
と繰り返していた。
「小梅ちゃんのパパ、風邪でもひいたかな」
「風邪ならいいけど」
「そうね。もうお年みたいだから」
私たちは小梅・パパの体調を案じながら、そんな会話をかわしていた。
小梅・パパが公園に現れたのは、それから数日後のことだった。
傍らに小梅ちゃんの姿はない。
おまけに愛用の自転車のフレームはひどくひしゃげていた。
「お久しぶり。どうしていらっしゃったのか、みんな心配していたんですよ」
遥之介・ママが声をかけた。
「あれ? 小梅ちゃんは?」
私はあたりを見回した。
小梅・パパは私たちの問いかけには答えず、ゆっくりとした動作で自転車をとめたあと、
静かに口を開いた。
「小梅は亡くなりました」
そして広場を駆け回っているキララたちに遠い視線を向けた。
「えっ、どうして?」
「あんなに元気そうだったのに」
ディズニー・ママがベンチから立ち上がり、足の悪い小梅・パパに腰かけるよう促した。
「交通事故でした。ここからの帰り道、交差点を渡りかけたとき、
信号無視の車が突然、猛スピードで突っ込んできたんです。それで……」
彼は声をつまらせた。
「運転していた男は覚せい剤をやっていて、ほとんど意識がもうろうとしていたと、
あとで警察の人に聞きました」
「ひどい」とディズニー・ママは眉間に皺を寄せた。
「私のケガはたいしたことなかったんですけど、小梅はひどい怪我を負って。
そのまま息をひきとりました。小梅は私を守ろうとしてくれたのかもしれません」
いつも寡黙な小梅・パパがそんなに話すのははじめてのことだった。
「おとうさん、ご家族は?」
ディズニー・ママが問いかけた。
彼女は妊娠してからことに感情の起伏が激しくなっているようで、その瞳は潤んでいた。
「うちは女房と二人暮らしなんです。ただ女房は腰を悪くして今はほとんど寝たきりで」
小梅・パパはちいさくため息をついた。
「小梅と遊ぶのをとても楽しみにしていてね。
認知症も患っているので、まだ小梅が死んだことが理解できていないようです」
「お子さんはいらっしゃるの?」
遥之介・ママが訊いた。
「息子と娘が。でも私のケガはたいしたことがなかったので、一度、見舞いに来たきり。
みんなそれぞれ忙しくしているので仕方ありません」
私たちは彼にかける言葉もなく、しばらく沈黙した。
「じゃあ」と小梅・パパが腰を上げようとしたとき、
広場の向こう側にいたキララがこちらに駆け寄ってきた。
キララは小梅・パパに寄り添っているはずの彼女の存在を確認するように、
彼のまわりを一周し、彼のズボンの匂いを嗅ぎはじめた。
「あ、キララちゃん」
小梅・パパはわずかに微笑みながらキララに声をかけた。
キララは小梅ちゃんの痕跡を探し求めるかのように鼻をふがふがさせ、
ズボンにまとわりついて離れない。
「あのときはうちの娘を守ってくれてありがとうな」
『あのとき』とは、もう1年以上前のことになるが、この公園に大型犬のバーニーズがやってきて、
小梅ちゃんにからみはじめたときのこと。
小梅ちゃんは嫌悪感をむき出しにしてうなり声をあげていたが、
なにしろバーニーズは小梅ちゃんの何倍も体が大きい上、しつこい。
そのとき、小梅ちゃんからバーニーズの注意を引き離すかのようにキララが
全速力で駆け寄り、野放図なバーニーズに闘いを挑んだのだった。
「キララちゃん、元気でな」
彼はキララの背中をそっと撫ぜた。
そして「ああ、この感触」とつぶやき、キララの頭を抱きしめた。
きょとんとした表情を浮かべたキララは、微かにしっぽを振りながら、
小梅パパがその抱擁をとくまで、静かに佇んでいた。
「みっともないところをお見せして、すみません」
そう詫びて彼は立ち上がった。
「女房に小梅はどこにいるの?と訊かれると辛くてね。
小梅に似た犬をまた飼おうかとも思ったんですが、これから仔犬を飼って、あと十数年、
その子を看取るまで、こっちが元気で満足に世話ができるか」
言葉を濁した彼は自転車のハンドルに手をかけた。
「今日は、みなさんにお礼を言いたくて来ました。
今まで小梅がお世話になり、ありがとうございました」
ぎしぎし軋む自転車に乗った小梅・パパの背中はひとまわり小さくなったように見えた。
「ペットロスで鬱にならなければいいけど」
遥之介・ママがつぶやくように言った。
「それ聞いたことある」
ディズニー・ママが頷いた。
「ペットの死って家族をなくしたのと同じ、っていうか、
淋しさで立ち直れなくなっちゃうんでしょう」
「あまり考えたくないけど。犬の方が人間より寿命が短いから。
私もこの子が今、いなくなっちゃったらどうしようって、ときどき思う」
遥之介・ママは、最近、ここへ来るようになったミックス犬のアイちゃんと戯れている
遥之介くんに目をやりながら言った。
「だから、そのときのことを考えて、二世をもうけたり、もう一匹仔犬を飼う人が多いのよ」
あらかじめ、そんなふうに心の準備をしていたとしても。
実際に長く連れ添った愛犬を看取るというのは、耐え難いほどの喪失感を伴うものだと聞く。
しかし、小梅・パパのような高齢者は、その喪失感を埋めるため、新たに仔犬を飼おうと思っても、
自分の年齢と、仔犬の寿命を考えてしまう。
奔放に跳ね回り、「遊んで」とねだる仔犬に己の体力がついてゆけるのか、
また、その子が天寿を全うするまで、自分の生があるのか。
不思議そうに小梅・パパを見送っていたキララは、やがてまた広場へと駆け出していった。