明日元気になれ。―part2

毎日いろいろあるけれど、とりあえずご飯と酒がおいしけりゃ、
明日もなんとかなるんじゃないか?

グレーゾーン

2011-11-14 01:18:53 | 想い
今夜は久しぶりに、真夜中に1人、グラスを傾けながらパソコンに向かっている。
「こういう時間」をもたないとあかんなぁと思う今日この頃。

年をとるにつれて怠惰になっていく自分を感じる。
35歳くらいまで、信じられないくらい働いても「しんどい」と思ったことがなかったし、
ついこの間まで何事に対しても「面倒くさい」と思ったことがあまりなかったように思う。
それが今はどうだろう、なんだかしんどいなと思うことも増えたし、たまにいろんなことを面倒だと思う自分に気づいてはっとする。
これは年齢による「衰え」なんだろうか?

最初に書いた「こういう時間」というのは、「自分を見つめる時間」という意味。

20代後半は本当に忙しかった。
寝る時間もないほど働いていた。
だけど、「毎日」日記を書いていた。
昔から読んでくれている人はそれを知っていると思う。
本当に、「毎日」書いていた。何年間も。

あのパワーと情熱は一体どこに行ってしまったんだろう?

見方を変えてみる。
あの頃は書くことが「はけ口」だった。
今は「はけ口」を必要としていないほど生活が充実している。
だから書く必要がない。
パワーや情熱がなくなったわけではない。

そういう考え方もできる。

どっちも誇張していないし、どっちも正しい。

こういうニュートラルな考え方は悪くない。
でも、とても私らしくない。
卑屈で偏って、とことん自分を追い詰める。
そういう生き方のほうが似合っている気がするなぁ。
本人は疲れるけど

一年を振り返るにはまだ少し早いかもしれないけど、
40歳という年齢だからか、今年は本当にターニングポイントだったように思う。
いろんな面で、いろんな意味で。

いろいろと悩んでいる。
誰かに話したい気持ちもある。
でも、友達に会うと言葉は出てこない。
隠すとかそういうことではなく、ただ安心して「もういいや」という気持ちになるから。

文章にするのはこんなにも簡単なのに、話をするのはどうして難しいんだろう。
いつもあんなにペラペラとくだらない話は出てくるのだから、もっと大事なことを話せればいいのに。

この間、もんちゃんとの旅の途中、ようやく本当の意味での「話」ができるようになって、
「ああ、これから」というときに、旅の終わりの時間が来た。
二人とも「これからやったのに・・・」という思いでいっぱいだった。

帰りのバスの中で思い出した。
「旅は3日目から」だったなぁ・・・と。

これは私が昔、気に入ってよく使っていたフレーズ。
旅に出ても1日目は日常が抜けない。はしゃいだ気分とお客さん的な気分とで終わる。
2日目は日常が抜けてくる。旅を楽しみ始める。
3日目から、非日常が訪れる。ルーティンワークをこなすような毎日から離れる。実質的にも、心も。

そこから自分を見つめることがようやくできるのだ。

まさに3日目、やっと非日常が訪れ、本当の「話」ができるようになった頃、終わりが来た。
「話したりない!」と二人ともが言った。「これからやったのに」と。

旅に出ても3日目からやのに、日常の中で私に「話」なんてできるはずもなく。
ここもいろいろと書きづらくなってしまい、心がまとまらなくなってしまった。

だからだろうか、最近はいつも悶々としている。
自分の中の整理ができない。

でも、今日は少し書いてみよう。
うまく書けるかわからないが、少し書こう。

1ヵ月前くらいだろうか、夫の実家へ行った。
その時、おかあさんが言いにくそうに、「おめでたらしいよ」と言った。
夫の兄夫婦のことだ。

「わー、よかったですねー」と私はすぐ喜びの反応を見せたのだが、話は全く盛り上がらなかった。
他の話になってしまったので、「で、予定日はいつなんですか?」と無理やり話を戻さないといけないほどだった。

気を遣ってるんだなぁと思った。
そんな必要は全くないのだが、そういう話をしたことがないし、おかあさんにとったらタブーな話なんだろう。
その気遣いはとても嬉しかったが、不必要でもあった。

帰りのバスの中で、なぜかビートルズの「イエロー・サブマリン」が流れていた。
何の脈略もない。思い出もない。関連性もゼロ。
なのに、ずっと好きでもない「イエロー・サブマリン」が流れ続けていた。
(紙の上なら、「好きでもない」に傍点を打ちたい)

このときの気持ちを一言で表すなら、「あちゃー」という感じだ。
正直、落ち込んでいた。
でも、それは、例えば義理のおねえさんには子供ができて、自分にはできないとか、そういう感情ではなかった。
前から書いているように、自分はどうしても子供が欲しいわけではないし、それに対して何か努力をしているわけでもない。
だから、昼のメロドラマ的に「なんであの人にできて、私にはできないのー!」みたいなのは微塵もなかった。

でも、落ち込んでいた。

いつもの分析癖で、なんで落ち込んでいるんだろうかと分析してみたら、答えは簡単だった。
「もう理由がないから」

お兄さん夫婦は、結婚して7年目。
義理のおねえさんは最初から専業主婦で、特にこれといって没頭する趣味があるとか、そういうわけでもない。
だから、失礼な話だけれど、たぶん子供が欲しくてもできないんだろうなーと勝手に思っていたのだ。
それは環境として「産まない理由」は見つからなかったし、年も私より4つ下くらいで結構な年だから、不妊ということも大いにありうると思ったからだ。

夫のおかあさんは夫を含めて3人の息子を生み、体が弱いのにここまで育てあげた。
それなのに、孫を1人も見ることができない。(もう1人のお兄さんはまだ結婚していない)
それはあまりにも気の毒だと私は思っていた。

おねえさんが無理なら私が生まないと!
これが、私が子供を生もうかと考えた一番の理由だった。

それが、「おめでた」だと聞いた瞬間、「あ、もう理由がなくなった」と思った。
もう誰のせいにも、誰かのためにもできない。
「自分」がどうしたいか?
それだけが選択肢の決め手になる。

私はそのことに落ち込んでいたのだった。

落ち込むというより、恐怖に近かったかもしれない。
もう逃げられない、もう自分で決めるしかないという・・・

イエロー・サブマリンがずっと流れていた。

悩んでいる時間はもうない。
タイムリミットはもうそこまできている。
答えを出さないといけないのに、私にはどうしても出すことができない。

白黒はっきりさせないと気がすまない私だから、
答えが出なくなって迫られる「選択」はとても苦手だ。
昔も一度、別のことで「選択」に悩んだことがあったっけ。
世の中で一番嫌いなことがこの「選択」という作業だ。

グレーでいるのは気持ち悪い。
かといって、白黒もはっきりできない。
この感じが一番しんどい。
だから、最近落ち込んでいるんだろうなぁ・・・

でも、私は絶対に考えることから逃げたくない。
考えに考えて、それで出した結論だったら、どんなことになっても後悔しないと思うから。
昔、「いーーーーっつも何か考えてますよねー!」と、相場さんに言われたっけ(笑)

でも、自分の信条として、「反省はしても、後悔はしない人生」というのがある。
いつも100%で、ひたむきに、真摯に、できるだけのことをしたら、反省はしても後悔はしないだろうと思っている。
これまでもそうだった。山ほど失敗はあるけど。

それに、ちょこちょことだけど、友達に話をする中で、少しずつだけど心がまとまりつつもある。
プライベートすぎて書けない話もあるので、書けることだけ。

ちょっと前、ふみことあやと飲みに行って、その帰りにふみこと二人で立ち話をしていた。
だいたい上に書いたようなことを初めてふみこに話した。
「みんな不安だ」という経験者の話や、ふみこらしい冷静な判断をもらえた。
もう少し深く考えてみようと思えることがいろいろとあり、考え方が少しステップアップした。

もんちゃんとの旅の途中、もんちゃんが言ってくれた言葉も嬉しかった。
私が子供を生んだら、「絶対子育てがうまいと思う」と。その姿が容易に想像できると、言ってくれた。
私も子育てについての不安というのはないのだ。
もちろん、その子の性質もあるのだろうけど、私は、自分が母に育てられたように育てればいいと、単純にそう思っている。
感謝することも、物事の善悪も、美しいものを愛する心も、「教育はお金には変えられない財産」という考え方も、今私の核を作っている全部が母の教えだから。
学歴なんて捨てて就職活動もせずに「作家になる」と言った私を何の躊躇もなく応援してくれたのも母だった。
(無邪気に「早く直木賞とって!」といわれるのは困ったが・・・)
人の道にそれたことでなければ、私がやりたいことを絶対に否定することはなかった。
少ないけれど「好きな自分」というのは、全部母の影響を受けた自分だ。
だから、それを同じようにやればいいと、そう思っている。
でも、これは私の勝手な思いだったから、もんちゃんに肯定されたのはとても嬉しかった。

結局、私が悩んでいるのは、子育てではなく、その子の存在なのだ。
でも、それも、随分と楽になる言葉をかどやがくれた。
夏くらいだったろうか。
二人でワインボトルを2本あけた夜。

私は、自分が好きじゃなくて、いろんな劣等感で生きていくのがずっとつらかった。
でも、友達やいろんな人のおかげで、なんとか今幸せに生きている。
私はなんとかやってこれた。
だけど、私の子供はそうじゃないかもしれない。
「私は、私みたいな子が生まれるのが怖い。私はなんとかやれたけど、その子はわからない」
私はそう言った。
40歳にもなって、まだ自分のことで悩んでいて、自分のことで精一杯の私。
ただでさえ感情移入しやすいのに、そんな自分の分身みたいな人間がそばにいたらもう無理だ。

「私みたいな子が生まれたら、かわいそうやん・・・」
私のこんな言葉に、かどやが言った。

「じゃあ、その子には、また私みたいな友達ができるやん!」

あ・・・・?

一瞬、なんだかわからなかった。
だけど、その後、涙がボロボロこぼれて、お店だというのに止まらなくなってしまった。
(ワインボトル2本も大いに効いている)

「そんなことないよー」とか「なんとかなるよー」とか、そういう言葉を想像していたのに、意表をつかれた。
そうか・・・私みたいな子が生まれたら、その子には、またかどやみたいな友達ができるのか・・・
何の確信もない言葉だったけれど、なんて心強い言葉なんだろうかと思った。
やっぱり、すごいなぁ、この人は・・・と思った瞬間だった。

いろんな人に少しずつだけど機会があれば話もして、言葉をもらって、考えている。
答えはまだ出ない。
グレーゾーンの、一番しんどい時間。

でも、絶対に後悔しないよう、何が何でも考える。

とりあえず、今書けることを書いた。
次に会って、何か言葉があったらください。

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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
子どもができて、文章が変わった (アンデル)
2011-11-14 09:34:08
私は、実を言うと子どもという生き物がたいへん苦手でした。
大人と同じようにしか,
子どもと接することや話ができないので
(子ども用という言葉や態度がうまく出来ない性格で)
本当にちゃんと一緒に生きていけるのか、産む前はすごく不安でした。

でも、人にはそれぞれ、自然にというか、
「本能」というのがあって、何も考えずに赴くままに子育てをしている、自分がいました。

子どもが、いることでもうひとつ、それまでとは違う
別の人生がおまけ付きみたいに、生きられるです。

自分の知らない自分にも出会え、
なにより、自分のことより大切に、大切に守りたい人が
できる、ということは自分自身をある意味とても
“強く”します。
視野が狭くなる、と怖かったのが逆に
広がり、を持ったことに私自身驚きました。

あくまで、これは私の個人的な考え方なのですが、
自然に任せて、神様が必要だと与えてくだされば
「ありがたく授かり、
そうではなければ、今の夫婦ふたりの生活を
さらに充実させればいい。
子どもが出来たから、自分の大切なものを何か1つは
手放さなければならないということは、ないはずです。









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選択 (かおり)
2011-11-14 10:43:48
>アンデルさん

いろいろと大切な話をありがとう。

私もね、「子供ができたら何かを手放さなければならない」とは全く思ったことがないの。
例えば、仕事ができなくなるとか、
自分の時間がなくなるとか・・・
そういう「マイナス」は考えていないし、そこは不安材料ではありません。

むしろ、アンデルさんの言うように、文章が変わったり、強くなったり、プラス面が多いと思う。

じゃあ、なぜ・・・?って思うだろうね。
また今度ゆっくり話します。
ここでは難しいわ・・・

あっと言う間に今年も終わりそう!
もう忘年会の季節^^
またメールします。
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Unknown (サラブライト)
2011-11-14 10:56:13
義母さんも旦那さんも尾やさしい
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Unknown (サラブライト)
2011-11-14 11:01:16
すみません。途中で間違えてコメントしてしまいました。
かおりさんの旦那さんや義母さんはは優しいですね。
うちは会う度に聞かれます。
かおりさんとはまた考えや気持ちが違うかもだけど、タイムリミットはヒシヒシと感じながら過ごしています。
まわりの友人も独身が多いから私もまだその気分が抜けないのかな。
返信する
長いです・・・ (あや)
2011-11-14 11:15:41
かおりちゃんが悩むのはもっともなことと思います。子を持つか持たないかの選択は以前からあったけど、それは専ら「持たない」という決断をすることだった。それが、医療技術が進んだこととタイムリミットがあることで、今は「持つ」ことを決めなければならない。子を「持つ」ということは本当は考えて決めるようなことではなかったはずなのに、今どき、産もうと思ったら行動しなくてはならないから、「欲しいのか」「どれくらい欲しいのか」「本当に自分が子ども産んでいいのか」「本当にこんな世の中に子ども産んでいいのか」などなど、考えなくていいはずのことを考えなくてはいけなくなっている。望んだら子を手に入れられるかもしれない術があるから、理由を見つけてどっちかに片をつけなければいけなくなる。本当に切ない。こんなこと決めさせないでくれよって神様に泣き言を言いたくなる。自然に産まれたり、自然に産まれなかったりするものだったはずなのに。

と泣き言を言っていても、時間だけが過ぎていく。悩んで決めるしかない。どんな決断も尊いと思う。私自身は今は結局、「授かりもの」ということに尽きるなという心境です。どうしたらいいっていう答えは人それぞれ出すしかないので、気の利いたことは何も言ってあげられず不甲斐ないのですが、究極のところ、自分の欲求の度合いを自分に聞くことになるなあと思う。育つ環境とか子ども自身がどう生きていくかとか、そういうことは決断の決め手にはならないもんね。かどやさんのすごい言葉の通り、きっと子どもは子どもで自分の人生を生きていくのだろうから。だから、そういうことは全部取り払って、結局自分がどうしたいかになってくる。不遜を承知で、決めなくてはならない。

ところで先日、子がない不安を口にしたら、子も持つ方からは、「子をあてにはできないし、してないよ。」と応じられた。そのときは、正直ピンとこなかったのだけど、日がたつにつれてじわじわその言葉の意味に気づいてきた。私の不安は子がない不安じゃないし、人さまだって子があるからって不安でないわけではないのだなと。そんな当たり前のことが分かってなかったな。私の中のどこかでひがみ根性が育っていたのだな。人と話すってありがたいことだ~。なんか一人よがりかもしれないけど、何か言いたくて書いたよ!
返信する
難しいですね (かおり)
2011-11-14 12:30:07
>サラブライトさん

会うたびに聞かれるのもきついですねー。
そういう意味では、苦労はありません。

サラブライトさんもアラフォーでしたっけ?
自分に子供がいないと、どうしても独身や子供のいない人が周りに増えてくるので、
よけいに実感や焦りが出にくくなりますよね。

でも、本当にタイムリミット!
サラブライトさんもよい選択をしてくださいね。
返信する
それそれ!それやねん! (かおり)
2011-11-14 12:44:44
>あや

あなたは本当に文章力がある(笑)
私が書きたかったことを全部コメントで書いてくれた感じがする。
「それ!それやねん!」とパソコンに向かって叫んでしまったよ(笑)
100%、私の気持ちの代弁というくらいのものでした。

「持つ」選択の難しさ。
「持たない」ことを決めるのとは違う。
もっと「生命」や「人の人生」に対しての責任を迫られる。
神でもない、ただの人間の自分が、決意をして、お金や時間をかけて、医療に頼って、産み落とす。
それが悪いことなのではなく、その責任が重すぎて、簡単には選択ができない。

果たして本当にこんな世の中に産んでいいのか、それすら想いが定まっていないというのに。

例えば、その子が障害をもって生まれてきたら?
私は本当に後悔しないだろうか。

「母は強し」なんていうけれど、それは自然に授かったから受け入れられることだと私は思う。(人によると思うけど)
自分が選択して生めば、後悔することもあるかもしれない。
それが私は怖い。

人の人生を背負って生きていこうなんて気持ちはないけど、
産み落とした人間には、それなりの責任と覚悟は必要なはず。
まだ、それがない。

あやの言うように、結局は「自分の欲求の度合い」なんだろうね。
私もそう思っている。
だから、今は自分に問いかけて考えている。
もう少し時間が必要だなぁ(制限あるにしても)

コメントありがとう。
最後の「子をあてに」の話もめっちゃわかるねん!
また会ったときにゆっくり話を聞いてください。
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