明日元気になれ。―part2

毎日いろいろあるけれど、とりあえずご飯と酒がおいしけりゃ、
明日もなんとかなるんじゃないか?

ふつふつ。

2010-05-11 03:06:17 | 想い
夜中12時前にようやく原稿が書け、全部送信した。

同じ頃、夫が帰宅。
「カンパイして一緒にテレビみよう~」と言うので、
ビールで乾杯して、
日本酒(栃木の大那 純米吟醸)を味わって、
グレンリベット18年でしめた。

夫、就寝。

疲れているんだから私も寝ればいいのにと思いながらも、
グレンフィディック12年を飲みながら、「墓場鬼太郎」を読んでいる。

なぜか。

NHKの朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」にはまっているからである。

もともと私は水木しげるが大好きで。
「墓場鬼太郎」もドラマを見て買ったわけではない。
(注:ゲゲゲの鬼太郎ではない。それより初期の作品だ)
今から10年くらい前に復刻版が出たときにすぐ買った。
鳥取・境港の水木しげるロードには3回行っている。
水木しげるのエッセイなども読んでいる。

今、ドラマは録画してまとめてみているのだが、めちゃくちゃいい。
毎回、泣く。

中でも涙が止まらなかったのは、
一度打ち切りになった「墓場鬼太郎」が再開できることになり、
その1作目を向井理扮する水木しげるがひたすらに描くシーン。
……を、そっと見た女房がその姿に感動するシーンだ。

あんな大御所と自分を重ね合わせるなんておこがましいのはわかっているが、
モノを生み出すときの興奮や集中力が苦しいくらいに共感できて、
声をあげて泣きたいくらい感動してしまった。

「モノを生み出したい」
と思う情熱って、一体何なんだろうな、と思うことがある。
それが、人に認められるとか、認められないとか、
そんなことは全く関係なくて、
ただ、自分の内側からほとばしるように出てくる何かを
カタチにしなくては気がすまなくて。

あの感じを、私は確かに味わったことがある。
もう随分昔のことだけど。

たぶん、これは、誰もがもっている経験ではないのだと思う。
だからそう思えば、自分は何かを生み出してもいい人間なのか、と肯定する気持ちにもなるのだけれど。

そんなことを考えていて、最近ふと辿り着いた想いがある。
それは、「意外に自分は器用な人間だったのかな」ということ。
どちらかというと自分は不器用(手先とかではなく、生き方として)なタイプではないかと思っていたのだけれど、
案外そうではなかったのかなと。
本当に不器用な人間なら、フリーライターとして稼いだり、
塾で教えたりということはできなかっただろう。

器用に、生み出したいという情熱を捨てた。
その程度のものだったのかなと、今は思う。

不器用に、ずっと書きたいものを書き続けていたら、
違う人生があっただろうか?
とても貧乏で、でも、今持っていない何かを持っている人生。

そんなことをふと考える。

そんなことを考えるきっかけを作ってくれたドラマ「ゲゲゲの女房」。
水木しげるはやっぱりすごい。
結局、自分は、不器用で熱くて優しい人に惹かれるんだと思う。
そうありたかった自分と重ね合わせているのか。

しかし、本当に器用な人の仲間入りができるわけでもなく、
どこにもいけない自分をもてあましている。

こんな時、いつも読みたくなるのは、
なぜか萩原朔太郎の「月に吠える」で。

その中の「さびしい人格」が私は好きで、
それこそもう、100回、200回と読んだ。

  ああいつかも、私は高い山の上へ登って行った。
  けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのようにあこがれて登って行った。
  山の絶頂に立ったとき、虫けらはさびしい涙をながした。
  あふげば、ぼうぼうたる草むらの頂上で、
  おほきな白っぽい雲がながれてゐた。

長めの詩で、上記はほんの一部分なんだけど、
ここを読むといつも苦しくなる。
虫けらのようにさびしい涙がながれる。

文学は、いつも私を慰めてくれた。
だけど、決して優しくはなかった。

自分の心の奥で、消えることのない熱いもの。
全部捨ててしまえれば楽なんだろうけど、
器用でも不器用でもない、中途半端な私は、
ふつふつと燃えるカスみたいな情熱に
いつか空気を送り込んで燃え上がらせたいという欲望を

まだ、大事に持っているのかもしれない。