明日元気になれ。―part2

毎日いろいろあるけれど、とりあえずご飯と酒がおいしけりゃ、
明日もなんとかなるんじゃないか?

最近読んだ本 『悼む人』『利休にたずねよ』

2009-05-31 14:37:12 | 
夫と話していて、覚書程度でもいいから「読んだ本」の記録をつけていこう、ということになった。

GWが終わってからようやく本を読む習慣が戻り、
2冊読み終えたので、とりあえずその感想でも。
あまり時間をかけず、簡単に。

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★『悼む人』 天童荒太



とても不思議な物語だった。
「生」と「死」という重いテーマを扱っているのだが、
私にはどこか現実離れした感覚が常につきまとった。

このタイトルにもなっている「悼む人」とは、
主人公(であると言っていい)、静人という男性の呼び名。
彼は、新聞や雑誌、ニュースなどから「何らかの理由で死亡した人」の
情報を得て現場へ行き、その人の死を悼む。
そのために日本中を旅していた。

「何らかの理由で死亡した人」の理由は本当に何でもありで、
他殺、自殺、事故などを問わない。
年齢も性別も住んでいる場所も、いつ死んだかも問わない。
とにかく情報を得るたびに現場を訪れ、
周りの商店や家族などにこう尋ねるのだ。

「この方は、どなたを愛し、また愛され、
どんなことで人に感謝されていらっしゃいましたか」

わずかでもその答えを得られると、
片膝をつき、両手をそれぞれ上と下にやってから胸の前で重ねるという姿勢をとる。
もちろん、全く知らない人なのだが、
静人はこうやって死者のことを「覚えておこう」とするのだ。
この行為を「悼む」と自身が表現していた。

「悼む」ために旅を続ける静人。
なぜ?何のために?
読者はその答えを知りたくて先を読み進める。

また、ガンに侵され余命いくばくもない静人の母、
残忍な殺人や男女の愛憎がらみの事件を書くことを得意としている記者、
不幸な生い立ち、夫のDV、離婚、再婚、そして殺人まで犯してしまった女性、
この3人の<物語>も静人と関わりを見せながら進行していく。

「悼む人」の存在は決して皆に喜ばれるというわけではなかったが、
ある一部の人間にとっては救いにもなった。
人の「死」とは何なのか。残される人の思いはどこへいくのか。
さまざまな想いが巡る。

この本は決して「生きることの意味」を説くものではない。
むしろ、「死」というものを本人、そして周りの人間がどう受け入れるのか、
生まれたからには必ず来る「死」というものを
「生」の中でどう解釈していけばいいのか。
そんなことを語りかけてくれていた。

ただ、1冊の本の中で、これほど具体的に多くの人の死を見たことは初めてだ。
読んでいるとどうも憂鬱になってくるのは避けられない。

「この方は、どなたを愛し、また愛され、
どんなことで人に感謝されていらっしゃいましたか」

私が死んだ後、家族や友人はこう尋ねられたとき、どう答えてくれるだろう。
そう考えたとき、この答えが皆の口からスムーズに出るような、
そんな生き方ができるといいなと、単純に思った。

オススメ度は、★★★☆☆
(作品の出来に関係なく、友人などに読んでほしいかどうか)

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★『利休にたずねよ』 山本兼一



この間、同級生に会ったとき、この本のことを聞き、
利休に興味があったので読んでみた。
私はあまり歴史小説のようなものは読まないのだけど、
これはとても面白かった。

まず、構成が変わっている。

「利休 切腹の朝」から始まり、
「切腹の前日」「○日前」「○ヶ月前」「○年前」と過去に遡っていく。
章ごとに「視点」となる人物も変わる。
利休本人であったり、秀吉であったり、妻の宗恩であったり……
利休に関わる人物の視点から利休という人物が描かれる。

これを読むまで、私は利休についてほぼ何の知識もなかった。
「茶道を大成した」「秀吉との関係」くらいしか頭にない。
どれくらいの背格好であったか、どんな性質であったか、
どんな生まれでどんな人生を歩み、その一生を終えたのか……
読み進めるに従って、「千利休」という人物像がはっきりと浮かび上がった。

「美」に対するねばっこいほどの執着、
熱く燃えたぎる情熱的な性格、
「目利き」であることへの揺らぎない自信、
「茶の湯」へのまっすぐな想い……。

「美」を「わかりすぎる」ゆえ、その態度や目つきが、
絶対服従を強いる秀吉にとっては目障りになっていく。
そして、切腹へ。

また、「茶の湯」を絡めた当時の政治的な争い以外にも興味深かったのは、
利休の恋愛話である。
これはどこまで本当の話なのかは知らないが、
19歳の頃、高貴な生まれの高麗の女人を愛し、死ぬときまで忘れることがない。
「死」がもはや「美」と究極の背中合わせになっていることを感じ、
ある場面では、ぞくっとした。

これまで私にとっては、おとなしく、「茶を点てている坊主」のような印象しかなかった利休。
どこまで正しいのかわからないが、読み終わると完全に印象が変わっていた。
そのことがとても面白かった。

一つ、疑問。
私は10歳から大学を卒業するくらいまで茶道を習っていたので、
たびたび出てくる茶道の作法や道具の名前などがわかる。
イメージできる分、利休がどれほど「目利き」であったかというのもリアルで、
想像ではあるが、ため息が出るほどの「美」を感じることもあった。

でも、茶道を全くたしなんだことがない人がこれを読むとどうなんだろう。
うまくイメージが湧かないのでは?
ただ、もし湧かないとしても、それを超えて面白さを感じられる小説だとは思う。

これを勧めてくれた友人が「山崎の待庵(利休の造った茶室。うちの近くにある)」に行ってみたい」と言っていたが、
私も読み終わってすぐに前まで行ってきた。

国宝であり、1ヶ月前からハガキで予約をしないと拝見できない。
これまではなんとも思ってなかったが、私も見てみたいなぁ。
本物を見れば、また利休への印象が違ったものになるのかもしれない。

オススメ度:★★★★☆




明かり。

2009-05-31 00:13:39 | 生活
屋根を叩きつけるような雨音と
それに反応するかのように鳴き続けている蛙の声。

うちは田んぼに囲まれているので、
この季節は本当にテレビの音までかき消されるほど
蛙の声がうるさい。
でも、なぜか落ち着くのだけど。

今週に入って田に水が引かれ、土をならす作業が始まった。
明日くらいに田植えが行われるはずだ。

ベランダの向こうは一面田んぼなので、
日が照っていなければ、まさに天然クーラー。
おかげさまで真夏でも夜はエアコンをつけることがない。

今日は、注文していたまな板が届いた。
四万十川工房で作られる、檜のまな板。
これまでも同じものを使っていたのだが、
さすがに古くなったので買い換えることにしたのだ。
他のまな板も見てみたが、やっぱりこれに勝るものはなしと、
再び注文。二代目だ。

樹齢80年以上の四万十川の檜だけを使って、
職人が手仕事で14面体に削っている。
普通のまな板のように直方体ではないので、
水切れが大変いい。
さらに、檜は浴槽にも使われることからわかるように、
水に強く、抗菌作用もあるので傷みにくい。

届いたばかりなので、まだ檜の爽やかな香りがする。
まな板が新しくなっただけで、なんだか心躍る。

午後は夫と大山崎山荘美術館へ。
お目当ては、「濱田庄司の眼」展。
人間国宝・濱田庄司が何を見て何を作ったか。
その蒐集品と、実際に作った作品とを展示してある。

ここは本当にいつ来てもいい。
歩いて30分か40分ほどなので、全シーズンに必ず訪れる。
展示品がいいときはよりありがたいが、
常設だけでも十分に楽しめる。
この山荘と周りの自然が美術品みたいなものなので。

でも、私は濱田庄司が好きなので、今日はより楽しめた。
釉薬の色の出し方がなんとも絶妙で、
決して華やかではなく素朴なのに、どこか凛とした美しさがあって。
今日見た中では「白地鉄絵葡萄水差」とお揃いの「蓋物」が心に残った。

イギリスのスリップウェアの影響も受けている氏の作品は、
釉薬で模様を描いたものが多いのだけど、
そこに「一瞬プラス60年」とあった。
模様を描くのは一瞬。
だけど、それには60年もの間、磨かれた技と経験がいるのだという。

絵画はよくわからないけど、器を見るのは本当に好きだ。
いつまでも眺めていたい気持ちになる。

新館でモネとルノワールの絵画も見て、
2階のテラスで自然を満喫しながらビールを1杯飲んで帰った。
なんと贅沢な時間!

「最近、悩んでいるみたいやな」と夫に言われたけれど、
今日は少しすっきりしている自分がいた。

お金のためや、誰かに認められるためでなく、
自分を癒すために書く……。それでいいんだ……。
そのことに気づいてから楽になった。
ライターとして仕事をすることの虚しさもなくなった。
それはそれ。生活のため。
これはこれ。自分のため。
そう思えるようになったからだ。

岡本太郎みたいな天才は、あえて危険な道を選んでも成功する。
だけど、自分みたいな凡人は成功することよりも、
毎日の生活をどう楽しく過ごすか、気持ちよく過ごせるか、
そのことを考えて道を選んだほうがいいんだろうな、と思った。

夫は「もっと自分を追い詰めないと」みたいなストイックさがあるが、
私は苦しみの中から人を感動させることができるのは、
本当に一部の天才だけだと思っている。
それより、自分が楽しむこと。自分を癒すこと。
それでいいんだと思う。
楽しんでいたら、それに共感してくれる人も必ずいる。
ブルースのライブなんてまさにそれで。
楽しく演っている人を見ると、こちらまで幸せな気持ちになる。
音楽って本来そんなものなんだろうな。
文学よりもわかりやすい。

まだ完全に悩みのトンネルから抜け出たわけではないけれど、
暗闇の先に小さな明かりは見えた。
あそこを目指して歩いていたら、いつか出口に辿り着く気がする。
少なくとも、中途半端で何もできず、
自分の想いも生き方もブレていた自分からは、脱出できそうだ。

「仕事したくない病」もおさまって、
やっと営業する気持ちになれたし、
また新たな心持ちでライター仕事も頑張ろうと思う。
そして、自分の書きたいものも書き続けたい。

今を生きよう。