明日元気になれ。―part2

毎日いろいろあるけれど、とりあえずご飯と酒がおいしけりゃ、
明日もなんとかなるんじゃないか?

あしたはわからない

2009-05-30 03:28:58 | 
3、4年前に書いたエッセイ風レビューです。

★『空中ブランコ』  奥田英朗

初めて小説を書いたのは20歳の時だ。
『浮世の夢』という、なんとも陳腐な物語だった。

おそらく原稿用紙にすれば30枚程度の短編なのだが、丸3日間かかった。
当時、大学生だった私は本当に一歩も外に出ず、3日間ワープロに向き合った(この頃、使っていたのは富士通のオアシスというワープロだった!)。
眠くて我慢できなくなれば、とりあえず眠り、目が覚めるとすぐにまたワープロに向かう。
食べる物もほとんど食べず、ただひたすら書き続けた。
「こんなに楽しいことがあったのか!」と私自身、驚いていた。こんなに夢中になれることがあるなんて!

物語は心の中にいくらでも存在していた。
私に文章にしてもらうのを今か今かと待っている。
早く吐き出してしまいたくて仕方がなかった。
自分が「物語」を書けるなんて、20歳になるまで知らなかったのだ。
一旦書き始めると、ああ、私はこれがやりたかったのだと実感した。

かなりの数の作品を書いた。
中には原稿用紙100枚ではきかない長編もある。
同人誌に発表し、友達にも読んでもらい、大学が終わる頃には「作家になろう」と決意するまでになっていた。

だけど、私はフリーライターになってしまった。
そして、寝る間もないほど忙しい生活の中で、いつしか「物語」は失われていく・・・。

あんなに私の中から溢れそうだった物語たちは、気付くとどこにもいなかった。
それでもたまに、昔の小説を手直ししたり、短いものをポツポツと書いてHPに掲載したりする。

日記やエッセイを好んで読んでくれる読者の中には、小説にも目を通してくれる人もいる。
だけど、たいてい「エッセイのほうがいいですね」とか「小説はあんまりですね」といったようなコメントを書かれる。

そのことに対して、もちろん不満などない。
正直な、そして妥当な評価だと思うし、どんなコメントであれ時間を割いて私のために書いてくれたものだ。ありがたく受け取っている。

ただ、私はだんだん物語を書くことが辛くなってきてしまったのだ。
私は、エッセイを書くより、日記を書くより、物語を書いている時が一番幸せだ。
時間が経つのを忘れる、というのはまさにこのことで、物語を紡いでいる間は現実から遠く離れた場所にいる。
気付くと何時間も経っているのだ。
そして、書き終えると、他では絶対に味わえない喜びを感じる。充実感、というのか。
恢復している。
出来上がった作品は、自分の子供のように愛しい。

自分が書きたいものを書いて、それを自分が感じているように愛しく思ってくれる読者がいたら、どんなにいいだろうかと思う。
だけど、それはなかなか難しくて。
私はせっかく生み出した子をけなされるのが怖くて、物語を書くことをやめていった。

奥田英朗の『空中ブランコ』という本の中に、心因性の嘔吐症になった女流作家の話がある。

若い女性なら誰でも知っているような人気作家で、出す本はすべて売れる。ドラマにもなった。
都会に暮らすスタイリッシュな恋愛を書かせたら天下一品で、恋愛好きな若い女性のカリスマ的な存在でもある。

なのに、嘔吐症になる。

自分が書いた小説の登場人物やストーリーが思い出せず、何度も何度も本をめくったりもする。
その中に1冊、売れなかった本がある。
『あした』というタイトルのその本は、彼女が本当に書きたかったような人間ドラマで、時間をかけ想いをこめて書いた。軽い恋愛物なんかじゃなかった。読み捨てられるような陳腐なストーリーでもなかった。
彼女には売る自信があった。
だけど、その本は売れなかった。
本当に書きたかった本なのに・・・本当はこういうものが書きたかったのに・・・
結局、彼女はまた消耗品的な恋愛ストーリーを綴り始める・・・

この『空中ブランコ』は5つの短編から成り、伊良部という精神科医が出てくるシリーズものだ。
「爆笑物」として紹介されていたりするように、なかなかユーモアがあって面白い。
だけど、私はこれを「爆笑物」とは思わない。そういう笑いはおきなかった。ただ、今年読んだ本ベスト3入りは間違いないほど面白かった。こんな面白い本には久しぶりに出会った、と思った。

伊良部は精神科医なのに、やることや言うことは5歳児並み。
自分の欲望のままに生きていて、突拍子もないことばかりをやる。
ものすごい「変人」だ。
だから、この伊良部に比べれば、精神科を訪れる患者なんてみんな常識人で、伊良部の変人ぶりに振りまわされていくうちに、ちょっとしたことがきっかけで悩める自分を解消できるのだ。

飛べなくなった空中ブランコ乗り、先端恐怖症になってナイフが持てないヤクザ、一塁に送球できないプロの3塁手……、いろんな職業の、いろんな病気をもった人たちが登場するのだが、みんな伊良部のむちゃくちゃな診察に最終的には癒されてしまう。

伊良部が意識的にやっていないのがまたすごい。
これを読んでいると、「ああ、人間ってすごく複雑で、すごく単純で、面白い生き物なんだな」と思わされる。
ちょっとしたことで精神に異常をきたし、ちょっとしたことで回復に向かう。
だけど、そのちょっとしたことに悩んで生きるのが人間で……。
なんだか人間というものが愛しく感じてしまうのだ。

嘔吐症の「女流作家」も、最初はすごくイヤな女だな、と思って読んでいた。
だけど、彼女の書いた『あした』という本の存在、そして、そのことがひっかかって嘔吐症になってしまっていることが次第にわかり始めると、だんだん彼女のことが愛しくなってきてしまった。

そして、ラストがいい。

編集をやっている友達に聞かされた話をきっかけに、彼女は嘔吐症を克服する。
書けなくなっていた小説もまた書けそうだと思う。
診察室を出ようとした時、ずっと愛想のなかった看護婦が彼女を呼びとめる。
看護婦は言うのだ。

「『あした』読みました。私、小説を読んで泣いたの生まれて初めてでした」

「ありがとう」

彼女が心からお礼を言うと、看護婦は続ける。

「また、ああいうの書いてください」

「うん、書く。今日から書く」

彼女は胸が熱くなり、階段を二段跳びで駆け上がった。
読んでいた私も胸が熱くなり、階段を二段跳びで駆け上がりたくなるようなラストだった。
電車の中で読んでいたのだが、ちょっとだけ涙が出た。
叫び出したい気持ちだった。

 人間の宝物は言葉だ
 一瞬にして人を立ち直らせてくれるのが、言葉だ。
 その言葉を扱う仕事に就いたことを、自分は誇りに思おう。
 神様に感謝しよう。

この一節を読んで、私は震えた。
言葉ってすごい。
こんな、こんな感動を与えてくれるのだ。
私も神様に感謝しようと思った。
言葉を扱う仕事に就いたことを。

私もまた物語を書きたくなった。
エッセイや日記のように面白がってはもらえないかもしれない。
だけど、私は物語を書いているとき、幸せなんだ。
それに、あの女流作家の『あした』のように、私の書いた物語を読んで、涙してくれる人だっているかもしれない。「また書いてください」と言ってくれる人もいるかもしれない。
私が震えたあの一節のような文章が、いつか書けるかもしれない。

だって、「今日」は夢から遠くても、「明日」は何が起こるかわからないじゃないか。

感性の一致

2009-05-30 03:02:50 | 想い
また3時をまわった。

私は夜更かしが好きだ。
夜は自分に対して正直になれる時間だからかもしれない。

さっき、夫の親友であり、私のマイミクでもある人の日記を読んだ。
音楽を志している人で、夫が書いた詩を日記に載せてくれていた。
「この詩だけが味方」だと、そう書いてあった。

それは、とても彼らしい、いい詩だった。
上手、というより、熱いソウルがあった。
身内を褒めるのもなんだけど。

彼と付き合い始めた頃、お互いが書いた文章を読んで、
他の誰にもわからない感覚を、お互いに得たことを覚えている。

「私が書いたみたい……」
「俺が書いたんか……?」

決して文体が似ているとか、そういうわけではないのだけど、
なぜか二人ともそう思った。
これが「感性」というものなんだろう。

この間、久しぶりに夫がブログを更新していて、
最終電車の中、携帯で言葉を追いながら、
ああ、やっぱりこの人の文章がすごく好きだと思った。

彼との出逢い。
それは、偶然「ブルース」で検索してひっかかった彼のブログ。
マディ・ウォーターズと大江健三郎というワード、
そして、心地良い言葉のリズムに心惹かれた。

顔も知らない彼の文章のファンになり、
ふと思った。
こんな文章を書く人と現実に出会えたらいいな、と。

それから数ヵ月後、本当に彼と出会うなんて、夢にも思わなかったけれど。

今、幸せに平和に毎日が過ぎていく。
ふと、去年の今頃は何を考えていたんだろうかと、
自分の過去のブログを辿ってみた。

印象に残ったタイトルは「きらきら」だった。
きらきらした日常の一コマを書きたいと、
誰のためにでもなく、自分のために書きたいと、
そう綴ってあった。

それを読んで、また自分に嫌気がさした。
同じことの繰り返しで、一歩も前に進んでいない自分にため息をつく。

私はどこに向かっているのかなぁ。

わからないけど、
でも、一つだけわかってることは、
仕事になってもならなくても、やっぱり“言葉”が好きだってこと。

そのことをいつも夫の文章を読むと思い出す。
だから、ずっと彼には書き続けてほしいのだ。
彼の文章が一番私の感性を刺激してくれるから。

彼の文章を読むと、なぜか自分も書きたいと思う。
魂が揺さぶられる感じがして。

「俺が生活費は出してもいいから、かおりは好きな文章を書いていいよ」
といつも言ってくれる彼。
それに甘えられたらどんなにいいだろうかと思う。
でも、無理なんだ、それは。

悲しいトラウマ。
そういう生活を想像するだけで、身震いするほど怖くなる。
ありえない。

幼い頃からすりこまれた「稼ぐ人間にならなければ」という想いは
絶対に消えそうもない。

今日、自分が最後に書いた小説を読んだ。
最後まで完成させた小説。
2003年のものだった。

読んでみて、思ったより悪くないと思った。
HPに掲載したときは、たいそう評判が悪かった小説だけど。

ああ、そうか、と気づく。
自分を癒せばいいんだと。
誰かに認められようと思うから苦しいんだ。
これを書き上げたときの喜び、恢復、それを思うと今も涙が出てくる。

それでいいんだった。

それでいいなら、また書ける気がした。

そして、そろそろ働くことにした。
3月・4月とほとんど仕事をせずにいて、
5月も2週間くらいしか働いていない。
当たり前だが、収入を支出が上回って、大変なことになっている。
毎日飲み歩いていたら、そりゃそうだ。

とりあえず、働こう。
来週からまた営業を始める。
どんどん仕事を受ける。

でも、自分のために、何か書けるような気がする。

以前やっていた本のブログから、1つ次に。
これが、今の私の想い。