ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

八代の〝つるの里〟へ吟行(その2)

2020年02月22日 | 俳句

 一昨日の朝のラジオ体操ではもう日が差していて、見上げた空は雲一つない快晴でした。珍しくこんなに晴れた青空なのに、この一日で新型コロナウイルスが全国的にどんどん広がっているニュースばかりで、不安がますます募りました。が、どうしていのか…結局マスクと手洗いだけしかないのでしょうか?

 20日は義母の99歳の誕生日でしたが、主人がまだ風邪が抜けず咳ばかりしていますので、恒例の食事会も取りやめました。このように大したことでなくても私たちの生活に徐々に影響を及ぼしてきています。このようなことがいつまで続くのか、先の見えないということがどんなに人の不安をかき立てるのかと…つらいですね。

 さて、八代の「つるの里」への吟行のつづきです。

 昔から鶴は容姿の美しから、また〝鶴は千年、亀は万年〟と、おめでたい鳥としてその飛来が待たれるものでした。歳時記を見ると、「鶴」だけで冬の季語になっています。丹頂鶴などは留鳥として北海道に生息していますが、他の鶴たちは秋に渡ってきて春には帰るという渡り鳥だから、冬。でも、「鶴来る」は秋、「鶴帰る」ならば春になりますからね。

  鶴の来るために大空あけて待つ        後藤比奈夫

  ころろころろ田鶴鳴きけふの日も暮るる    山口青邨

  鶴は引き雀は巣藁にぎり飛び         阿波野青畝

 ところが、歳時記の例句を見ると不思議なことに江戸時代などの古い句が一つも載ってないんです。どうしたことなんでしょう?句材としてはとても魅力のあるものなのに…。もし詠まれなかったということでなければ、ろくな句がなかったということ? エエッ、そんなことありえないでしょう…

 そういえば初学の頃教わったことがあります。「田鶴」と詠まないと「鶴」だけでは季語にならないと。あの石田波郷の有名な〈吹きおこる秋風鶴をあゆましむ〉という句がありますが、この句の季語は「秋風」で、この鶴は動物園にいるものだから季語ではないと。要するに、渡りをした鶴だけが季語ならば、そういう自然の中にいる鶴を観られるのは、現在は鹿児島県出水市とこの八代だけなんですものね。

 鶴は、昔話に出てきたりや銅鐸に彫られたりと、大昔からいたのでしょうし、こちらの民話でも〝病気の母へ鶴の肉を食べさせた…〟というような話が残っていたりしますから、それほど珍しい鳥ではなかったのです。だとすると、詠まなかったのではなく、季語としての認識がないため他の季語と一緒に詠まれていたのではないかと、私は思いました。

 調べてみますと確かに、〈凩の空見なをすや鶴の声  去来〉や〈鷺ぬれて鶴に日のさすしぐれかな  蕪村〉などがありました。前句は「凩(こがらし)」、後句は「しぐれ」が冬の季語ですから。

 さて、八代地区には、「つるの里」だけあって様々な句碑がありました。八代のナベヅル は国の特別天然記念物に指定されており、地域 で守り続けてきた鶴は、ま さしく八代の象徴となっています。その句碑は全部で9あるそうですが、見てきたものだけを紹介しますね。

 ① 藪道を出て田の鶴と顔合はす  寒た

 作者・亘理(わたり)寒太(明治28年12月5日生)は、本名は正、八代の旧家に生まれ京都帝国大学を卒業し、戦後ふるさとに帰り八代中の校 長や教育長を歴任。教育面でその指導力を遺憾なく発揮し、鶴の保護活動にも多大の関心と指導力を持ち、広く村外の人々に鶴を知ってもらう ことに努力した。内外の俳人や文化人を招いて交流を深めたり、『群鶴句会』を創 設し村の青年たちに俳句を指導したことで、寒太は『鶴の聖人』と言われる。

 ② 星消えて朝鶴に空放たれし  稲畑汀子  

 

 この句意は、八代の朝の大自然の動きを鶴を主人公に して捉えたもので、星がまだ消えるか消えないうちに突然鶴の鳴き声が響き、その声に大空が従うが如くに感じ られるという、清々しい挨拶句となっている。仙境庵のかっての女将、田中和女が「ホトトギス」同人で、平成2年、同旅館で中国地区ホトト ギス俳句大会が開催されたとき、この句を披露。それを平成13年田中和女の尽力により建立された。

 作者・稲畑汀子は昭和6年生れ。高浜虚子の孫に当たり、つい最近まで日本最大の俳句雑誌「ホトトギ ス」を主宰。現在日本伝統俳句協会の会長。朝 日新聞俳壇の全国版選者。

 ③ 鶴唳(かくれい)に覚めて今日の日確かにす  田中和女


 ④ 鶴戻り来るやしみじみ夕ごころ  のぶを

 ⑤ 晴れ渡る八代の里は鶴のもの   千代子

この④と⑤の句碑は、野鶴監視所の敷地内に鶴の餌場を背にして 並んで建っている。のぶを没(昭和38年)後、昭和42年に遺族が中 心となって建立したもの。

 八代の鶴は里の風景や里人の心情と一体となった趣が あり、朝、ねぐらから八代の中心地である餌場付近 にいったん集まって、方々に散って遊びまわる。夕刻にな ると、どこからともなく又餌場辺りに戻り、その後飛び 立ちねぐらに向けて帰って行くのだが、その様子は八 代の人にとっては、自分たちの子どもが家に帰ってくる ように思えるのだろう。その鶴に寄せる気持ちを表現 したのがこれらの句。

 作者・水田のぶをは本名信夫で、田布施町出身。大正12 年京都大学入学、昭和14年京都大学助教授就任。後、山大医学部付属病院長。俳句で は山口県の戦後俳壇の指導的位置を占めた存 在。ホトトギス同人に推された人。同じく水田千代子は、俳誌「玉藻」に所属し、主に地域の 玉藻句会等で指導者として活動。のぶをは夫。 2人は八代の鶴をこよなく愛し数多くの鶴に 関する俳句を中央俳句誌に発表した。 

 ⑥ 碧落に微塵湧きいで鶴となる  赤富士

 この句が作られた昭和30年頃は鶴の飛来数約 150 羽おり、真っ 青な空の果てに塵のような物が現れ、何だろうかと思っていると、やがてそれが鶴の群となって現れるときの感激のようなものを詠んだものだろう。誠に野鶴を愛する作者らしい句。作者・杉山赤富士については詳しいことは、分からなかったのだが、広島で昭和21年創刊された俳誌「廻廊」の主宰で、現主宰の八染藍子の義父。

コメント (11)
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