ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝歳時記よりも実情を優先せよ〟ということは?

2020年02月07日 | 俳句

 今朝も寒かったですね!でも昨日の方が今季一番の寒さだったような…だって、一昨日のブログに〝寒いけれどまだまだ雪も氷も…〟と書いたんですが、昨日のラジオ体操へ出かけるとき、外の流しを見ると始めて凍っていました!ワアッ、ここも凍ってるよ…と、一輪車の中に溜まっていた雨水も。さらに行く途中の畑を見れば一面霜で真っ白になっていましたね。確かマイナス1度か0度が最低気温だったような…

 これで一応冬らしさは感じることが出来ました。では、これを句に詠もうと思ったら、やっぱり立春を過ぎてからのことですから、「冴返る」や「寒戻り」という春の季語を使わないといけないのでしょうね。

 でも、私はなんだか違うような気がするんです。昨今のように地球温暖化の影響でどんどんと季節がずれ、下手すると約1ヶ月ほどの違いが自然界に起こっているような…。だとすると、このところの寒さは本来一月ごろの寒中のものだと考えてもおかしくはないかも知れませんね。だからこの寒さや氷を詠もうとすれば、暦のことはさておいて、冬の季語を使って詠んでもいいのではないでしょうか?ちなみに、春の氷だったら「薄氷(うすらい)」と詠まないといけないんですからね。

 そもそも「冴返る」や「寒戻り」という季語は、ひとたび春めいた気候を感受した後に味わう寒さをいうのであって、一度も厳しい寒さを味わいもしないで、あの頃の寒さが〝戻って来た〟とか〝ぶり返した〟とかいうのは実感がないのでは?要するに暦に振り回されて機械的に季語を用いるのはよくないということ。一度春めいた暖かさを実感した後の〝寒さ〟というものは、脳が春を認知している以上、〝なんだ!この寒さは、まるで冬に舞い戻ったような…〟と、諾いがたい寒さでなければ季語としては生きてこないのではないでしょうか。だから今日あたりの寒さを詠むときは、まだ「寒し」や「冴ゆ」などの冬の季語で詠んだ方が、私には実感が籠もるような気がします。もちろんこれはこちらの気候でのことですから、日本海沿岸の地方や、東北、北海道などの雪国では違うと思いますし、鹿児島やもっと南の島などでは…。日本列島は縦に長いから一律の気候ではありませんので、歳時記はどこを基準にしているのでしょうか。江戸時代を考えれば、知りうるのは人が行けた範囲のことでしょうからね。だから今では沖縄や北海道には独自の季語があるとか。また、このまま地球温暖化が進んでいって異常気象がいずれは異常じゃなく普通のことになったとしたら、歳時記もどんどん見直していかなくてはいけませんね。

 以前子規が、〝歳時記よりも実情を優先せよ〟と答えたということを書きましたが、まさにその通りだと思うのです。

 俳句というものは、作者がどんなにその状況を伝えようと努力しても、季語の選択を間違ってしまうと台無しですし、反対に全く思いも掛けない意味に伝わることもあります。要するに読者に伝える力は半分以上は季語に負うところが…いやそれ以上かもしれません。

 だからこそ季語の選択が俳句ではとても重要になるのです。が、一つ間違えればあらぬ方へ…と、それが難しいところでもあります。よく昔季語が〝動く〟とか〝即きすぎ〟〝離れすぎ〟とか注意されましたが、始めの頃はなぜなのかサッパリ分かりませんでした。もちろん〝即きすぎ〟だけはよく分かりましたよ。〝朝起きるのがいやだ〟という内容に〝寒い〟などのような理由になる季語を即ければ、誰もが分かりやすいでしょうし、またそれは言われなくても想像できることですから。それが〝即きすぎ〟ということなんですが、このような問題はなかなか厄介で、一筋縄ではいきませんので、またの機会があればその時に…。

 つまるところ、俳句を学ぶのは季語を知るというところから始めたいものです。みなさんガンバリまよう。

 写真は、今朝の霜と氷の様子です。分かりますか?

 

コメント (2)
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