の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

備前國一之宮吉備津彦社

2010年08月29日 20時53分10秒 | 中国(岡山、広島、山口)
■池■
(10th November 2008)



★備前國一之宮吉備津彦社★ 岡山県岡山市一宮1403

・式外社。

・舊社格は官幣小社。

・主祭は大吉備津彦命。吉備津彦命(大吉備津彦命御子)、孝靈天皇(大吉備津彦命父)、孝元天皇(大吉備津彦命兄弟)、開化天皇(孝元天皇御子)、崇天皇(開化天皇御子)、彦刺肩別命(大吉備津彦命實兄)、天足彦國押人命(孝昭天皇御子)、大倭迹迹日百襲比賣命(大吉備津彦命姉)、大倭迹迹日稚屋比賣命(大吉備津彦命妹)、金山彦大、大山咋大を配祀。

・大化改新の後、吉備國が備前、備中、備後に分割、以後、備前國一之宮として崇敬される。

・社傳では推古天皇の時代に創建されたとし、體山と仰がれる吉備中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源とする。

・延喜式内社で名大社であった安仁社が、天慶の乱において藤原純友に味方し、吉備津彦社が朝廷に味方したことから、一之宮の地位が変わることになったという。

・戰國時代には、日蓮宗を信奉する金川城主松田元成による燒き討ちに遭い社殿を燒失している。


■鳥居■
(10th November 2008)

 

■參道■
(10th November 2008)
 


■隨門と石燈籠■
(10th November 2008)



■拜殿■
(10th November 2008)




■拜殿、祭文殿、本殿■
(10th November 2008)



■本殿■
(10th November 2008)


 岡山県指定文化財。

・寛文八年(1668)、岡山藩主池田光政が造営に着手し、その子綱政の元禄十年(1697)に完成。
・流麗な三間社流作りの殿は飛鳥時代社殿建築の粋がつくされており荘嚴華麗にして吉備國の社建築が傳統とする「流れ造り」の正統な姿を示す社殿としても貴重。
・古代の熱田宮の社殿配置にならい、本殿、渡殿、祭文殿、拜殿と大社殿が一直線に配置。


■樂御崎社■
(10th November 2008)
 

・本殿の両脇に鎭座する小社。
・樂樂與里彦命、樂樂森彦命を祀る。左右どちらに祀られているかは不明。
・祭は吉備津彦命が吉備國を平定する時に活躍された從者という。


■尺御崎社■
(10th November 2008)


・樂御崎社と同様、本殿の両脇奥に鎭座。
・夜目麻呂命、夜目山主命を祀る。
・吉備津彦の從者という。犬、猿、雉を連想させる。


■攝社子安社■
(10th November 2008)

 

・祭は、伊邪那岐命、伊邪那美命、木花佐久夜姫命、玉依姫命。縁結び、子授け、安産、育児の様として廣く世に知られる。
・慶長年間、岡山藩備前監國の池田利隆が子寶に惠まれなかった際、祈願後たちまち名君と仰がれた光政の誕生をみたことは有名な話である。
・子安社の脇に自生する蕨を夫婦で食べると懐妊するという傳承がある。


■末社群■
(10th November 2008)



■龜島社■
(10th November 2008)


 祭は市寸島比賣命。


■吉備中山(體山)■
(10th November 2008)



■温羅社の横の末社■
(10th November 2008)



■元宮磐座への道■
(10th November 2008)

 


■龍社■
(10th November 2008)


 吉備中山山頂に鎭座。天の王龍、地の王龍(八大龍王)を祀る。


■經塚■
(10th November 2008)



■元宮磐座■
(10th November 2008)


 

((コメント))

2008年11月10日

 備前國一之宮吉備津彦社、備中國一之宮吉備津社と黒住教本部は吉備中山の麓にある。まあ、同じものを拜んでいるのだろう。

 元々、吉備津系はあまり興味のある社ではなかったので、この日にまとめていくことにした。社殿周辺は文化財なので見てまわったが、特に感じるものは無かった。その後、山を登り、元宮磐座と龍王さんのところまでいったが、あまりしんどい目をして行くほどのものではなかったと思う。まあ、しょぼい感じ。感想としてはそんなところ。ま、一度行ったので、満足である。

赤間宮

2010年06月02日 22時16分06秒 | 中国(岡山、広島、山口)
■水天門■
(11th November 2008)



★赤間宮★ 山口県下関市阿弥陀寺町4-1

・舊社格は官幣大社。

・祭は安天皇。

・江戸時代までは安天皇御影堂といい、佛式により祀られていた。

・「耳なし芳一」の舞台としても知られている。

・建久二年(1191)、勅命により御陵に御影堂が建立され、建禮門院ゆかりの尼を奉仕させたのが始まりという。

・明治の佛分離により阿彌陀寺は廃され、社となって「天皇社」と改稱。

・明治八年(1875)十月七日、赤間宮に改稱、官幣中社に列格した。昭和十五年(1940)八月一日、官幣大社に昇格し赤間宮に改稱となった。


■鳥居■
(11th November 2008)



■大安殿■
(11th November 2008)




■舞台■
(11th November 2008)



■内拜殿■
(11th November 2008)



((コメント))

2008年11月11日

 壇ノ浦。九州と本州の間はこんなに近かったのか、と思うくらいのところだった。

 ここで、桓武平氏の平忠盛の子息の一族は滅亡したのか、と。源義經という『日本史上でももっとも卑怯な戦さをする男』の筆頭に上げてもいいやつの卑劣な攻め口で敗北を喫したわけだが、入水自殺や戦う中、ひどく無念を感じて死んでいったのだろう、と思わざるを得ない。おそらく、いかなる靈能者を名乗る胡散臭い人間たちが来てここで祈ろうとも、決して晴れることは無い怨みがあるはずである。

 赤間宮の境内には、この地で無念にも命を終えた平家の將たちの墓もあるのだが、墓所であそこまで寒氣が傳わってくるところは他には知らない。

備中國一之宮吉備津神社

2010年03月06日 17時29分52秒 | 中国(岡山、広島、山口)
■境内入口■
(10th November 2008)



★備中國一之宮吉備津神社★ 岡山県岡山市吉備津931

・延喜式内社、備中國賀夜郡、吉備津彦神社、名神大。

・旧社格は官幣中社。

・主祭神は大吉備津彦命。相殿に御友別命、仲彦命、千々速比売命、倭迹迹日百襲姫命、日子刺肩別命、倭迹迹日稚屋媛命、彦寤間命、若日子建吉備津日子命を祀る。

・備中国と備前国の境にある吉備中山の麓に鎮座し、備前國一之宮の吉備津彦神社は同じ吉備中山の麓にある。

・元々、吉備國一之宮であったが、吉備国が三国に分割されたとき、備中國一之宮となり、備前、備後に分霊が勧請され、それぞれの国の一之宮となっている。

・社伝では、吉備津彦は吉備中山の麓に茅葺宮を建てて住し、二百八十一歳で亡くなって中山山頂に葬られた。吉備津彦の五代の子孫加夜臣奈留美命が茅葺宮に社殿を造営し、吉備津彦を祀ったのが当社の始まりとされる。

・中世には武家の崇敬を受け、たびたび社殿の修復や社領の寄進があった。

・現在ある比翼入母屋造の社殿は足利義満が造営。


■矢置岩■
(10th November 2008)



 社伝によれば、当社西北八キロの新山に温羅という鬼神がいて、凶暴で庶民が苦しんでいたために大吉備津彦命が「吉備中山」に陣取り鬼神と互いに弓矢を射ると双方の矢が空中で当り、落ち、そこに矢喰宮ができた。また、中山主神が鬼神の矢を空中で取り、それが、吉備津神社本殿内に祀られる矢取明神となった。この、戦さのとき、大吉備津彦命は、その矢を岩上に置いたために矢置岩と申すようになった。


■参道■
(10th November 2008)



■北隨神門■
(10th November 2008)


 国重要文化財

 天文十二年(1543)の建築。


■拝殿、本殿■
(10th November 2008)




 国宝

 室町時代應永三十二年(1425)の建築。全国唯一の様式なので「吉備津造」と言われている。


■南隨神門から廻廊■
(10th November 2008)


 国重要文化財(南隨神門)

 延文二年(1357)の建築。
 

■廻廊■
(10th November 2008)


廻廊は天正七年(1579)の再建で延長四百米に及び、自然の地形のまま一直線に建てられている。


■宇賀神社■
(10th November 2008)


 岡山県最古の神社。


((コメント))

2008年11月10日

 吉備津神社に着いたときは、太陽は沈みかけ、オレンジ色になっている状態であった。そのせいか、眺めはいい感じであった。分祀の吉備津彦神社よりはいい感じがするが、同じ神体山を拝むのに不思議な感じではある。