これはかのじょの好きな花です。華やかすぎることもなく、上品すぎることもなく、ちょうど良いくらいの快いかわいらしさ。明るい日向の色が、見ている者を快く温めてくれそうな愛。
サビクは、かのじょが花になるとしたらヒナゲシが良いだろうと言っていましたが、ヒナゲシの方は、かのじょの比喩に使われてしまうのを、ちょっと苦しく思っているようです。
そこがまた、この花の美しさでもあるのですが。
確かに、かのじょの美を表現するための比喩には、ヒナゲシひとりではちょっと重すぎる。かのじょは時に、菊のように潔かった。桜のように透き通るようだった。梅のように強かった。西遊記に百花羞という美しい女性が出てきますが、なんとなくそんな名を思い浮かべてしまいます。
薔薇も、菫も、百合も、自分をかのじょの比喩のために使われるのは、恥ずかしいと思うかもしれません。
だからこそ、花はみな美しいのです。
本当に美しいものは、自分の美しさを、自慢したりはしないのですよ。美しさと言うものは、それを見る人の心のためにあるもの。自分のためにあるものではない。
この世界にはそんなたくさんの美しい花がいる。けれども、やはりかわいらしいかのじょを思い出すとき、なぜかヒナゲシの優しさがちょうどよく似合っているような気がする。悲哀をかみしめて笑っていた時のかのじょの眼差しは、ほんとうにヒナゲシのようにやさしく、はかなげだった。
ヒナゲシは少し苦しく思うかもしれませんが、時にその美によって、かのじょを思い出すことを許してくれるでしょう。