世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

スピカが主な管理人です。時々留守にしているときは、ほかのものが管理します。コメントは月の裏側をご利用ください。

何もない人

2018-05-15 04:17:14 | 黄昏美術館


フランシス・ピカビア

原題「トレロ」


実在のモデルがいるらしい。かっこのいいスタイルをしているが、これはほとんど何もない人間である。

人間としてのことはほとんど何もしていないので、何もないのだ。本来なら原野に生まれて、原始の段階の勉強をせねばならないのだが、それをいやがり、段階の高い社会に無理矢理生まれてきたのである。

しかし勉強の差は歴然としてあり、彼は生まれついた社会についていけない。その目は周りにいる人間を、激しい嫉妬で焼いている。

自分というものが、まわりにいる人間と徹底的に違うのが、つらいのだ。

闘牛士などという仕事をしているのも、原始段階の攻撃性をそれでなんとかしのいでいるからだろう。

破壊してやる、と目が言っている。このような段階の人間は、自分よりすぐれた人間たちのすむ国に生まれると、どうしようもない破壊欲に、目が眩むほど苦しむのだ。

そして実際に、何かを破壊して罪に落ち悲劇的に人生を終わる例も多いのである。





  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルルカン

2018-02-27 04:17:23 | 黄昏美術館


ジャン・メッツァンジェ


キュビスムにはアルルカンを扱った絵が多い。それは形を切り刻むような表現の中で、微妙に人間存在の裏にある虚偽を表現できるからだろう。

道化というのは難しい存在だ。下賤でありながら、王宮にも住んでいる。王侯貴族がそれを欲しがるからだ。

慰めとなる笑いを。つかの間、何かを忘れさせてくれる、犬のような馬鹿らしい人間が欲しいのだ。

貴族の教養を刺激する冗談を言いつつ、自分を犬のように下げてみなを笑わせてくれる。冗談の中にすべてをひっくり返してしまいたい現実を背負っている、馬鹿な王侯には、道化が時に必要らしい。

彼らは時に、道化のほうが自分より正しいのではないかとさえ思えるのだ。王子と乞食の様に、ときには自分を道化とすり替えたいとさえ思うのだ。なぜか。

本当は自分の方が道化だからだ。

嘘とずるで本当の王侯から自分を盗んだ、道化というものが自分の正体だからだ。

まつりごとなどできない魂が、王の人生を盗んでいる。ぼんくらなことしかできないことを側近に見抜かれて、冷ややかな目で見られていることに気付いている。その苦しさが、道化を必要とするのだ。

あれが本当の自分なのだと。

王侯に似た冠をつけ、派手な衣装を着て、こっけいな失敗をして、冗談で人の笑いをそそることしかできない馬鹿が、本当の自分なのだと。





  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何もせぬ人

2018-02-20 04:16:11 | 黄昏美術館


ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンク

原題「芸術家の母」。


これは偽物の人間である。他人から姿を盗み、自分とは違う自分を作り、その中に入っているわけだが、実に苦しそうな顔をしている。

何もないからだ。夫にも、子供にも、恵まれない。いることはいるのだが、思うように自分を愛してはくれない。何もいいことをしてくれない。

友達もおそらくいない。なぜならばその人生は盗んで得た人生だからだ。人はこの人を見て、何か違和感を感じ、決して親しもうとしないのだ。

影のように自分が薄っぺらなものになっていくのに、何をすることもできない。冷たい虚無感にむしばまれていく人生に、じっくりと浸かり込んでいくだけだ。

それはこの人が、何もしないからだ。だれも愛そうとしないからだ。だから何もないのである。

すべてを人からの盗みで得た。姿かたちも、よい人生も、環境も、ほどほどに豊かな暮らしも。だが何もないのだ。得たものはどんどん風にかすめとられるようになくなっていく。だが何もしようとしない。

恨むという感情さえまだ幼い魂は、虚無にたたまれていくばかりなのである。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エリザベス・シダル

2018-02-18 04:16:44 | 黄昏美術館


ダンテ・ゲイブリル・ロセッティ


ラファエル前派の牽引者のひとりであるロセッティの作である。モデルの何げないポーズを描いたものだろう。ロセッティの絵の中の女性は、このように静謐な情感を漂わせたものが多い。

だがこの画家はモデルを愛しているわけではない。モデルの形を描きながら、自分が女性だったらこうなりたいという女性を描いているのだ。

シダルはそれに気づいている。

だが何も言わず、じっとポーズをとっているのである。

ロセッティはシダルと結婚をするが、裏切り続けた。ほかにいい女をいくつもつくり、友人の妻と浮気をしていた。シダルはそれに耐えきれずに、自殺に等しい死をとげる。

妻のそういう死にたいして、ロセッティは嘆くことさえできずに、場当たり的な対応しかできていない。愛していなかったからだろう。

彼が愛していたのは、愛人のジェイン・モリスでもない。多くの愛人たちの中に見ていた、もうひとりの自分なのである。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妖怪

2018-01-20 04:17:37 | 黄昏美術館


グレイドン・パリッシュ


原題はわからないが、モデルはモデルらしい。要するに、若い頃は突出した美人だったのである。

これはそういう偽物の美人が年をとってきて、美人でいるためにあらゆるあがきをした一例である。

盗んだ顔が消えていき、本当の自分が染み出てきている。それをなんとか押しとどめるため、
表情を少なくする。髪を大きくし、貧相になってきたことをごまかす。化粧をきつめにして、老醜をごまかす。

そういうテクニックでもって、美人ではなくなった自分をごまかそうとすると、女はよくこういう感じになる。

誰も言わないが、はっきり言って気持ちが悪い。年をとってきてもまだ欲しいものがあるのかと、人々に冷たく見られているが、本人は気づいてはいない。

本当の美人は、こうはならない。美しい顔のとおりによく生きれば、年をとってくれば若さよりももっと豊かな美しさが備わってくるものだ。

だが、たいていの本物は、そういう豊かな老後の美しさを人に見せる前に、死んでしまうのである。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改造後

2018-01-18 04:18:22 | 黄昏美術館


フェルディナント・ホドラー


昨日の体を様々な霊的技術を弄して改造するとこうなる。

たくましいが、どこか嘘っぽい。顔から想像できる肉体と、実視で見ている肉体が違うからだ。

男は本当の姿があまりに貧相になってしまったので、筋肉や骨を霊的技術で増やして無理矢理自分の肉体を理想的な男の体に近づけるのだ。背を高くし、筋肉を増やして肩や胸の狭さをごまかす。

一見美しく見えるが、どこか胡散臭い、おかしい、と感じて、女性は用心するのである。顔と肉体が合っていないのを、微妙な違和感として感じているのだ。

そのカンは正しい。自分を改造して肉体をたくましく増強する男に、ろくなものはいない。

人類の男の肉体は、その罪業によって、だいぶ小さく細くなっている。例外はほとんどない。まれに大きな男がいても、どこかやさしげでなよなよとしている。ヘラクレスのような肉体の男がいれば、それは必ず偽物である。

人類の男には、小さくなることによって、下僕のようにみなのためにあらゆる仕事をせねばならないという、義務が生じているのである。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の姿

2018-01-17 04:19:10 | 黄昏美術館


ウジェーヌ・ヤンソン


スウェーデンの画家らしい。

人間の男の肉体に、何の改造もしなかったらこうなるという絵である。

少年のように見えるが、大人だ。要するに小さい。筋肉もそれほどなく、腹筋も割れていない。なまっちろく、女っぽく、それほど男性的に発達しない。性器は色が黒く大きく発達する。

人類の男の業が、普通に現れると、こういう感じになるという肉体である。

女性に傲慢にふるまってきた男は、だいたいが女性より小さくなってしまうのだ。女性を見上げてしまうような小さい男になるのである。筋力もそれほど強くなく、暴力をふるうのに臆病になるほどである。全体的に弱弱しく、男性的意志を感じない。

これではとても女にもてないので、痛い男は肉体に改造を施し、足を伸ばしたり、盗んだ筋肉をつけて胸を厚くしたりするのだ。そして筋骨隆々の美しい男性的肉体を作ったりする。

ところがそういう勇ましい肉体をしていながら、やっていることは女の尻を追いかけることくらいなのである。男らしいことなどしない。ただ、群れて人間の悪口を言うことが関の山だ。

そういう男は実際はこういう小さい肉体をしているのである。弱気だからこうなるのだ。

性器ばかりが大きく、ひどい性欲に苦しんでいることを表している。

このように、人間の肉体は、人間の心そのものを表すものなのである。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憎悪の樽

2018-01-13 04:18:44 | 黄昏美術館


カルロス・シュワーベ


タイトルはフランス語を直訳したが、何らかの言い回しであるかもしれない。

メデューサのような蛇の髪をした老婆が刃物をとり、若い女たちを無残に殺している。

これは女性の馬鹿の心の風景であろう。実際、こういうことをしている女性は多いのである。

自分より若い、自分より美しい女を憎み、ありとあらゆる方法で滅ぼそうとするのだ。そして自分が誰よりも美しくあろうとする。

こういう女が、ほかの女から顔や姿を盗み、優れた美女に化けているという例は多いのである。

苦いなどというものではない。本来は優しくやわらかなはずの女性が、恐ろしい妖怪のようなものになっている。それが自分でも痛くてたまらないが、彼女らは本当の敵を見据えることができず、常に弱いものに攻撃の刃を向けるのである。

本当に滅ぼさねばならないのは自分の弱さであり過ちなのだ。だが男のように人間として立つことが弱い女性はそれに立ち向かわないのである。

それができる女性はいる。だがそういう女性たちは先に美しくなってしまうので、こういう弱い女性たちの憎悪の対象となり、たいていの場合は滅ぼされてしまうのである。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨハネ・パウロ二世

2017-12-04 04:17:28 | 黄昏美術館


ネルソン・シャンクス

凡庸な顔をした男が、神のような衣装を着ている。猿が化けた仏ほどではないが、どこかいかがわしい。

地球上の全霊を救えるほどの高い聖者でない限り、こんな衣装は似合わないのだ。

天国の鍵を持っている聖者とは、人間存在のすべての魂を救う方法を知っていなければならないのである。

それは人間には無理だ。

ヨハネ・パウロ二世自身はそれほど悪い人間ではないが、本人は今この絵を見たら恥ずかしく思うだろう。彼もまた人間であり、救いの対象であるからだ。

本当の自分というものがどういうものであるかを、確実につかんだものではない限り、人間を救うことはできない。そして未だ、その段階に上れた人類はひとりもいないのである。

解脱の段階にようやく達した人間がわずかにいるくらいだ。

何もわからない無明の闇の時代に、人間は平気でこういうことをしていたのだ。

後々の人間はこれを、実に苦い気持ちで見ることだろう。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の風景

2017-11-25 04:17:04 | 黄昏美術館


ジョージ・トゥーカー


マジック・リアリズムの画家である。言いたいことはよくわかる。

人間は文明の恵みを受け、豊かな暮らしをしていながら、心の風景はこんな感じだったのだ。誰も信じてはいない。だれも愛してはいない。

表向きは愛をかかげ、美しい神を信じているふりをし、同胞愛を演じながら、本当の心は冷えに冷えていた。麗しい愛などどこにもない。人間など信じられない。いやなことを考えているに決まっているからだ。

なぜそう思うのか。自分がそうだからだ。自分はすべて嘘だからだ。嘘は隠さねばならない。絶対に知られたくない。

そう思うとき、人間は他人との間に壁を作るのである。皆がそういう壁の中に住んでいれば、こういう風景ができるというものを、画家は描いたのであろう。

単純な発想だがおもしろい。人間は、すべてに嘘をついて、こういう世界に住むつもりだったのだ。

嘘で作った自分を生かそうとすれば、結局世界はこうなるのである。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする