今日も穏やかな秋晴れとなりました。ここ最近は窓を開け放って空気の入れ替えをするようにしていて、部屋の空気も気持ちのいいものおなっています。
ところで、今日11月8日はセザール・フランクの祥月命日です。

セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランク(1822〜1890)は、ベルギーで生まれフランスで活躍した作曲家、オルガニストです。銀行家の父親とドイツ出身の母親との間に生まれたフランクは弟のジョゼフ(1825〜1891)と共に幼くしてピアノの才能を示し、父親は彼らをリストのような大ピアニストにすべく英才教育を行いました。
1834年にリエージュ音楽院を卒業し、1835年には一家でパリに移住、1837年にパリ音楽院に入学し作曲、ピアノ、オルガン等を学びましたが1842年に退学して帰郷しました。1844年には再びパリに戻って作曲家としての志望を固めましたが、父親の意に沿わぬ結婚をしたことなどから父親とは決別しました。
実際にリストやショパンにもピアニストとしての才能を注目されましたが、ピアノ教師や教会のオルガニストとしてつつましい生活を送りました。この間に、ミサ曲やオラトリオなど宗教音楽を中心に作曲しています。
1871年にはサン=サーンス、フォーレらとともに『フランス国民音楽協会』の設立に加わり、1872年にパリ音楽院の教授に迎えられました。最晩年の1885年ごろから同郷のヴァイオリニストであるウジェーヌ・イザイ(1858〜1931)の結婚祝いのために書いた《ヴァイオリン・ソナタ イ長調》や彼の唯一の交響曲となった《交響曲ニ短調》など、現在フランクの代表作としてよく知られている作品を次々に作曲して注目されました。
教育者としてはヴァンサン・ダンディ(1851〜1931)やエルネスト・ショーソン(1855〜1899)といった、後のフランス楽壇を牽引する作曲家たちを輩出しました。後に彼らは『フランキスト』と呼ばれ、新たにフランス楽壇に台頭してくるドビュッシーら印象主義音楽と対抗することになりました。
1890年初夏にパリで馬車との接触事故に遭ったフランクは、その後の療養中に風邪を引いてしまいます。この風邪をこじらせたことによって胸膜炎にかかったフランクはみるみるうちに病状を悪化させ、11月8日に帰らぬ人となってしまったのでした。
様々な作品を遺したフランクですが、やはり彼の本分といえばオルガニストです。

数々のオルガン作品の中でも不朽の名作の誉れ高い作品が、オルガンのための《3つのコラール》です。
交通事故の後遺症に苦しみ胸膜炎で悪化する体調の中で書かれたこの曲は、フランク最後の完成作品となりました。フランクは1860年からパリのサント・クロチルド聖堂でオルガニストを務めていて、この教会に建造された

当時の著名なオルガン製作者であるアリスティド・カヴァイエ=コル(1811〜1899年)製作の3段の手鍵盤を擁する最新鋭のオルガンから豊かな着想を得ていて、特にこの《3つのコラール》の第3番にそのオルガンの特徴が効果的に用いられています。
フランクは作曲に際して、


オルガンの音色を切り替えるストップの指定のためにこの教会のオルガンへ再び向かうことを熱望していたといいます。しかしフランクの病状がそれを許すことは無く、その願いは叶いませんでした。
そんなわけで今日は、フランクの遺作ともいえる《3つのコラール》の中から第3番イ短調の演奏動画を転載してみました。フランクの創作活動の集大成とも言うべき名作の響きを御堪能ください。