今日も小学校支援級では様々なことがありましたが、その中で私が気になったことがありました。
中学年の男子が総合の授業を終えて帰ってきたのですが、ものすごく浮かない顔をしていました。こういう時は何かしら納得できないことがあった後なので、何が起きたのか聞いてみたのです。
すると、総合の時間は校庭に出て気づいたことをスケッチする時間だったようなのですが、その子が描いた

(イメージ映像)
校庭の隅に植えられた枝垂れ桜の描き方が
「違うよ」
と、クラスメイトから否定されたようなのです。それを聞いて、とりあえずその子の描いた枝垂れ桜の絵を見せてもらうことにしました。
そのスケッチには、まるで

『藤娘』の舞台にある松の木のような頑強な幹と枝ぶりの桜の木が描かれ、肝心の枝垂れ桜の枝は数えるほどだけしか描かれていませんでした。実際の枝垂れ桜はかなり満開だったので、幹ばかり立派で花が少ないことを指摘されたのかも知れません。
私はその枝垂れ桜の絵を観て
「立派な桜の木を描いたんだね。素晴らしいじゃない。」
と伝えました。その子は
「いいの?」
と聞いてきたので、
「自分がこう見えたのなら、それが『自分の枝垂れ桜』なんだよ。そこに正解も間違いもないの。」
と返したら、少しホッとしたような顔をしていました。
以前にもある古参の先生と私とで、子どもの描いた絵をめぐって衝突したことがありました。図工の時間に好きな乗り物を描くという課題があったのですが、古参の先生が支援級の子どもが描いた電車の絵を
「こんな電車どこにもないでしょ!」
と言って描き直しを命じたのを阻止したことがあるのです。
放課後、その先生と言い争いになりましたが、
「アートに明確な正解は存在しないはずです。もし先生が仰るような具象画のみが『正解』であるなら、

ピカソや

ホアン・ミロなんて大間違いではありませんか?」
と私が言ったら、半泣きになってブチ切れられました。結局その先生とは分かり合うことなくお別れとなりましたが、子どもの想像力を肯定できないなら図工の担当などすべきではありません。
今回の件でも、その時と似たようなニオイを感じました。こうした問題は、突き詰めれば
『芸術とは何か』
という根源的な問題に直面するようなことにもなりかねませんが、少なくとも子どもの感性を真っ向から否定するのは間違っています。
私は、その子の描いた枝垂れ桜を目一杯褒めました。彼らにはこれからも『自分か感じた世界観』を描くことに、躊躇しないでもらいたいと思っています。