昨日の台風14号の被害は、厚木市ではあまりありませんでしたが、午前中は台風がもたらしたねっとりとした南風にのった湿気が漂い、気温以上に暑さを感じさせる陽気となりました。ところが、昼過ぎ頃から風向きが変わったためか急激に涼しくなってきて、Tシャツ一枚だとちょっと肌寒いくらいになるまで一気に気温が下がりました。
小学校の子どもたちもこの気温の急降下に戸惑っているようで、むしろエアコンが寒く感じる子もいたようでした。涼しくなるのは喜ばしいことですが、あまりにも急激な温度変化は身体に堪えます…。
ところで、今日9月20日はシベリウスの祥月命日です。

ジャン・シベリウス(1865〜1957)は、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家・ヴァイオリニストです。フィンランドが輩出した最も偉大な作曲家であると広く認められていて、フィンランドが帝政ロシアからの独立を勝ち得ようとしていた最中、音楽を通じて国民意識の形成に寄与した『国民楽派』の作曲家としても知られています。
高校を卒業した後に一度は法律を学ぶために大学に進学したシベリウスでしたが、音楽への思いを断ち切ることができずにヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)へ進学しました。音楽院で本格的に作曲を学んだシベリウスは優秀な成績により奨学金を得てベルリンに短期留学し、帰国後に最初の交響曲である《クレルヴォ交響曲》を発表して大成功を収めました。
ロシア帝国による言論統制や圧政が高まる中の1899年、シベリウスは祖国フィンランドの民族意識を高らかに歌う歴史的な作品《フィンランドは目覚める》を発表しました。これは後に交響詩《フィンランディア》に編曲され、現在でも演奏機会の多いシベリウスの代表作の一つとなっています。
この《フィンランドは目覚める》の作曲によってシベリウスの名はフィンランド国内中に知れ渡るだけでなく、フィンランドを代表する作曲としてヨーロッパでも一躍知られるようになりました。その後、1917年に勃発したロシア革命をはじめとしたいくつかの争いの末にフィンランドは独立を宣言して自由を獲得するに至りましたが、シベリウスの作品もその活力の一端となっていたことは間違いありません。
その後のシベリウスは、1905年に《ヴァイオリン協奏曲 ニ短調》、1907年には《交響曲第3番 ハ長調》など今日でも世界中で愛奏されている名曲を次々と生み出しました。更に1915年には《交響曲第5番 変ホ長調》、1920年代に入ると《交響曲第6番 ニ短調》や《交響曲第7番 ハ長調》を完成させ、シベリウスは名実ともにフィンランドを代表する世界的作曲家となりました。
1955年にはシベリウスの卒寿を祝う特別演奏会が盛大に行われてその業績が讃えられましたが、そのおよそ2年後の1957年9月20日に、脳内出血のため91歳で他界しました。シベリウスという世界的作曲家の訃報は瞬く間に世界に伝わり、当時開かれていた国連総会では黙祷が捧げられました。
フィンランドでは国葬が執り行われ、シベリウスは妻アイノと長きに渡って暮らしたアイノラの家の庭に埋葬されました。12年後に亡くなったアイノもシベリウスの隣に埋葬され、現在はシベリウスと並んで静かに眠っています。
そんなシベリウスの作品の中から、今日は《交響曲第7番 ハ長調》をご紹介しようと思います。
《交響曲第7番 ハ長調》は《交響曲第6番 ニ短調》とほぼ同じ1910年代に作曲が開始されたといわれていますが、実際に完成したのは1924年のことでした。初演は1924年3月25日にストックホルムで、シベリウス自身の指揮で行われました。
《交響曲第7番》は単一楽章の交響曲で、初演時には《交響的幻想曲》と呼ばれていました。ただし、実際には3つの楽章形式で切れ目なく演奏される音楽といったほうが正確なようです。
《交響曲第6番》も似た傾向があるのですが、晩年のシベリウスは鬱病傾向にあったこともあってか、短い交響曲であるにもかかわらず作曲に思いの外長い時間がかかったようです。単一楽章であることもあって交響曲としては地味なものではありますが、シベリウスの最後の交響曲だけに円熟と深みが感じられ、とても美しく洗練された曲です。
そんなわけで、シベリウスの祥月命日である今日は《交響曲第7番ハ長調》をお聴きいただきたいと思います。シベリウスが交響曲として最後に遺した絶対音楽の集大成ともいえる作品を、楽譜動画と共にお楽しみください。