昨日帰宅途中、何となくあの女子高生達の態度と言動が忘れられず、もやもやとしたものを感じながら考えていました。
「どうして見も知らない人にあんな暴言を吐けるような子が出来てしまったのだろうか…?」
そう思いながら、ふと電車の車内広告を眺めていたら、その中にあった某大学の広告全面に、久しく忘れていた格言がデカデカと書かれていました。それは…
≪神なき知育は知恵ある悪魔を作ることなり≫
これは、かのガリレオ・ガリレイの言葉です。昔、ミッション系の学校に通っていた生徒が「学校でガリレオのこの言葉を習ったんだけど、別に自分はキリスト教徒でも何でもないから、全然ピンと来なかった」と言ってきたので、「それなら『神』の字の前に一文字足して『精神』としてみたら?或いは『畏れ』とか『倫理』とか『美学』と変えてみたら分かるんじゃないの?」と言ったら、ちょっとは腑に落ちたようでした。
覚えていらっしゃる方もおいでかも知れませんが、この言葉はかつてオウム真理教団による松本や地下鉄でのサリン事件か発覚して、信徒から続々と容疑者が逮捕された時に盛んに引用された言葉です。あの時逮捕された容疑者達は、東大や京大の理学部や工学部を主席で卒業したような、いわゆる『エリート』達だったわけです。本来ならば彼等は、その能力と技術力を遺憾なく発揮して、人々が幸せになるような研究や発明をするべき青年達だったわけです。それが、あの世にも恐ろしいサリンという殺人兵器を作り上げてしまったわけです。なぜそのような道に、あんなに頭のいい人達が踏み入ってしまったのか…その答えの一つが、先のガリレオの言葉に集約されていると思うのです。
古来人間は、自分の力では到底理解できないような事象に対して、畏敬の念を持って接してきた部分が多かったわけです。その後、科学を万能視するような傾向になってから、人間はどんどん不遜になってきたのではないかと思います。以前にも書きましたが、遺伝子工学の実験の一環として、ライオンとヒョウをかけ合わせたレオポンという自然界には存在しない動物を作り上げてしまったことなどは、その一例だと思うのです(ただ、この件に関してはその後、生命倫理的に問題がある…としてその後の交配は行われず、今は国立科学博物館に剥製が残るだけとなりました)。クローン技術や遺伝子組み換え等、人間の知的好奇心から足を踏み入れてしまった分野というものは数知れませんが、それでも今のところは『倫理』という現代版畏敬の念の自浄作用で、何とか一線を越えずに踏みとどまっているようです。正にここに先のガリレオの言葉が、ギリギリのところで生きていると言ってもいいのでしょうか。
オウム教団の科学者達はとても知能指数の高い人達でした。そこに至るまでには幼少期から並々ならぬ努力を経てきたのでしょう。しかし残念ながら、彼等が10代の青春期全てをかけて身に着けてしまったものは、正に『神なき知育』だったわけです。人は弱いもので、自分が身に着けた知識を実証したい、自分の目で結果を見てみたい…という誘惑に駆られることがあります。本来ならばそれを周りの人間との社会的関係性の中で「そこへ踏み込んではいけない」という精神的ブレーキをかけるのですが、オウムはそこを逆手に取って「やってみたいでしょう?見届けてみたいでしょう?」と、巧みに彼等の知的好奇心を揺さぶり、彼等もその甘露の蜜に抗することなく禁断の世界に足を踏み込み、結果多くの人々を死の淵に追いやってしまったのです。
勿論、この『倫理』に関したことは、彼等のような一部の人間に特化したことではありません。人を差別しない、いじめるなんてもっての外…昔祖父母から「お天道様に顔向けできないような生き方をするんじゃない」と戒められたことを思い出します。
私は明治生まれの年寄りに育てられてきたこともあって、普段の家の中での立ち居振る舞いに関しても、かなりいろいろと注意されてきました。曰く、やれ畳のヘリを踏むな、やれ敷居を踏むな、やれ人様に御挨拶する時にはきちんと手をついてつむじが見えるまで頭を下げろ…悪いことをした時には板の間に正座させられて順々とお説教もされました。そして、彼等の教えの中には必ず「世間に顔向けできないようなことをするな」という『畏れ』や、「人様に迷惑をかけたり、不快な思いをさせたりするな」という『美学』がありました。ところが、特に平成の御世になってからは、ゆとり教育だろうが詰め込み教育だろうが、この『畏れ』や『美学』なき『知育』しかされていないのではないか…と思うのです。そこに思いが至った時、最初の疑問についてピンときました。
10代までの人格形成期に一番必要なのは、人としてあらゆる角度からの『美学』を教え育むことです。それを、自分の経験を通して文字通り『教育』できるのは、我々大人に他なりません。他人との優劣に常に神経を尖らせ続け、あらを見つけて蔑むことでしか自己の存在を肯定できないようなつまらない子供を作ってしまわないように、我々大人の為すべきことは決して少なくありません。せめてこれからも気をつけて彼等若者達に目を配っていこうと、思いを新たにしたのでありました。
「どうして見も知らない人にあんな暴言を吐けるような子が出来てしまったのだろうか…?」
そう思いながら、ふと電車の車内広告を眺めていたら、その中にあった某大学の広告全面に、久しく忘れていた格言がデカデカと書かれていました。それは…
≪神なき知育は知恵ある悪魔を作ることなり≫
これは、かのガリレオ・ガリレイの言葉です。昔、ミッション系の学校に通っていた生徒が「学校でガリレオのこの言葉を習ったんだけど、別に自分はキリスト教徒でも何でもないから、全然ピンと来なかった」と言ってきたので、「それなら『神』の字の前に一文字足して『精神』としてみたら?或いは『畏れ』とか『倫理』とか『美学』と変えてみたら分かるんじゃないの?」と言ったら、ちょっとは腑に落ちたようでした。
覚えていらっしゃる方もおいでかも知れませんが、この言葉はかつてオウム真理教団による松本や地下鉄でのサリン事件か発覚して、信徒から続々と容疑者が逮捕された時に盛んに引用された言葉です。あの時逮捕された容疑者達は、東大や京大の理学部や工学部を主席で卒業したような、いわゆる『エリート』達だったわけです。本来ならば彼等は、その能力と技術力を遺憾なく発揮して、人々が幸せになるような研究や発明をするべき青年達だったわけです。それが、あの世にも恐ろしいサリンという殺人兵器を作り上げてしまったわけです。なぜそのような道に、あんなに頭のいい人達が踏み入ってしまったのか…その答えの一つが、先のガリレオの言葉に集約されていると思うのです。
古来人間は、自分の力では到底理解できないような事象に対して、畏敬の念を持って接してきた部分が多かったわけです。その後、科学を万能視するような傾向になってから、人間はどんどん不遜になってきたのではないかと思います。以前にも書きましたが、遺伝子工学の実験の一環として、ライオンとヒョウをかけ合わせたレオポンという自然界には存在しない動物を作り上げてしまったことなどは、その一例だと思うのです(ただ、この件に関してはその後、生命倫理的に問題がある…としてその後の交配は行われず、今は国立科学博物館に剥製が残るだけとなりました)。クローン技術や遺伝子組み換え等、人間の知的好奇心から足を踏み入れてしまった分野というものは数知れませんが、それでも今のところは『倫理』という現代版畏敬の念の自浄作用で、何とか一線を越えずに踏みとどまっているようです。正にここに先のガリレオの言葉が、ギリギリのところで生きていると言ってもいいのでしょうか。
オウム教団の科学者達はとても知能指数の高い人達でした。そこに至るまでには幼少期から並々ならぬ努力を経てきたのでしょう。しかし残念ながら、彼等が10代の青春期全てをかけて身に着けてしまったものは、正に『神なき知育』だったわけです。人は弱いもので、自分が身に着けた知識を実証したい、自分の目で結果を見てみたい…という誘惑に駆られることがあります。本来ならばそれを周りの人間との社会的関係性の中で「そこへ踏み込んではいけない」という精神的ブレーキをかけるのですが、オウムはそこを逆手に取って「やってみたいでしょう?見届けてみたいでしょう?」と、巧みに彼等の知的好奇心を揺さぶり、彼等もその甘露の蜜に抗することなく禁断の世界に足を踏み込み、結果多くの人々を死の淵に追いやってしまったのです。
勿論、この『倫理』に関したことは、彼等のような一部の人間に特化したことではありません。人を差別しない、いじめるなんてもっての外…昔祖父母から「お天道様に顔向けできないような生き方をするんじゃない」と戒められたことを思い出します。
私は明治生まれの年寄りに育てられてきたこともあって、普段の家の中での立ち居振る舞いに関しても、かなりいろいろと注意されてきました。曰く、やれ畳のヘリを踏むな、やれ敷居を踏むな、やれ人様に御挨拶する時にはきちんと手をついてつむじが見えるまで頭を下げろ…悪いことをした時には板の間に正座させられて順々とお説教もされました。そして、彼等の教えの中には必ず「世間に顔向けできないようなことをするな」という『畏れ』や、「人様に迷惑をかけたり、不快な思いをさせたりするな」という『美学』がありました。ところが、特に平成の御世になってからは、ゆとり教育だろうが詰め込み教育だろうが、この『畏れ』や『美学』なき『知育』しかされていないのではないか…と思うのです。そこに思いが至った時、最初の疑問についてピンときました。
10代までの人格形成期に一番必要なのは、人としてあらゆる角度からの『美学』を教え育むことです。それを、自分の経験を通して文字通り『教育』できるのは、我々大人に他なりません。他人との優劣に常に神経を尖らせ続け、あらを見つけて蔑むことでしか自己の存在を肯定できないようなつまらない子供を作ってしまわないように、我々大人の為すべきことは決して少なくありません。せめてこれからも気をつけて彼等若者達に目を配っていこうと、思いを新たにしたのでありました。