いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

舛添知事が問われるもの・・・「規則通りなので問題ありません」は正しいのでしょうか。違います。

2016年06月04日 23時57分22秒 | 日記

 東京都の舛添知事のことは、あちこちで言い尽くされている感じ
がしますし、この知事のことを批判するのは簡単です。批判は簡単な
ので、下手すると、えらそうに原稿を書いているようなことになり
かねません。
 ですから、あまり書く気はありませんでした。
 しかし、ご本人の開き直しがあまりにひどく、しかも、開き直っ
たまま逃げ切るつもりでいるように見えますので、書かずばなるま
いと思います。

 舛添知事の問題は、論点がたくさんあります。
 ここでは、二つに絞ってみたいと思います。
 ひとつは、「ルール」に違反していなければ何をしてもいいのか
ということです。
 もうひとつは、この問題で感じる不快な感情です。爽快な感情と
は、まったく正反対な不快感です。
 
 まず、「ルール」の話です。
 今回の舛添知事の問題は、もともと、海外出張の際、飛行機はフ
ァーストクラスを使うとか、ホテルは最高級のスイートルームに泊
まるとか、そのぜいたくな姿勢から始まっています。
 ファーストクラス、スイートルームの問題を批判されたとき、舛添
知事は、繰り返し、 
 「ルール通りです」
 「ルールには違反していないので、問題ありません」
 と答えました。
 
 都知事の出張規程に、ファーストクラスを使ってはいけないとか、
スイートルームに泊まってはいけないとか、書いてないから、問題
はない、ということなのでしょう。

舛添知事は、初めから、この「ルール通りなので問題ありません」
という言い方をしてきました。

 次に、週刊文春が、公用車で、毎週末、湯河原の別荘に通ってい
ると書きました。
 そのときも、舛添知事は、
 「ルール通りです」
 「規則通りなので、問題ありません」
 という言い方をしました。

 なにかというと、知事が公用車を使うときの規定は、出発点が都
庁であることだ、というのです。出発点が都庁であれば、行き先は
どこであろうと、公用車の使用規定には違反しないというわけです。
 湯河原の別荘に公用車で行くにしても、出発点が都庁だったら、
規則違反ではないと、枡添知事は、いうのです。

 さて、問題は、この「ルール通り」です。
 確かに、都庁が定めたルール通り、規則通りであれば、法的な問
題はありません。

公用車の問題の後、舛添知事の公私混同が、次々に表面化しました。
 そのすべてに、舛添知事は、
 「第三者に調査を依頼します」
 と答え、実際に、弁護士2人に調査を依頼したと話しています。
 
 弁護士が調べて、たとえば、
 「金額は多いけれど、ルール通りでした」とか、
 「都庁の規則には従っていました」
 という結論が出たとします。
 弁護士は、法律というルール、規則に照らして、ものごとを判断
するのが仕事です。
 舛添氏の依頼した弁護士が、舛添氏のお金の使い方を調べ、
 「舛添氏は、ルールには違反していませんでした」
 という調査結果を出したとすれば、弁護士という立場では、
 「ルールに違反していない以上は、問題ありません」
 という結論になってしまいます。

 舛添知事にしてみれば、
 「そうでしょう。私が正しかったでしょう」
 ということになり、かえって、弁護士からお墨付きをもらったこ
とになります。

 そして、たぶん、弁護士の調査報告は、
 「グレーゾーンもありますが、ルールを大幅に破ったというほど
ではありません」
 という結論になりそうです。

 そうなれば、舛添知事は、
 「私は、ルールを破ったわけではないので、問題はありません。
このまま、知事として職務を遂行します」
 という対応をするのではないでしょうか。

 ルール、ルール、ということを全面に出すと、そういう結論にな
ってしまうのです。

 どこかがおかしいでしょう。
 どこがおかしいか。
 それは、今回の舛添知事の問題は、
 「ルールに合っているかどうか」
 ではないからです。
 今回の問題は、
 「道義的な責任はどこにあるのか」
 「政治的な責任は取らなくていいのか」
 という点にあるのです。
 
 もちろん、日本は、法治社会です。
 何かあったとき、判断する基準は、法律です。
 これは、譲ってはならない。
 もし、だれかが、「正義」を振りかざし、法律とは別に、「正義」
で人を断罪するようなことがあれば、とんでもないことになります。
 それは、テレビの「必殺仕事人」の世界です。

 しかし、舛添知事の場合は、都知事という政治家、強力な力を持
った政治家、権力者です。
 政治家は、法律や規則を守るのは当然のこととして、さらに、そ
れとは別の道義的な基準が求められます。
 強力な権力を持っている以上、ただ単に規則を守るだけではなく、
自ら、自分を律することが求められます。
 権力者が、「ルール通りにすれば何をしてもいいんです」と言い
始めたら、社会は立ち行かなくなります。

 法や規則、ルールを決める時には、なぜその規則やルールを決め
るかという理由があります。
 規則やルールを文章にするとき、どうしても、細かい点で、書き
落としたとか、そこまで細かいことは書かなかったということが、
必ず、あります。
その場合は、なぜ、その規則やルールを作ったかという理由や背
景、考え方に立ち戻らなければなりません。
 法を作った考え方を「立法の精神」といいます。
 その法や規則を、なぜ、定めたか。
 大事なのは、その法や規則をなぜ定めたかという考え方、法の精
神です。

 舛添知事の場合でいえば、公用車を使うとき、出発点が都庁であ
ればいい、というのが、都庁の規則です。
 では、なぜ、そういう規則を定めたかというと、別にその規則を
定めた場面に立ち会ったわけではありませんが、理由は容易に推測
できます。それは、
 「公用車は、いやしくも、税金で運用している以上、私的な目的
で使ってはいけない」
 ということだと思います。
 もっといえば、
 「公用車を無駄遣いするなよ」
 ということでしょう。

 私的な目的で使ったはいけない、ということを、文章にしたとき
に、「出発点は都庁でなければならない」というふうに書いたので
はないかと推測されます。
「私的に使ってはいけない」と書いてもよかったのでしょうが、
しかし、「私的に」というと、どこからが私的なのか、分からない
ケースも出てきます。それなら、「出発点は都庁」としておけば、
簡単だろうと、そう書いたのではないでしょうか。

 舛添知事は、湯河原の別荘に行くとき、「出発点は都庁だから、
私は、ルールに従っている」と弁明するわけです。
 それは、まったく、その通りでしょう。
 
 しかし、公用車の使い方を決めた規則を作った「法の精神」「「立
法の精神」というものがあります。
 それは、「公用車を私的に使ってはいけない」「公用車を無駄使
いするな」ということです。
 出発点が都庁であろうが何であろうが、公用車のルールは、結局
のところ、「自分のことのために、勝手に使ってはだめだよ」とい
うことです。
 知事という都庁のトップにいる人であれば、この「法の精神」を
守らなければなりません。

 舛添知事に、決定的に欠けているのは、この「法の精神」です。
 舛添知事がやっているのは、「法の抜け穴」を探すことです。
 都庁から湯河原まで、毎週末、公用車で通う。ご自分でも、ちょ
っと無駄遣いかなという意識はあるのでしょう。だから、規則を調
べて、出発点が都庁なら問題ないということを確認した。だから、
「公用車の使い方がおかしいのではないか」と批判されて、「いや、
規則通りですから問題ありません」と答える。
 これは、典型的な、法の抜け穴を探すという行為です。

 都知事ともあろう人が、都庁の規則の抜け穴を探して、「私は規
則に違反していません」というから、おかしいのです。

 守るべきは、規則やルールだけではありません。
 規則やルールを守るのは、当たり前です。
 守るべきは、その規則やルールを作った考え方、「法の精神」で
す。

 そして、その法の精神を、政治的道義というのです。
 規則には、確かに、抜け穴がある。
 しかし、その抜け穴を利用したりせず、正々堂々、法の精神を守
って、行動する。
 それが、政治的道義です。

 舛添知事には、それが、もう、決定的に欠けています。

 第二は、この問題全体から来る「不快な感情」です。
 舛添知事は、ファーストクラスや、ホテルのスイートルーム、公
用車の問題、いずれも、「規則通りですから、問題ありません」と
大きな声で言いました。
 その問題点は、いま説明したばかりですが、それとは別に、「問
題ありません」と話すときの表情が、いわゆる「どや顔」なのです。
 どや顔というのは、「どうや、俺の言う通りだろう」というとき
の顔です。

 「公用車は都庁から出ているので、規則通りです」と答えたとき
の枡添知事の表情には、「どうですか、私の言ったこと、間違って
ますか?」「私の言ったこと、正しいでしょう?」「反論できない
でしょう?」という気持ちが、ありありと、うかがえました。

 この人の釈明は、この「どや顔」のオンパレードです。
 「私の言っていることは正しいんですよ」
 「どこか問題ありますか?」
 という、すべてが、そういうことです。

 公用車で、毎週末、湯河原の別荘に行く。
 もう、その一手で、普通の市民の感情から食い違っています。
 これが、民間企業であれば、アウトでしょう。
 NHKの会長が、休みの日にゴルフに行くとき、NHKの車を使
ったというので、猛烈に批判されたことがあります。会長は謝罪し、
車の料金を返却しました。しかし、これなど、せいぜい2回ぐらい
のことで、それも、会長の説明によると、ミスで配車してしまった
ということでした。
 そこへ行くと、舛添知事は、毎週末、公用車を使っていたわけです。
それを、「規則に違反していないので問題ありません」はないでしょう。

 スイートルームもそうです。
 舛添知事は、「都知事が、2流のホテルに泊まって、都民のみな
さんは恥ずかしくないですか」と話していました。これは、開き直り
そのものだと思いますが、この人のおかしなところは、自分では
開き直りだと思っていないようだということです。
 別に、だれも、都知事に「2流のホテルに泊まれ」とは言ってま
せん。そうではなく、「普通のホテルの普通の部屋に泊まればいい
のではないですか」ということです。まあ、知事ですから、「いい
ホテルのいい部屋」に泊まっても、だれも文句はいわないでしょう。
しかし、一泊100万円の最高級のスイートルームに泊まると、さ
すがに、文句を言いたくなります。
 きのうも、東京の地下鉄に乗っていたら、横にいた女性グルーう
プが、「あのホテル代、私たちが払った税金よね」「そうそう」「私
たちのお金で、最高級のスイートルームに泊まってほしくないわね」
と話していました。
 それが、普通の感覚です。
 スイートに泊まるのが、都庁の規則に違反しているかどうかは、
問題ではないのです。
 舛添知事は、そのことに、どうやら、まったく気づいていないよ
うです。
 あるいは、気づいているが、知らんふりをしているか。

 この原稿、書いていて、いやになってきました。
 ひとことでいえば、
 「なんとまあ、セコい人だなあ」
 ということです。
貧乏くさいのです。

 最高級ホテルの最高級スイートルームに泊まって、「貧乏くさい」
と思われるようでは、これはもう、最低ですね。