寺泊の町中通り ずい道の川端に碑の説明があり山側へ
初めてだが歴史が感じられる小さな神社
境内から日本海がよく見える高台に
寺泊は700年以前から遊郭があったようだし
明治のころにも公娼に 昭和6年で5軒あった
歴史のある町で北前船の海の交通の拠点として
栄えた所だから人の往来も多く 日本海側の三国街道の起点
地蔵堂から与板 長岡 三国方面へ
北国街道、野積~寺泊 山田 郷本 出雲崎に
北陸から 長野から
十返舎一九の滑稽旅がらす やひこのまちをうちすぎて、
なみうちぎわを たどりたどり3りばかりよきて てらどまりいふ
しゆくにつく(寺泊 山田)
井原西鶴の好色一代男にも 出雲崎いう所に渡り日和を待って明け暮れただも居られず船宿の主を招きこの所のなぐさみ女は
と尋ねれば いかに北国のはてなればとて 寺泊といふところに傾城町
有りいざ見せもうさばや
(好色一代男巻3)より
初めてだが歴史が感じられる小さな神社
境内から日本海がよく見える高台に
寺泊は700年以前から遊郭があったようだし
明治のころにも公娼に 昭和6年で5軒あった
歴史のある町で北前船の海の交通の拠点として
栄えた所だから人の往来も多く 日本海側の三国街道の起点
地蔵堂から与板 長岡 三国方面へ
北国街道、野積~寺泊 山田 郷本 出雲崎に
北陸から 長野から
十返舎一九の滑稽旅がらす やひこのまちをうちすぎて、
なみうちぎわを たどりたどり3りばかりよきて てらどまりいふ
しゆくにつく(寺泊 山田)
井原西鶴の好色一代男にも 出雲崎いう所に渡り日和を待って明け暮れただも居られず船宿の主を招きこの所のなぐさみ女は
と尋ねれば いかに北国のはてなればとて 寺泊といふところに傾城町
有りいざ見せもうさばや
(好色一代男巻3)より
寺泊 愛宕神社 遊女 初君の歌碑
1298年(永仁6年)佐渡配流の歌人 藤原為兼が大町の
五十嵐邸(聚感園のあるところ)北越の豪族 (此処にも歌碑有り)
古くてもう文字が読め無い100年くらいの歌碑もある
38日間風待ちをされた時、朝夕奉仕して旅情を慰めたのはこの地の
遊女初君でした
この間に,都の貴人と郭(ひな)の遊女は和歌を通じて心が通い
相互の愛情が芽生えたのであるそして、船出の時別れを惜しんで初君は
和歌を詠みました、
もの思い こしぢの浦の 白浪も 立ちかへるならひ
ありとこそきけ
この歌は後に勅撰の「玉葉和歌集)に載せられた。
1298年(永仁6年)佐渡配流の歌人 藤原為兼が大町の
五十嵐邸(聚感園のあるところ)北越の豪族 (此処にも歌碑有り)
古くてもう文字が読め無い100年くらいの歌碑もある
38日間風待ちをされた時、朝夕奉仕して旅情を慰めたのはこの地の
遊女初君でした
この間に,都の貴人と郭(ひな)の遊女は和歌を通じて心が通い
相互の愛情が芽生えたのであるそして、船出の時別れを惜しんで初君は
和歌を詠みました、
もの思い こしぢの浦の 白浪も 立ちかへるならひ
ありとこそきけ
この歌は後に勅撰の「玉葉和歌集)に載せられた。
小池工場団地から116方面へ途中の田んぼの多くの白鳥が
今ごろは田んぼの落穂か2番に延びた稲穂でも食べに来ているのか
前から近くで見られる あまり珍しくも無くなったが朝来て日暮れには
帰るんだが ここらだと佐潟からくるのか、グループがあるらしく
ところ所の離れたところに3~4グループに別れている、10羽から
30羽くらいの集団だ 佐潟まで毎日往復か これくらいなら
丁度良い運動の距離かも。
確かに人がえさを与えたりしないでも彼らは子供連れてきてえさの見つけ方や
危険を教えたりしているのか、 今年初めての子白鳥も 色がグレイ系が子供だ一緒に
遊んでいるようだし、我々は遠くから訪ねてくれることを楽しみにして
今はもう危害を加える人もいないと思うが、
今ごろは田んぼの落穂か2番に延びた稲穂でも食べに来ているのか
前から近くで見られる あまり珍しくも無くなったが朝来て日暮れには
帰るんだが ここらだと佐潟からくるのか、グループがあるらしく
ところ所の離れたところに3~4グループに別れている、10羽から
30羽くらいの集団だ 佐潟まで毎日往復か これくらいなら
丁度良い運動の距離かも。
確かに人がえさを与えたりしないでも彼らは子供連れてきてえさの見つけ方や
危険を教えたりしているのか、 今年初めての子白鳥も 色がグレイ系が子供だ一緒に
遊んでいるようだし、我々は遠くから訪ねてくれることを楽しみにして
今はもう危害を加える人もいないと思うが、