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(yottin blog)

新潟県と富山県と長野県 県境付近① 地形編 

2023年08月26日 08時37分45秒 | 地理
ここで紹介するのは富山県の西半分、即ち富山市から東部、新川郡と呼ばれる地域。 新潟県の西南部上越地方(上越線とは場所が全く違う)頚城郡と呼ばれる地域、長野県の北部地方、主に安曇郡、松本市、水内郡、長野市、栄村を結ぶラインの北側。

新潟県の西南部と、富山県の東北部が境界になっている
新潟県は糸魚川市、富山県は朝日町で戦国時代なら、どちらも上杉謙信の勢力下だった。
江戸時代は糸魚川は葵の家紋松平1万石、朝日町は加賀前田100万石の一部として幕末まで続いた。
新潟県の糸魚川藩に接する、長野県側の安曇郡は松本藩6万石の領地で譜代大名松平家が明治まで治めた。
またもう一つの越後、信濃の境界は現在の新潟県上越と長野県信濃町が国境で
上越側は高田藩15万石、藩主は多くの大名が入れ替わったが、明治時代を迎えたのは榊原家6代であった、また長野県側は松代藩10万石で、代々真田家が治めて明治を迎えた。

県境に沿って南に行けば長野県の後立山白馬三山から、北アルプスへと続く
では北へ向かい海に入るとどうなるか?
新潟と富山の県境には天下の険「親不知」の難所が明治の初めまで人々を苦しめた
山の上をいけば山賊にクマ、イノシシが出たであろうし、人を喰らう山姥(やまんば)もいたと言う。
それでたいがいは海岸の砂浜を歩いたが、冬は荒波が砂浜に押し寄せ、人々は数十メートルごとにある天然洞窟まで走っては隠れ、波が引けば次の洞窟まで走るの繰り返し。

そのむかし、上方から越の国へ赴任した役人の妻が夫に会うため、幼子の手を引いてはるばるやって来た。(平清盛の息子で源平合戦で唯一生き残った流人、頼盛の妻ともいう)
最大の難所、親不知にさしかかり浜に足を踏み入れたが、たまたまの大波に子供の手を離し、たちまち子供は波にさらわれて二度と帰らなかった
歎く母は「おやしらず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の泡と消えゆく」と詠んだそうな。

また親鸞聖人が都で罪人(宗教上の)とされて越後に流罪となり、弟子と流刑地に歩いて向かった。
親不知に差し掛かると波荒く、親鸞は冬の事とて寒さと恐ろしさで立ちすくんでいた。
すると屈強な地元民らしき男が来て「背中に乗ってくだされ、儂が向こうの村まで渡します」と言った。
親鸞は喜んで背中におぶさって、無事に向こうの村に着いた。
礼を言おうとしたら、もう男はどこかに消えてしまった・
もう夕方、辺りは暗くて親鸞は一軒の家に行って、一晩玄関先でも良いから泊めさせてもらえませんか」と頼んだが、夫婦はにべもなく断った。
仕方なく親鸞たちは玄関先で石を枕に寝たが、寒くて震えていた。

家の夫婦が、仏壇の如来さまを拝んでいると、家の中にある如来さまの足が上の方まで濡れて塩水が滴っている。
親鸞から、ここへ来るまでの話だけは聞いていたので、この如来さまが男に姿を変えて助けたのかと気づいた。
「これは、たいへんな名僧に無礼を働いた」と慌てて、道端の親鸞一行を家に入れてもてなした。
親鸞からありがたいお話を聞いた夫婦は、その後、自宅を更地にして寺を建てた。 その寺は今も親不知に会って、ご本尊は、その時の如来さまで「立ちすくみ観音」と呼ばれている。

このような難所伝説が多い親不知だが、明治天皇が全国を巡幸されることになり、さすがに輿であれ、馬であれ波間を走らせるわけにもいかず、断崖の中腹に国道を建設したのである。

その親不知の数百メートルの断崖が富山湾の東の端の縁へと一気に落ち込んでいく。
西に落ちていけば1000mを超える富山湾の最深部につながり、東に上がって行けば糸魚川市の沖合、早川という河川の河口辺りを境に東、即ち新潟市や佐渡方面に向かって、いきなり海は遠浅になり、陸から水深150mまでの距離はと糸魚川港からは300mくらい、40km離れた直江津港からは20kmくらいになる、いかに糸魚川沖から富山湾へは深く、直江津沖以北が浅いかわかる。
このあたりから陸に上がって南側、すなわち後立山から北アルプスの東端は、大糸線に沿って安曇野、松本平を抜け静岡までフォッサマグナ(大地溝帯)の西端となっている。

子どもの頃は姫川から諏訪湖につなぎ、諏訪湖から天竜川がフォッサマグナなのだと習った気がするが、その後、フォッサマグナが線ではなく、面であることがわかり、その範囲は富士山も含む関東一円となり、その東端ラインは今も不明なのだそうだ。
糸魚川と長野県の一部では西端を証明する露出面が発見されている。

フォッサマグナは当然、海底にもつながっていると思うが、その海底には大陸に向かって200kmとかの海底峡谷があるのだそうだ。
それはそれとして、もし海水が干上がれば、富山湾から立山連峰に向かって標高4000m以上の山脈がそびえたつだろう。
富士山は単独で美しいが、こちらはヒマラヤのミニ版、あるいはヨーロッパアルプスのような景色が現れるかもしれない。

新潟県から長野県へは峡谷沿いに容易に行ける、国道148、上越からは国道18が長野県へ続いている。

だが富山県から長野県を結ぶ峡谷道路はない、昔は旅と言えば徒歩が当たり前だったから、峠越えなら幾筋か富山県と長野県を結ぶ街道はある。
登山道ともなればさらにバリエーションは広がる。
一番有名なのは戦国時代、富山にいた柴田勝家の与力大名佐々成政が、秀吉に攻められて困り、浜松の徳川家康の救援を頼みに冬のアルプスを越えたという、サラサ越え、あるいは針ノ木峠越え、さすがに2500m級は・・・
ということでもっと北の低い方を越えたのではという説も出て来た。
たしかに小川温泉から朝日岳付近に出て大糸線方面に下りることもできる。
もっともそのあたりは秀吉と同盟した上杉景勝の領地でもあるから微妙ではあるが。

ともあれ、長野県と新潟県はフォッサマグナ上にあり、富山県は全く別のプレート上にある。
フォッサマグナは「地底の割れ目」と説明されていたが、それは半分当たって、半分外れている。
地底の二つの大プレートがぶつかり合っているのは確かで、その押される力で北アルプスが誕生したのもほぼ確かだろう
だがフォッサマグナは、沈み込んで行くプレートの境界あたりを底辺として
海底にあった時、そこに堆積した泥や様々な堆積物
その高さは6000mにもなったという。
フォッサマグナとは6000mの厚みを持つ堆積大地なのである、
姫川の東側は堆積大地で、西側は石灰岩層、すなわち海底で堆積した生物の死骸が固まってできた地質が隆起して山になっている。 だからセメント工場があり、鍾乳洞もあるのだ。

富山湾がどのようにできたのか興味があるが未だ知らない、学んでみたい。
私の想像では深い富山湾のすぐ上に3000mの立山連峰があることから
片方が落ち込み、その分、片方が盛り上がったような気がするが
しかし立山は火山である。 いったい何があったのだろうか?
富山湾に関連しているのは立山だけではない、能登半島が半円形に囲んでいる
なぜ、能登半島はあんな風に日本海に突き出たのだろうか?
富山湾だけが陥没したのか? 大きな河口なのだろうか? それとも隕石が衝突した穴なのか、周りの立山や能登半島は吹き上げられた、富山湾にあった土砂というか大地なのか?
だとしたら糸魚川沖まで深く、直江津沖から向こうが遠浅の説明もつく
親不知や能生、氷見に至る海岸に岩が多いのも、その吹き飛んだ石と思えば説明になる。
そうだ、富山湾と立山、能登は隕石衝突で出来たのだ
そして硬いプレートの富山県側は影響なく、やわらかなプレートの新潟県、長野県側に亀裂が走り峡谷が出来た(全くの暴走説です、気になさらないでください)。











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