上御霊神社の境内に「応仁の乱勃発地」の碑がある。
細川勝元を頭とする東軍の陣地を置いた「東陣」中心跡だ。範囲は、堀川通から東、一条通から北と、西陣と比べて非常に狭かった。
東軍は足利幕府の正規軍という位置づけで、後土御門天皇と後花園上皇の二人が東陣にいた。
応仁の乱は11年も続き、大規模な争いの中で京都の町は焦土と化し、東陣側細川氏と西陣側山名氏が和睦した形で終わった。
「西陣」は有名ながら住所にないように、「東陣」もその後の歴史によって消えてしまい、地元の人の意識にも残っていないようだ。
応仁の乱は、将軍の跡継ぎをきっかけに勃発した。
政治が嫌いで世継ぎにも恵まれなかった将軍の足利義政は弟の義視に家督を譲ることを定めたが、その数ヶ月後に妻の日野富子が義尚を出産、後継ぎにと幕府の重心・山名宗全に哀訴した。対して義視は、管領・細川勝元を頼り二大勢力が相争った。その勢力は「東陣」16万人、「西陣」11万人だった。
この室町幕府は、足利尊氏の頃から内輪もめが多く、最大の諍いが応仁の乱で、しかも皇室が南北2つに分裂した時代で、末期には戦国時代に突入する。そんなことから、iinaにとり嫌いな時代だが、茶道をはじめとする日本固有の文化が、この室町時代に花開いたと評価されているという。
とくに隠退した義政は、銀閣をはじめとする東山山荘の造営に余生を費やして、芸術の世界にのみ生き芸術保護したことが後の東山文化発展の基礎となり、後々の日本文化に大きな影響を与えたとされる。
将に問題児の義政に対する評価がこのように変容するから、歴史の評価はさまざまであり、難しくまた面白いといえる。
細川勝元を頭とする東軍の陣地を置いた「東陣」中心跡だ。範囲は、堀川通から東、一条通から北と、西陣と比べて非常に狭かった。
東軍は足利幕府の正規軍という位置づけで、後土御門天皇と後花園上皇の二人が東陣にいた。
応仁の乱は11年も続き、大規模な争いの中で京都の町は焦土と化し、東陣側細川氏と西陣側山名氏が和睦した形で終わった。
「西陣」は有名ながら住所にないように、「東陣」もその後の歴史によって消えてしまい、地元の人の意識にも残っていないようだ。
応仁の乱は、将軍の跡継ぎをきっかけに勃発した。
政治が嫌いで世継ぎにも恵まれなかった将軍の足利義政は弟の義視に家督を譲ることを定めたが、その数ヶ月後に妻の日野富子が義尚を出産、後継ぎにと幕府の重心・山名宗全に哀訴した。対して義視は、管領・細川勝元を頼り二大勢力が相争った。その勢力は「東陣」16万人、「西陣」11万人だった。
この室町幕府は、足利尊氏の頃から内輪もめが多く、最大の諍いが応仁の乱で、しかも皇室が南北2つに分裂した時代で、末期には戦国時代に突入する。そんなことから、iinaにとり嫌いな時代だが、茶道をはじめとする日本固有の文化が、この室町時代に花開いたと評価されているという。
とくに隠退した義政は、銀閣をはじめとする東山山荘の造営に余生を費やして、芸術の世界にのみ生き芸術保護したことが後の東山文化発展の基礎となり、後々の日本文化に大きな影響を与えたとされる。
将に問題児の義政に対する評価がこのように変容するから、歴史の評価はさまざまであり、難しくまた面白いといえる。
実際は東軍が勝つなんて想定外だったようです。
この関ヶ原を、やはり「空から日本を見てみよう」でいまおさらいしましたが、関ヶ原ウォーランドにはコンクリート像で配陣
してました。
実際に歩くと、戦場の生々しさを感じることが出来たでしょうか?
御霊神社の見学に来て、東陣を探し当てたことになります。
西陣から東陣に来ましたが、上があれば下があり、下御霊神社もありますから、それは京都御所の南南東
で行願寺の北に位置しています。
関連の神社仏閣をたどるのも面白く、また切りもありません。
また、gunkanatagoさんのブログを探すのも、gooブログ内をgunkanatagoで検索し、ヒット先の記事でアドレス
を知って、間接的にたどり着いた次第です。
http://blog.goo.ne.jp/gunkanatago/e/42cdef1c536f38093221d7d9c7d4e176?st=0
応仁の乱からの100年間、もう乱れに乱れに乱れて、一番おもしろいですよ。嫌わないで下さいね(笑)。
ぐい呑みをたくさん作っているのですね。
内輪もめして政府与党の力を削ぎ合うなんて、愚の骨頂です。
政治能力の有無によるのでしょうが、
無能力者はむかしもいまも変わらぬ傾向をとるようです。
(らいちゃん) へ
「千里の浜」が美しいです。
田辺の近くなのですね。近くには白浜がありますね。むかし、円月島や千畳敷と三段壁を見ました。
前田利常は、幕府の警戒を避けるために、故意に鼻毛を伸ばしてバカ殿を装ったといい、手鏡を差し出す
と「これは、お前たちを安泰に暮らさせるための鼻毛じゃぞ」と言ったと伝わります。
また、江戸城内で頭巾着用が禁止されているのに、利常だけが頭巾をかぶってきた。そこで儀式担当者が、
老中松平信綱に報告したところ頭巾着用が禁止となったのは、前田殿のような老人に御許しなさるため」
と諭したそうな。
むしろ、利常が「かぶき者」であったため、このような逸話が残るのかも知れません。
(tamirin) さん へ
お大尽ともなれば、猪牙船で山谷堀を巡って吉原を目指したそうな。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/99189d0838b8979e1d6ebc967cc6ee5d
(ぼたん) さん へ
”春から、縁起がイイねェ~!”
大物のKさんとは、誰でしょう ?
とうじん(当然)、誰だかわかんない ・・・
(ハイジ) さん へ
池袋の「東の西武と西の東武」は分かり難いです。
行け 袋小路に ! 、【池袋 工事に ! 】を誤変換。
そして、「東」は、いろいろ使われる名ですねナ。
東映、東宝、東芝・・・
今も昔も東と西は争いが絶えませんね。池袋も同じことが言えますね・・。
東の西武と西の東武です。
カッコイイです~!
しかし、東山文化がこの頃に花開き、今に伝わって、しかも世界遺産に登録されているという事実がせめてもの慰めですね。
浅野内匠頭のようにバカがつくほどの純粋な人もいれば、前田利常のように芝居上手な人もいます。
家族を守るためには世渡り上手でないとだめですね。
これを読んで感じたのは今の政治家には骨がないね~、世論におされてゆ~らゆ~ら・・・信念がないんだな~。
もっとも、自分の利益になることしか考えてないからね。