燃やしてはならない「消せない火」を私たちは燃やしてしまった ・その6

2019-08-28 05:37:16 | 日記

これからはじまる、混乱と不安

そして仲間との対立・解決の道が見えない長い道程

 

2011年3月17日

 

屋内待機の実態を知って欲しい

 

報道もされていますから知っていると思いますが、例えば現地から20キロから30キロ範囲の屋内待機の実態です。南相馬市は旧原の町を中心に合併した市です。

再度この南相馬市の実態を報告します。被爆地区として「屋内待機」となりました。市長が訴えていましたが、指定されたために、タンクローリー車が近くまできても入ってこないのです。また、地域の病院も、医局のスタッフが現地を離れ、残った地元の看護師によって看護が維持されているという「医療機能を失った病院」の存在です。 

エアコンは、換気を伴うということで使えません。灯油ストーブで暖房を取るのですが灯油がありません。これはどこの特老も同じです。このことは前日も報告をいたしました。

その南相馬市の放射能の値は福島市より低いのです。しかし、「汚染地区」と指定されますと、このような現象が起きるのです。

津波を生き延びた人が、そのあとの対応で死を選ばなければならない。これはつらいことですし悔しいことです。現に、ようやく収容された老人が、そのバスの中で死亡、あるいは到着先で死亡というニュースが報道されました。

行政(政府)は、自らが出した方針(政策)の行く先を、しっかり見極めることこそ「政治」であると考えます。

それにしても東京です。なぜガソリンスタンドに並び。ミルクや紙おむつの購入に走るのでしょうか。オイルショックの反省が生かされていません。でも考えてみますと、列を作る年齢層はあの時代の人ではないのです。ですからそれはやむを得ないとしても、あの時代に生きた人間が、その記憶を、しっかり子や孫に伝える責任があったと思います。 

そういう私の家には、コタツは暖かく、ストーブは燃えています。郡山に避難された方は集会所にいます。そこにはストーブが一つか二つ。コタツの中の私の頭に横切ったことは、避難所に行って高齢者か、乳飲み子を持つ母親の二名位なら自宅に連れてきて面倒を見てやれないかということでした。その程度の支援ならできると考えました。しかし、いつまでその面倒を見続けられるか、その二名が選べられるか。そんなことを考えると躊躇します。

結局は、向かいの一人暮らしの老女のところのチャイムを押すに留まりました。そして他にできることとしてメールの発信でした。一人でも多くの人に、とりわけ県外の人にこの事実を伝えよう。それならできる。

また支援に出かけるにしても自動車の油が少ないのです。ゼロにするわけにはいきません。

何人と交信を続けられるかわからないがせめてこの発信を続けよう。そしてこの発信を広めて頂ければと願って、今日もパソコンに向っています。