燃やしてはならない「消せない火」を私たちは燃やしてしまった

2019-08-24 05:17:49 | 日記

   これからはじまる、混乱と不安

      そして仲間との対立・解決の道が見えない長い道程

 

2011年3月15日  

     間が経過するにつけて、明らかになる大惨事

時間が経つにつれ、事の重大さを知りました。地震発生当時、私は市内の事務所にいましたが、ガマンができず外に飛び出しました。立ってはいられません。地べたに両手をついで四つんばいでした。 

帰った自宅は、足の踏み場も無い状況、家内は座布団を頭にかぶっていました。不思議とテレビはついていました。落下もせず、電源も消えず、アンテナも倒れていません。それでも余震は続いていました。 

しばらくして、映像に映し出されたのは大津波の恐ろしい光景でした。まだ我が家は、郡山は助かったと自分を慰めているところに、原発のニュースです。「揺れと津波と原発」のトリプル惨事です。

以来、私はこの時に生きている者として、これらの事実をしっかりと見据え、そしてこの記憶を記録に残そうと決心しました。      

 

2011年3月15日

戦争時の空襲の惨事を思い出す

本日の昼のニュースは自衛隊のヘリによる海水の放水。テレビの画面を見ていて、「これってどれだけの量が注水されているの」と疑問に思えるものでした。その合間に報道される津波による避難者の実態。今もって取り残されている住民の救出。死者、行方不明の数字が次々と発表されています。現地の感覚としては、犠牲者は2万名をはるかに超えるのではないでしょうか。

まさに、戦争の空襲の惨事を思わせるものです。押し寄せる津波の惨状、身を寄せる避難者の悲鳴など次らか次へと放映される。「もう嫌だ」とスイッチを切る。しかし、しっかりと目に焼き付けようとすることを覚悟したはずではないかと思いなおしてスイッチを入れた。 

そして原発である。「水素爆発」でむき出しになった建屋、そこには「緑色のまぶしいまでの四角の箱」があったはずである。それがない。

専門用語と数値の単位が耳に入ってくる。ますます不安になる。そしてあらゆる場面

が放映される。

   ままた余震が来た。「ぎしぎしと音をたてて揺れる」。