「特老に入れない・日本死ね!」
ブログを開設してから3年になる。76歳の手習いよろしく知人に手続きを取って頂き始めた。その際、知人曰く。「多くの訪問者を得たいと思ったら投稿を続けること」と。当初はこれを忠実に実行した。また開設の知らせをメール交信者に報告をしながらやってきた。だが、投稿すること自体が目的となり「材料探しに疲れる」と言ったこともあり最近はサボることが多くなった。
そして今回のアクセス解析のサービスを受ける中で、「一番読まれたページ」というところに「20代の若者が親の介護者に・その犠牲はあまりにも大きい」(2014・6・19)がさかのぼって取り上げられ、しかも、そのタイトルが解析期間中トップを続けた。この背景をあらためて考えた。
そこで「特老に入れない・日本死ね!」の言葉を発したくなった。「保育所落ちた・日本死ね!」の発信が、仲間を呼び国会前に集結し「野火」のごとく広まった。そしてそのうねりが政治の流れを変えようとしている。そうであれば「特老に入れない」も同様な意味を持たないだろうか。保育所は待機を覚悟しつつも切符を手にするために並ぶことができる。しかし、要介護1・2については「列に並ぶことさえもできない」。ましてや要支援においては論外となる。もちろん、保育所と介護施設の両者は異なる重さを持つ、天秤にかけられない。そこを承知であえて述べたい。今や介護は、高齢者の問題ではなく若者の問題にもなっていることを知る皆さんが上記のタイトルを選んだと理解したいがどうだろう。
進学、就職を選択できずに親の介護にあたる子ども、就職はしたが兄弟の中で一番離職しやすい独身の弟がその務めを引き受ける。多分、双方とも周囲は「お前に頼む、看取り後は援助をする、決して見捨てない」と述べた事であろう。
「退院をするとき、主治医は本人の在宅における主たる介護者を選ぶことを親族に求める」。しかし、その多くは退院日までに決めきれず、「責任逃れをし合う親族の光景」を見るのが悲しいと主治医が述べたことをブログに書いたことがある。先の見えない「介護」にあたっては尚更であろう。残念ではあり、悲しいことであるが避けることのできない事実である。そのことがブログ解析にも表れたと見るがどうだろうか。
ここにきて医療費・介護費は急増している。2025年には団塊の世代が一斉に「後期高齢者群」に突入する。それらを見据えての抑制策がすでに始まっている。しかもこれからますます加速するだろう。「年寄りに金を掛け過ぎる。子ども、若者にもっと金を回せ」との声も大きくなっていくだろう。しかし、その中でも決して少なくはない若者たちが「親の介護の結果、その後の一生が保障されない」という事実に直面する。果たして「年寄り偏重の政治」と断定できるのだろうか。ここに格差の問題が持ち込まれる。むしろ「格差による分断」がその本質と見るべきではなかろうか。
若者も、子どもも、女性も、「シングルママ・パパ」も、そして身障者の皆さんにも、同様な社会保障の手当のあることこそが政治であろう。これは容易ではないことは承知をしている。しかし、昨今の国会における「数を頼りに『アベノミクスの雫論』を展開し続ける政府」、その一つの表れでもある「黒塗りの審議拒否」の事実を見るにつけ、国民そっちのけの政府の姿勢にいら立ちを覚えるのは私だけだろうか。「日本死ね!」の発信は至る所にあると言っても不思議ではない。参議院選挙は、ある意味では時の政府に「鉄槌」を与える機会でもある。自・公の議席を減らすための「野党共闘」に「特老に入れない・日本死ね」の発信を持ち込みたい。みんな集まれ・・・・・。